
ひまわり
大学会・豊島区合同研修会 1986年12月7日
謙虚な心に人間の輝き
先程も申し上げたように、学会の内外にわたり、私は、たくさんの人と会ってきた。そのなかには、理論にたいへんすぐれた人、また弁舌さわやかな人、話に説得力のある人、博学の人など、さまざまな才能をもつ人も多くいた。たしかに、こうした能力は指導者としてそなえるべき大切な要件である。
しかし、知識とか、すぐれた才能だけでは、信心とは別次元であることを知らねばならない。知識は知識の次元、どちらかといえば、仏法は智慧の次元であり、知識を生かしていく次元である。ゆえに知識で仏法がわかるものではない。そこに信心の重要性がある。
(中略)
ゆえに、一事が万事で、たとえ博学であり、高学歴をもち、社会的地位があっても、信心のことは、信心の深き実践者に学んでいくことが大事となる。我見で信心を推し量(おしはか)ることは、最も危険だからである。諸君は信心のあるべき姿だけは失わないでいただきたい。
退転者に共通することは、我見の人であることだ。また自己中心主義であり、増上慢である。御書に「未だ得ざるを為(こ)れ得たりと謂(おも)い我慢の心充満せん」(全226㌻)と仰せの通りである。どうか、深く大いなる自分を築くために、信心だけは、増上慢の心に染まることなく、謙虚に、純粋に貫いていっていただきたい。
さて、修利槃特(すりはんどく)について述べておきたい。修利槃特は、バラモン出身で釈尊の弟子である。(中略)大聖人は、富木常忍に与えられた「忘持経事」の中で「夫(そ)れ槃特尊者(はんどく・そんじゃ)は名を忘る此れ閻浮(えんぶ)第一の好(よ)く忘るる者なり」(全976㌻)と仰せになっている。つまり、修利槃特は、自分の名前さえ忘れたというから、これこそ世界第一の物忘れの人である、と。
また、この御書を、戸田先生は次のように講義されている。「槃特尊者というのは釈尊の弟子で、修利・槃特といって二人兄弟であったが、名前を忘れてしまって、どちらかの名前を呼ぶと、二人で返事する。自分の名前を忘れるのだから、忘れる方の豪傑(ごうけつ)です。だがお釈迦さんのいうことだけは信じて、仏になったのです」(『戸田城聖全集 第七巻』)と。
愚鈍であった修利槃特は、釈尊に教えられた短い教えを、ひたすら純粋にたもって修行し、ついには、小乗教の悟りの境地である阿羅漢果(あらかんか)を得ている。そして法華経にいたって、兄弟ともに普明如来(ふみょうにょらい)の記別を受け、成仏が約束されるのである。
(中略)
修利槃特の出家のいきさつについては、こう説かれている。兄の摩訶槃特は、生まれつきひじょうに賢かった。祖父母に連れられて釈尊の教えを聞きに行っているうちに、出家を思い立ち、祖父の許しを得て出家した。僧の守るべき戒めを授かり、仏の教えを聞いて熱心に修行したので、間もなく阿羅漢の悟りを開くことができた。摩訶槃特は自分の得た楽しみを弟にも分けてやりたいと考えた。そして、祖父に願って許しを得、弟の修利槃特を出家させたのである。
ところが、弟の修利槃特は、兄と違ってたいへんな愚鈍であった。兄から教えられた短いお経を四か月かかっても暗唱することができなかった。
この修利槃特が生まれつき愚かな理由については、次のようにある。彼は前世において仏のもとで出家したことがあった。そのとき、ひじょうに賢かったので、他の愚かな弟子たちがお経を暗唱できないでいるのを見て、あざけり笑った。その報いを受け、今の世で教えを暗唱しようと努めてもすぐに忘れてしまうような愚鈍の人となったのである――と。
これは、経典の説話であるが、生命の厳しき因果のうえからも、信心の世界においては、同志を侮辱したり、あざけるようなことは、絶対にあってはならない。仏法を信受した人を軽蔑し侮辱すれば、結局は自分自身の心を侮辱し、わが身を破壊するようなものである。はじめは事なきようにみえても、最後は、坂をころがり落ちるように、自らの功徳を消し、三悪道・四悪趣の道に入ってしまうのである。
また、修利槃特は、三年かかっても経文の一偈も覚えることができなかった。一方、提婆達多は、六万法蔵をそらんじたといわれる秀才であった。今でいえば、小学生と大学院を最優秀で卒業した人と対比できるかもしれない。しかし、修利槃特は、愚直の信心で成仏の境涯を得た。提婆は、仏弟子となりながら、釈尊に師敵対し、地獄へと堕ちている。
