魔をば奪功徳者と言う -難こそ誉れ

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御書の一節と、先生のご指導を学びましょう。

仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓・同時なるがごとし、法華経の行者あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮木に値うなるべし。
(開目抄下p.230)

 

仏法は、いかなる宿命をも転換できる、幸福の大法である。生命を根底から変革する力がある。民衆のための仏法である。ゆえに、人々を意のままに操り、欲望を恣(ほしいまま)にしようとする「権力の魔性」からは、激しい反発を受ける。正義の人が立てば、それを妬む邪悪な人間が出る。御書に「仏と提婆とは身と影とのごとし」と仰せの通り、釈尊の時代には悪逆の提婆達多がいた。

麗しい和合を壊し、尊き仏子を苦しめ、五逆罪を犯した。最後は無間地獄に堕ちた。提婆達多は、教団の実力者であった。釈尊の声望を妬み、追い落とそうと、陰謀をめぐらしたのである。広宣流布を阻む最大の仏敵は、教団の外ではなく、中に現れる。邪宗門と結託した反逆者も、そうであった。日蓮大聖人は、提婆達多は「虚言」「虚誑罪」「大妄語」であると指弾され、「妬む心が深く」(御書1349㌻、通解)、「名聞名利が深い」(同1348㌻、通解)と喝破されている。広布を破壊する、提婆のごとき増上慢の人間とは、断じて永遠に戦い抜くのだ。

イギリスの哲学者、J・S・ミルは「だれが責任をとるのかを、だれも知らないときには、責任は存在しない」(水田洋訳『代議制統治論』岩波文庫)と論じている。万事において、責任を明確にして前進していくことだ。誰かがやるだろう。何とかなるだろう──そんな無責任で、臆病な人間になってはならない。民衆がいじめられ、正義が踏みにじられているのに、何も言わない。叫ばない──そんな卑怯な人間に、絶対になってはならない。
(全国代表協議会 2009年4月14日から)

 

創価三代の会長

 

御聖訓には、「魔をば奪功徳者といふ」と仰せである。また、「魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ」とも説かれている。すなわち、魔とは、功徳を奪い、仏にならんとする正しい人をば、苦しめ、傷つけ、善を打ち倒さんとする。だからこそ、私は、この邪悪にして、強力なる悪業の者たちと、真正面から戦う決心をした。「各各我が弟子となのらん人人は一人も臆しをもはるべからず」と、日蓮大聖人が断言なされている通りだ。

(中略)断固として、私は立ち上がった。そして戦った。美事に正義と勇気の大使命の本陣を、私は護ったのだ。傷も多かった。あらゆる中傷批判を浴びた。しかし、私は、尊き創価学会を護ったのだ。(中略)いかなる卑劣な魔の大攻撃にも絶対に揺るがぬ、大善の連帯を! 尊き民衆の正義のスクラムを! そして、使命と使命の鉄の団結を、私は新しく創り始めた。そのために私は、最も基本である家庭訪問に走った。最も根本である個人指導に奔走した。いわゆる目に見えぬ土台の部分から、創価学会が使命とする「広宣流布」の重要な組織を、再び命の限り築き上げていったのである。

(中略)ただ黙ったまま、動きもしないで、情勢が変わるわけもない。まことの時は、いつになっても来ないであろう。増上慢の限りを尽くす宗門に対し、ふぬけになった幹部らの不甲斐なさにあきれて、私は一人、強い決心で、反撃に出た。会合に出られないなら、一軒一軒の家を回るのだ! 一度に大勢と会えないなら、一人一人との出会いを積み重ねていくのだ! これが、私の断固たる決意であった。闘魂の炎であった。
(創立80周年へ創価の上げ潮 2004年9月3日 随筆・人間世紀の光2 池田大作全集第136巻から)

 

今年も4・24が5・3が間もなくやって来ます。新型コロナ対策により家庭訪問は一切自粛で出来ませんが、手紙でも電話でもSNSでも、方法はいくらでもあります。自分に勝利して5・3を迎えていきます!

 

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