3)宿命転換
この折伏を決めたことによって、病にもなりましたが、必死に題目を唱えたぶん、様々な願いを叶えることができました。
その功徳の詳細はこちらをご覧下さい。
その上で、「なぜ折伏を決めたのに、病気になって苦しまねばならないのか」と当時は、ずいぶんと悩みました。
この悩みも振り返ってみれば、3000万遍もの題目を上げさせてくれ、学会活動、御書や教学に取り組む原動力になりました。
決して意味の無い試練ではなかった、と今にして強く思えます。
「昔の体験1~2」という記事では、職場で色々といじめや迫害を受けたことを述べ、「病と歩んだ23年」では心の病について触れました。
最高の信心を実践しているのに、無理解や誤解されたり悪口を言われたり、時には迫害されることもあります。
その理由は1つは、自身が過去世から法華経やその実践者の悪口を言って腐してきたことが、一番の原因です。
その悪業の報いとして、今世でいじめられたり様々な苦悩を受けるのです。
宿業はかりがたし鉄(くろがね)は炎(きたい)打てば剣となる
(p.958佐渡御書)
各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、
たとへばくろがね(鉄)をよくよくきたへ(鍛)ばきず(疵)のあらわるるがごとし、
石はやけばはい(灰)となる金は・やけば真金となる
(p.1083兄弟抄)
鉄(くろがね)を熱(やく)にいたう(甚)・きたわざればきず隠れてみえず、
度度せむれば・きずあらはる、麻子(あさのみ)を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、
今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし
(p.233開目抄)
剣をつくる時に刀鍛冶【かたな・かじ】は、鉄を火に入れて打って鍛えます。
その時に、不純物(=きず)が外に出ていきます。
折伏実践という生命の鍛えによって、生命のきず(=過去世の誹謗正法の罪業)が顕れて消し去っていくことができるのです。
しかも、信心をしていることによって軽く受けて、消し去ることができます。(転重軽受)
これが護法の功徳力です。
御本尊が無ければ永久に逃れられなかったであろう悪因を、今世で叩き出し、消滅させ、根本からの福運を刻むのが折伏行なのです。
信心していて苦しみがあっても、何十分の一に軽く受けていることを確信しましょう。
その苦しむ原因は自身の誹謗正法によるのですから、他人を恨んでも何の解決にもならないのです。
自行化他の唱題に励むことが、絶対の解決になって行くのです。
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コメント
Unknown
こんばんは。
・・・初めて訪問させて頂きました!
以前菊川さんのコメ欄で、レオさんの体験談を読んで「もし折伏や仏法対話を職場の人達にしてなくても心の病になっていたのかな」的な疑問が湧いてきた事を書いてました。
そうしたところ、こちらに補足記事があり、おお~と思いました。
折伏を決めたのに病気になったのは、「決して意味のない試練ではなかった」との事で、やはり必然だったのだと改めて思いました。
それと、
折伏実践という生命の鍛えによって、生命の傷(罪業)が顕れて、消し去って行く事が出来る。
しかも、信心しているから転重軽受。
↑この部分、大変納得致しました!!
目からウロコですm–m
みかんさんへ
ご多忙の中、お越し頂き嬉しく思います。
菊川さんのブログで、そのような話題が上がっていたのですね。
心の病と職場での折伏との因果関係は、無いと言えるでしょう。
折伏して大小の難が起きた場合、すべてのメンバーが心の病になる訳ではありませんね。
私の場合は心の病でしたが、発症するのはほんの一握りの人だけでしょう。
その人の過去世から積んだ因や使命によって、その人が担う苦悩や、遭うことになる難などは違いますから、現れる姿は千通り万通りでしょうね。
大事なことは、それらは人々を救うための仮の姿であることと、難を乗り越えて広布の使命を果たし切っていけば、必ずすべてを宿命転換して、その人らしくこれ以上無いという幸福境涯を確立して行けることです。
これが題目が不足したり信心が弱まると、確信をもって信じられなくなりがちですので、月々日々に強盛な信心で進むことが必要ですね。
少し長くなり、スミマセン。
ありがとうございました。
詳しく書いて頂きありがとうございましたm–m
とても納得致しました。
再び目からウロコでした。
ところで、聞いてみたい事があるのですが、よろしいでしょうか?