仏法の因果律は、厳しい。学問を身につけ、優秀であればあるほど、謙虚な信心が大切であると申し上げておきたい。広布の、一切の未来を担いゆく、若き俊英の諸君である。どこまでも、信心を深め、自身を磨きながら、広宣流布と創価学会の立派な後継者と育ちゆかれんことを心より祈り、念願して、本日の話とさせていただく。
(『人間と仏法を語る1』または、『池田大作全集第68巻』から)
【感 想】
このご指導を初めて読んだ時、私はとても意外に思った記憶があります。それは、過去世で修利槃特が実は、非常に賢い人であったとあるからです。しかし、その驚きはすぐに深い納得に変わりました。
修利槃特は知的能力が乏(とぼ)しいがゆえに、短い経文すら覚えられず、釈尊の教団の同志仲間からさえ軽蔑されました。しかし、釈尊だけは違っていました。修利槃特の可能性を深く信じ、修利槃特に温かく接し最大に尊重したのです。お釈迦様に応えようと、教えを愚直に実践した修利槃特は、やがて仏の記別を受けます。
私の身近に、私と同年配の知的障害の同志がおられます。平仮名と、小学1年生の漢字はやっと読めますが、それ以上の漢字は読むことができません。その人と接すると、ふっと現代社会や人間関係の複雑さから解放されて、人間として素朴な感情を取り戻すことができます。
地区の壮年部員さんということで、かれこれ30年近く関わってきたのですが、時々、生きづらさや悩みを言ってくることがあります。この間、数えきれないほど電話をかけてきて話を聞いたり、時にはその人が第三者に対し問題行動を起こしてしまったりもありました。
身近にそういう方がいることもあり、自分の持病とも併せて、自分なりに思索することが度々ありました。なぜ今世で障害を持って生まれ、生きづらさを感じながら人生を歩まねばならないのか。大聖人の仏法から様々な角度から論じられる所だと思いますが、本記事のご指導に一つの明確な示唆があります。
「彼(修利槃特)は前世において仏のもとで出家したことがあった。そのとき、ひじょうに賢かったので、他の愚かな弟子たちがお経を暗唱できないでいるのを見て、あざけり笑った。その報いを受け、今の世で教えを暗唱しようと努めてもすぐに忘れてしまうような愚鈍の人となったのである。」
生命は原因と結果です。厳しき因果律がある。修利槃特は過去世において、自身が陥った増上慢(同志誹謗)によって、今世にその悪業の報いを得たのです。今世で自分が苦しまねばならない原因は、他の誰でもない、自身が過去世に生命に刻んだものなのです。
そして修利槃特は今世で、仏の教えの実践を愚直なまでに貫き通し、その悪業を見事に宿命転換したのです。これに対して、六万法蔵を諳(そら)んじた提婆達多は、師敵対し生きながら地獄に堕ちました。
いまの自分の苦悩は信心の深い眼で見れば、誰が原因でもないのです。すべて自分が過去世に行なった行為の報いです。さらに一重深く見れば、人々に妙法を教え共に幸福を掴むために、自ら願って背負ってきた苦悩なのです。人間革命の実証を示すための、最高の舞台設定だと先生は仰っています。
喜びも苦しみさえも、仏法に一切無駄はない。すべてが活かされていく。師子吼の題目で、勇気凛々と前進していきましょう。

コメント
レオさん、修利槃特の記事をありがとうございます✨とても深い話だと思いました。仏法の因果は厳しいですね
「いまの自分の苦悩は信心の深い眼でみれば..自ら背負ってきた苦悩」
その通りだと思います。今、深い宿業と戦っている最中ですが、必ず宿命転換して実証を示していこうと決意しています!
ランさん、旦那さんの手術の成功、本当によかったですね。今までのランさんの信心の積み重ねが表れたのですね。
自分の妹も2年前に8時間の大手術を受けましたが、医療者や同志等の支えもあり、今は職場復帰を果たしています。
まだ気が張っていると思いますが、ご自身が倒れないよう休息も工夫してとられますよう。度重なる10時間題目もお疲れ様です。「まことの時」に強盛な信心で立ち向かう姿勢に、学ばせて頂いています。
自分も宿命転換中ですが、お互い変毒為薬していきましょう。