法華経の智慧-嘱累品から

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●嘱累品 虚空会──「付嘱の儀式」の完成 「法華経の智慧」から

池田 弟子の側から言えば、「私が全部、苦労を担っていきます」というのが「嘱累」です。それで師弟相対になる。師弟というのは、厳粛なものです。師の一言でも、どれだけ真剣に受けとめているか。「すべて実行しよう」と受けとめるのが弟子です。師匠の「口まね」をするのが弟子なのではない。「実行」こそ「弟子」の証です。

 (中略)
斉藤 (三摩の付嘱において)頭をなでるというのは面白いですね。
須田 「苦労をかけるが、頑張ってくれよ」という心でしようか。「嘱累」ですから。
池田 そうも言えるでしよう。「頭をなでる」というのは、まあ、頼りない子どもに「いい子だから、ちゃんとやるんだよ」と言っている感じにもとれる。
須田 相手は、神力品とうって変わって、迹化の菩薩がいっぱい入っていますから、優しい託し方ですね。
遠藤 本化・迹化、両方含めた「総付嘱」ですから。
斉藤 低いレベルのほうに合わさざるを得ない(笑い)。

池田 本当に信頼している弟子には厳しいのです。全魂を打ち込んて訓練し、一切を託していく。戸田先生は言われていた。「牧口先生に、かわいがられた弟子は皆、退転し、先生に背いた。おれは先生には、ただの一度もほめられたことはなかった。しかし、おれはこうして、たった一人残って、先生の後を継いで立っている」と。

私も戸田先生から、だれよりも厳しく訓練を受けた。くる日も、くる日も、”無理難題”ばかりだったと言っていい。門下生の中には「自分は戸田先生に大事にしてもらった」「かわいがってもらった」、そう思っている人もいた。それはそれでいい。しかし、大事なのは、師匠の意図を「実現」していくことだ。また、格好だけ、師匠の「まね」をした人間は皆、おかしくなっている。戸田先生の時代もそう。私の時代もそうです。弟子には弟子の道がある。弟子の道は「実行」あるのみです。さらに深く見るならば、「三回、頭をなでる」というのは、師匠の「身口意の三業」そのままを、弟子が実行していけという意味ともなる。


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