御書四編

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叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず、
水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく・みなの御心は水のごとし信のよは(弱)きはにご(濁)るがごとし、
信心の・いさぎよきはす(澄)めるがごとし、
木は道理のごとし・風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ
(1262ページ)

願いが叶うか叶わないかは信心の厚薄によるのであり、大聖人の失【とが】ではないとの仰せです。
ともすると我々凡夫が陥りがちな「他力本願的」な考え方を、根本から打ち破られています。
この御抄を頂いた日厳尼は、ご供養とともに何らかの願いを書いた願文を、大聖人に送りました。
そこには御本仏に直接、願いを訴えれば、必ず願いを叶えてもらえるのではないか、との甘えがあったと考えられます。

順調な時はついつい感謝を忘れ、苦境に陥った時には不平・不満が出る、
あるいは、ふだんの地道な祈りと実践もなく、困った時にだけ御本尊を頼る、身勝手な信心であってはいけません。
どこまで行っても「心こそ大切なれ」であり、水の流れるような弛【たゆ】まぬ信心が大切です。

御書講義録には、次のように述べられています。
「願いが叶わないのは、御本尊に力が無いからではなく、信力、行力が弱いからである。
仏力、法力は無限である。
しょせん、甘えた信心だからであり、真剣な祈念を欠き、心の底から信じて祈っていないからである。
その心の不信が、そのまま現実の姿のうえに現れているにすぎないことを知るべきであろう」

御いのりの叶い候はざらんは弓のつよ(強)くしてつる(絃)よはく・太刀つるぎ(剣)にて・つかう人の臆病なるやうにて候べし、
あへて法華経の御とがにては候べからず
(1138ページ)

同様に、ここでは祈りの叶わない理由を、その人自身の臆病である、と断じられています。

彼等にはただ一えん(円)におもい切れ・よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ、
ひだるし(空腹)とをもわば餓鬼道ををしへよ、
さむしといわば八かん(寒)地獄ををしへよ、
をそろししと・いわばたか(鷹)にあへ
るきじ(雉)ねこ(猫)にあえるねずみ(鼠)を他人とをもう事なかれ、
此れはこまごまとかき候事はかくとしどし(年年)・月月・日日に申し
て候へどもなごへ(名越)の尼せう(少輔)房・のと(能登)房・三位房なんどのやうに候、
をくびやう(臆病)物をぼへず・よくふか(欲深)く・うたがい多き者
どもは・ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけそら(空)をきり(切)たるやうに候ぞ。
(1190ページ)

熱原の法難の渦中の人々に対して、善くなるなどということは不思議と思うべきであり、これからも、ますます厳しくなると覚悟を決めよ、との仰せです。
一般的にも、甘い観測を捨て、最悪の事態に対処してこそ、困難を乗り越えていけるものです。

餓鬼道や八寒地獄、食う食われるの動物の譬えは、残忍な権力者からの迫害に負けて退転したならば、今の飢えや寒苦や恐怖よりも、さらに深く逃れがたい三悪道におちてしまいます。
はるかな過去世から三悪道を流転し、今ようやく正法に巡り合って、そこから脱出できるチャンスをつかんだのです。
そこから逃れようとしている今、これら三悪道の苦が、ある意味では凝縮しておそってきているのです。
信心を貫き通して、根本の大苦から逃れ出る最高の機会なのです。

そして退転者の名を挙げて、彼らの本質には4つあることをご教示されます。
このことから逆に、信心において大事なことが何であるかが明確になります。

臆病 →勇気
物覚えず →求道心。学会指導を正しく理解し胸に刻む
目先の欲が深い →広宣流布・自他の成仏という大目的に生きる
疑いが多い →確信。不惜身命の信心。

この4行については池田先生の明確なご指導が、過去にありましたが、探しても見つかりませんでしたので、現状で調べ考えた私の考えです。

涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊(やぶ)る者を見て置いて呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し挙処(こしょ)せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨(あだ)なり、
若し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云、
此の文の中に見壊法者(けんねほうしゃ)の見(けん)と置不呵責(ちふかしゃく)の置(ち)とを能く能く心腑(しんぷ)に染む可きなり、
法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、
南岳大師の云く「諸の悪人と倶(とも)に地獄に堕ちん」云云、
謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし、
何(いか)に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、
うるし(漆)千ばいに蟹(かに)の足一(ひと)つ入れたらんが如し、
毒気深入・失本心故(しっぽんしんこ)は是なり
(1056ページ)

謗法と決して妥協するな、法華経の敵を責めよ、との叱咤・ご命令です。
挙処とは、謗法の者の罪を1つ1つ挙げて、責めることです。

うるし千杯・かに足一つの譬えは、膨大なうるしも、たった一つの蟹足【かにあし】を入れたことによって、ダメになり使えなくなります。
いかに一生懸命信心をしても、法華経の敵を見て折伏しないでいれば、謗法にも通じることであるから、無間地獄に堕ちてしまうという意味です。
改めて、私も折伏をガンバリます。
長文になりましてスミマセン。

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