(と言いつつ書きますけどすみません^^;)
身近に、これまで大きな苦難を何度か乗り越えられてきたという大先輩の同志の人がいます。
その人の身内から超個人的に最近こういう事を聞きました。
前置きですが、その大先輩には苦難の原因になった複数の人がご自身の家族の中にいるそうっす。また、例えば多額の借金を何年もかかって完済したとか、世法的?には解決してきた幾つかの事象で、それらは15~40年程前の事になるそうっす。
で、今になって、その大先輩は、
「○○(苦難の原因になったご家族)に裏切られた思いで一杯」「裏切られた気持ちしかない」
「□□(苦難の原因になったご家族その2)を許せない気持ちで一杯」
とおっしゃっているそうっす。
私は、その大先輩が苦難を全て信心で乗り越えられてきたと思っていたので、その発言を聞いて凄く驚きました。
そして、信心している人生のはずなのに、大先輩は身内の方に、「私の人生、何がいい事があるって言うん!?」ともおっしゃっていたそうで再び物凄く驚きました。
力強く乗り越えた苦難を、今になってこのように言うという事の意味を、最近ずっと自分なりに考えていました。
そして出た答えが、その方は結局、苦難を信心で乗り越えていなかったのではないかという事っす。
変毒為薬していないとも言えますかね?
自分の出した答えは、どうでしょうか??
(遠いのに指導は必ず本部で受けられ、財務も毎年?3桁を保っていると聞いた事のある大先輩で尊敬する部分が大きいだけに、ちょっと信じられない気持ちがしています)
身近に聞ける人がいればよいんすけど、その大先輩の事は結構皆さんがご存じで、リアルに聞きにくいというのがあります^^;
なのでこの場でついでみたいに書かせて頂きましたが、長くなってしまいすみません(汗)
お返事を頂いたら、一言お礼位でとどめさせて頂きますが、宜しくお願い致しますm–m
また、不適切なコメでしたら非公開で結構っすm–m
みかんさんへ
みかんさん、引き続き宜しくお願いします。
その大先輩の方のことは正直言いまして、私の手に余ります。
その方にもみかんさんにも実際にお会いしたことは無く、断片的な文章だけ見て解答をするというのは、とても難しいです。
もし、みかんさんがその大先輩のことが気になって仕方が無く、ご自分の信心が揺らぐほどだったりなどあれば、その件に関して、みかんさん自身が信頼できる上の幹部に指導を受けられた方が良いと思います。
その上で私が思ったのは、次の通りです。
数々模範的な信心をしているようでも、おかしな言動が耳に入ってきたり、迷惑を掛けた人たちへ恨みを言ったりしているのですね。
凡夫という面では心情的に普通の反応であったり、単なる1つの泣き言であったり、許容できる範囲内ではないのでしょうか。
信心何十年といっても、成仏といっても、人間とかけ離れた何か特別な存在になる訳ではありませんね。
偉大なる凡夫仏とも言われています。
あと、単なるお人好しではいけない、それでは会員を守れない、悪人に利用されるだけである。
悪とは断固として戦う勇者が、仏であり菩薩である、とのご指導もあります。
さらに、組織で大きく団結を乱したり、広布を邪魔するようなことはしてないようなので、大目に見てあげる部分があっても良いのかもしれません。
もし、その人によって不信感をもってしまう会員が居るなら、角が立たないように直接注意してあげる勇気も必要かもしれません。
ご自分でできなければ、幹部にお願いしてもいいと思います。
以上、いかがでしょうか。
余り役に立たなかったらスミマセン。
基本的に、私も地元組織で一杯でして自分のハンデもありますし、ネット上でまでご相談に乗ったりは限度があると思います。
Unknown
ありがとうございましたm–m
納得しましたm–m!!!
はじめまして
レオさんへ
初めて訪問させていただきました。
ネット初心者の婦人部の者です。
レオさんの体験、非常に感銘を受けました!
