いよいよ今年も残すところ10日を切りました。
皆様にとってどんな一年でしたか、来年はどいういう一年にしたいですか。
私は題目根本に、度重なる激戦を、自分らしく戦い切った一年でした。
来年も着実に、信心の戦い、生活面の両方で大前進して行きます。
ここで今年は最後になると思いますが、御書三編をともに拝読しましょう。
大地はささばはづ(外)るるとも虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも・潮のみ(満)ちひ(干)ぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかな(叶)はぬ事はあるべからず、
(1351ページ)
絶対にありえないことが起こったとしても、法華経の行者の祈りが叶わないことはありえないと仰せになって、法華経の行者の祈りは絶対に叶うことをご断言されています。
1.大地を指差して外れること、
2.天空をつなぐ者がある、
3.潮の干満が無くなる、
4.太陽が西から昇る
これらは1つとして起こり得ないことばかりです。
確率で言っても1万分の1=0.01%も起こり得ない。
これら異常なことが、例え起こったとしても、法華経を実践する人の祈りが叶わないということは、断じて無い。
正しい実践をしているならば100%祈りは叶う、との大確信のご断言です。
道理に合わないことが万が一起こるようなことがあったとしても、最高の道理である妙法の祈りが叶わないことは絶対に無い、必ず叶うのです。
なぜ祈りが叶うのかと言えば、それは諸天善神が守護するためであり、その根本は御本尊の仏力・法力によるのです。
日寛上人は観心本尊抄文段で次のように述べられています。
「十方三世の恒沙【ごうしゃ】の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸【ことごと】くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉【しよう】同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫【しばら】くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則【すなわ】ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来【きた】らざるなく、理として顕れざるなきなり」
御本尊を深く信じて題目を唱える私たち1人1人の信力・行力によって、御本尊の仏力・法力があらわれ、いかなる祈りも叶うのです。
始より終りまで弥(いよいよ)信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん、譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩(あゆみ)をはこ(運)びて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠(なが)め候べき、
(1440ページ)
最初はやる気満々であっても、1つのことを何十年と貫き通すことは難事です。
まして正しい道であればあるほど、その途上には障害がつきものです。
一度立てた誓いも、ともすれば時とともに決意が薄れてしまい、あともう少しで成就するという最後の肝心な所で、あきらめ投げ出してしまうことが往々にしてあります。
富士山へ登る登山家は、最後の約900mが一番険しく苦しいそうです。
これは胸突き八丁と言われ、「物事を成し遂げる上で、一番苦しい正念場」との意味もあります。
都の月(=祈りの成就と歓喜) を味わうためには、最後の一歩まで歩み通さねばならないのです。
日蓮が弟子檀那等・正直捨方便・不受余経一偈(しょうじきしゃほうべん・ふじゅよきょういちげ)と無二に信ずる故によつて・此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり・たのもし・たのもし、
如何(いか)にも後生をたしなみ(嗜)給ふべし・たしなみ給ふべし、穴賢・南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤(もっと)も大切なり、
信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす、
(1244ページ)
他の方便の経への執着を一切捨てて、ただ御本尊を信じることで、自己の生命に仏界をあらわすことができます。
どんな時も南無妙法蓮華経と唱えて、成仏の軌道を歩み通すことが最も大切です。
それは、ひとえに信心の強さにかかっているのであり、どこまでも強盛な信心に立つことが大事です。
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