「信心は観念ではない」
とはよく聞く指導だと思います。
つまり信心は、「頭の中の考え」ではありません。
どこまで行っても実践であり行動です。
行動とは、広宣流布であり立正安国であり自行化他の題目です、要するにそれらが全て含まれている学会活動です。
2回にわたり先生のご指導を紹介いたします。
まず、私が住んでいる苫小牧市を訪問された時に、先生は次のように指導されました。
一、“仏法は勝負”であり、「勝つ」ことが正法の証明となる。また、勝ってこそ新しい「歴史」はつくられる。負け戦では道は開けない。
負けることは、みじめである。都落ちし、壇ノ浦へと転落していく平家の哀れさ、悲惨さ。清盛なく、重盛【しげもり】なく、一族の柱を失ったあとで、だれも「勝てる将」がいない。
そうした状況を描いた、あるドラマでは、一人の母親が、息子のふがいなさに、「お前をこんなに勇気のない人間に育てた覚えはない」と嘆くシーンもあった。しかし嘆いても、取り返しがつかない。
一、「勝つ」ことが、自分のみならず、一家・一族、周囲の幸福につながる。
広布の前進においても、大法のため、大切な仏子のために、何としても勝ち抜いていかねばならない。
火花を散らすような峻厳【しゅんげん】なる攻防戦を勝利せずして、どんなに活躍している格好を見せても、もはや遊戯【ゆうぎ】にすぎない。「進んでいる」のではなく「踊っている」だけである。特に青年部に、このことを強く言っておきたい。
一、生まれてきた以上、何の歴史も残さないで死んでいくのでは、寂しい。どうか皆さま方は、自分としての何らかの「勝利の実証」を、この人生で、晴れやかに、誇らかに示していっていただきたい(大拍手)。
この先生のご指導を読んだのが、私は前に述べた入院先ででした。
しかも折伏は決めたものの、正に都落ちのような一時の敗北の姿で、帰郷したあとでした。
本当に不甲斐ない情けないその時の自分に下さったかのような、ご指導でした。
その後半にはこうあります。
一、もちろん「勝利」といっても、人生には、さまざまな段階がある。また、今は、苦闘のさなかの方もいらっしゃるにちがいない。
それでよいのである。大切なのは「最後に勝つ」ことである。そのために、信心を貫くことである。
野球も九回まである。途中までは、さまざまな明暗のドラマがある。途中の回まで、どんな姿であっても、九回の裏を終わった時にどうかが、すべてである。
学校も小学校、中学校、高校、大学とある。途中までの成績も大切かもしれないが、やはり大学を卒業した時点での実力が、学びの時代の総決算となる。
そして私どもにとって、「最後の勝利」とは、一生成仏であり、広宣流布である。悪世での正法流布を誓って生まれた久遠の同志、御本仏の仏子の軍勢が、どこまで進むことができるか。我が地域に、どこまで妙法の不落の砦【とりで】を築くかの戦いである。
一、個人も、団体も、国家の盛衰【せいすい】も長い目で見なければわからない。そして私たちは、常に最終の勝利のために、根本の「勝つ原因」を日々、つくっているのである。
ゆえに、私どもにとっては途中の一切が「幸福のこやし」になる。何ひとつ無駄はない。妙法は円教であり、「闕減(けつげん=欠けるところ)」がないのである。このことを確信していくのが信心の信心たる証である(大拍手)。
この勝負は途中では分からない、最後に勝つことこそ大事、とのご指導にどれほど励まされたか分かりません。
再掲しますが、以下の部分を改めて肝に銘じていきたいと思います。
火花を散らすような峻厳【しゅんげん】なる攻防戦を勝利せずして、どんなに活躍している格好を見せても、もはや遊戯【ゆうぎ】にすぎない。「進んでいる」のではなく「踊っている」だけである。
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