生の声が聞ける、こういった場を提供して下さることに、深く感謝いたします。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。
みかんさんへ追伸
>さらに、組織で大きく団結を乱したり、広布を邪魔するようなことはしてないようなので、大目に見てあげる部分があっても良いのかもしれません。
>もし、その人によって不信感をもってしまう会員が居るなら、角が立たないように直接注意してあげる勇気も必要かもしれません。
>ご自分でできなければ、幹部にお願いしてもいいと思います。
私の返信のこの部分が見当違いで誤りでした。
その大先輩の方はあくまで被害者であり、迷惑をかけられた方なので、この言い方は当てはまらないです。
団結を大きく乱すとか、広布を邪魔するとか、どこにもそんなことは言及が無いのに、見当違いをし大げさに書き過ぎました。
もう一度言い直して良ければ、「心こそ大切なれ」「現当二世の信心」がピッタリだと思います。
どれだけ模範的行動を重ねてきていても、大きな苦難を乗り越えて来たとしても、信心何十年の経験があっても、これでよいと慢心し前進や成長を忘れてしまえば、後退の信心になってしまいます。
その意味では、過ぎ去った過去がどうあったかでなくて、常にこれからどうするか、今どう戦うか、ということが大事なのです。
さらに、遠い本部まで必ず指導受けてるとか、財務3桁とか、度重なる苦難を乗り越えてきたとか、確かにそれらは凄いことであり、模範的です。
しかしだからといって、信心の無い言動をしてよいのだ、何を言ってもよい特別な存在なんだ、ということはありません。
例え、どれほどの功績を上げたとしても、信心の心を無くしてしまってはいけません。
肝心の、心こそ大切なれ、ということを忘れてしまったならば、人より優れている、これほど戦ってきた等の事柄も、一気に色あせてしまうのでしょうね。
paceさんへ
paceさん、ようこそお越しいただきました。
私の体験に感銘してくださり、有り難く思います。
paceさんのそのようなメッセージが、本当に励みになります。
このブログもいつまで続けられるか、いつ卒業となるかは分かりませんが、これからも宜しくお願いします。
これからのネット・ライフを楽しんで有意義なものとして行かれますように。
Unknown
こんばんは。
追伸コメありがとうございましたm–m
「心こそ大切なれ」。本当に、信心はこれに尽きるなって凄く思うっす!!
まさに・・・・。
ちなみにこんな自分にも信心を軸に乗り越えた事(自分にとってはそれなりの苦難でした)があるんすけど、相手(他人と身内)がいました。
本当色々ありましたが、「信心で乗り越えるんだ」と決意した瞬間から、実際悪いのは相手だけど、結局苦しんでいる自分自身の問題だとすんなり受け止める事が出来たし、乗り越えたら、相手が云々・・のマイナスの感情はますます一切なくなりました。
(自分の心も、世法的にも、最善の形で解決できました^^!)
だから、その方(大先輩)がいまだに&今になってご家族を許せないとか、今も過去の事にこだわってしまいずっと苦しまれている事が、普段の姿や信心の言動からかけ離れたものに感じられて、本当に驚きでした。
「私は全部、自分の力だけで人生を切り開いてきたんだ!」という言葉も、以前は「わ~さすが!」と思っていました。
信心で乗り越えて変毒為薬するという事は、相手がどうこう(悪い、憎い、許せない等)なんていう思いはミジンコもないはず・・・。
最近はずっとその方の事を、「心の苦しみや不満が取り除かれますように」と祈らせて頂いています。
過去の事もそうっすけど、実は様々な事に不満を感じやすい方だというお話を身内の方から聞きました。
その方に対して尊敬する部分があるのには勿論変わりありませんが、表面的な事象や姿だけでは、人の心はわからないものだな・・と改めて感じました。
自分も、「心こそ大切なれ」で純粋で清らかな信心を貫きたいっす。
色々とありがとうございました!
みかんさんへ
みかんさんも色々と乗り越えられて、今があるのですね。
その大先輩は不満を感じやすい方でもあったのですね。
みかんさんは、陰ながら題目を送っているのは素晴らしいです、なかなか出来ることではないです。
尊敬する方であっても、表面的な姿では、人の心は解らない、とのこと、確かにそうかもしれません。
みかんさんの問題提起によって、私も勉強になりました。
1つ思いましたのは、生命は十界互具ですから、仏界や菩薩界の中にも三悪道・四悪趣の命もあります。
ある意味、そういう命を消し去ることはできないのでは、と思います。
心理学や精神医学でも、あるべき姿やあるべき心に捉われ過ぎると、抑圧や葛藤が生じ、日常生活のどこかにその歪みが出てくるそうです。
やはり、実相を正しく見ること、つまり生命をありのままに捉えることが、大事なのでしょうね。
その意味でも「六根清浄」という信心(題目)の功徳に、改めて重要な意義を感じます。