人間革命の何巻であったか忘失したが、戸田先生がある男子部幹部を烈火の如く叱られる場面がある。
その男子部幹部は、職場に頻繁に遅刻し同僚にひんしゅくを買っていた。
そればかりか、いつどこに消えたのか行動が見えないことが多かった。
戸田先生はその男子部幹部に対して、
「仕事を疎【おろそ】かにして、折伏に飛び回っているような者は、私は断じて信用しません」
と烈火の如く叱れられました。
その男はやがて議員にもなりますが、いつしか信心が解らなくなり退転してしまう。
仕事はともかく折伏実践には飛び回っていても、烈火の如く叱られる。
信心とは誠に峻厳であります。
まして、仕事も信心実践も、何かと言い訳を弄してサボり、口先だけさも立派な言説を弄し並べ立てるような輩は、いかほどにお叱りを受けることか。
対話すると戦えない理由を、
「いま、~~~の悩みがあって、それどころでない」
という人がよくいる。
そういうひとは、1つの悩みが解決したとしても次の新たな悩みが来るので、永久に戦えないことになる。
いかなる悩みがあったとしても、悩みを抱えながら、その解決を賭けて果敢に戦うのが、正しいあり方である。
さらに退転者へのご指導では、退転者というのは、まず生活が乱れている。
よく金・女(異性)・人事と言われるが、職場に遅刻を繰り返したり、酒びたりだったり、勤行してないのにしていると嘘を言ったり、地道な学会活動をバカにして、それが生活の乱れに現れる。
そしてそうした乱れ切った自己の生活・信心を、ともかく自己弁護して正当化しようとする。
正面からそれを指摘してくれる人に対して、あろうことか逆上したり、注意してくれる人に感謝もできず暴言を吐いたりする場合もある。
信心とは、単なる小難しい法理の積み重ねではない。
御書もいくら全編拝読したり全編を丸暗記したり、駆使できようとも、たった1つの御文であっても命を懸けて実践し体現した人の方が、百千万億倍優っている。
百万の御書をそらんじて実践しない者より、1つしか御文を知らなくとも実践する者の方がはるかに優っている。
本当に信心とはどこまでいっても「心こそ大切なれ」である。
「秘とは厳しきなり、三千羅列なり」とある如く、信心に一切の妥協はないのである。
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コメント
レオさん こんにちわ。
記事の最後のほう、なんかすごく痛かったですよ(笑)
あいたたたたた、俺? 俺のこと? 痛い、痛いってばぁーって^^
でも、どう捉えるかで変わる! そう思って必死に題目あげました。
少しだけ、痛みを勇気に変えられたと思ったので、ご報告に来ました。
そうなると、記事に感謝の気持ち一杯というわけです。
ありがとうございます。
イプシロンさん、日々の戦いご苦労様です。
あの記事は書こうと思ったきっかっけはありましたが、前から何度か人にも言い、自分にも言い聞かせて来たものです。
御宮仕え=仕事 を
法華経とおぼしめせ=御本尊のごとく思って大事にしていきなさい
学会指導にも、
「仕事は3人前、信心は1人前」
とあります。
御書も学会指導も「それは知ってる」では全く意味がありません。
頭で分かるのと、信心で分かるのは天地雲泥の差です。
1歩も引かぬ執念で五体を叩きつける思いで命に刻むのが、信心で分かるということだと思います。
あと水面を優雅に泳いでいる白鳥も、その水面下では水かきを使って必死に漕いでいます。
人も同じです。
表面上はどんなに優雅そうに見える人でも、陰では人知れず命懸けの努力をしているものです。
信心は「陰徳あれば陽報あり」ですから、世法以上に陰の戦いが最大事です。
誰も見ていない時に、1人の時に、どこまで戦えるか、己を厳しく律することができるか。
自分がそこに徹することができてこそ、陰の人の戦いに気付くことができ、真の称賛と感謝ができると思います。
怠惰な生き方をしている人は、どんなに弁解しても、「類は友を呼ぶ」で似た者同士が寄り集まって、管をまくようなことしかできない。
堕落を防ぎ打ち破ってくれる御本尊に、心から感謝ですね。
2つ目は、幸せはどこか遠くにあるのではない。
「いつか時がくれば働こう」
「いつか環境が整ったら働こう」
では、幸せは先へ先へと逃げていくものかもしれません。
今為すべきことを、断固として今為す、のです。
今日やるべきことを、断固として今日やり切る、のです。
その連続の中に厳として幸福が築ける。
今の自分とどこかかけ離れた遠くに、理想の自分が居る、との考えは幻想です。
自分が日々やっていることこそが自分なのです。
それ以外に自分は無いのです。
ですから、瞬間瞬間を最高に価値的に輝かせて活かし切る生き方が大事です。
それが南無妙法蓮華経の題目の心だと思いませんか。
長文失礼しました、語ってしまいましたw