妙法を唱えることのできる福運

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少し長文ですが、以下は池田先生の「報恩抄講義」からの抜粋です。

我々の三世にわたる根本の師匠は、日蓮大聖人であります。釈迦滅後2000余年間、どんなに唱えたくとも、だれ一人、口にすることのできなかった南無妙法蓮華経の題目を、日蓮大聖人は、押し寄せるであろう迫害、中傷の嵐を覚悟のうえで、命を賭して説いてくださった。我々は、この深恩を夢にも忘れることがあってはならないと思うのであります。

朝晩の勤行・唱題は、我々にとってごく普通のことのように生活のリズムとなっておりますが、実はこのことが、どれほど甚深な意義を秘めていることか。2000年の長きにわたって、人々が知ると知らざるとにかかわらず、生命の奥底で求めてきた一点こそ南無妙法蓮華経だったのであります。

「生死一大事血脈抄」の講義でも述べておいたことですが、生死の問題のように人間の幸・不幸を決める決定的な分岐点に立った時、この世の地位・財産・名誉等は、なんら役にたちません。御書に「今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」(御書287ページ)と言われているように、業苦の淵を垣間見た生命は、ひたすら南無妙法蓮華経と求め抜くのであります。

しかも御本尊に縁することのなかった生命は、求めて得られず、何に「南無」してよいのか、すなわち、何をよりどころにしてよいのか分からず、苦悩の海で、あてのない航海を続けていかざるをえません。

故に、大聖人は「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人【らいにん】とはなるべし」(同260ページ)と仰せなのであります。「癩人」とは、この世の不幸の象徴でありましょう。「天台の座主」つまり世の中でいかに位人臣を極めようとも、南無妙法蓮華経と唱えることのできる大福運に比べればいかほどのことでもない。したがって自分が、どんなに恵まれない環境にあろうとも、今、現実に題目を唱えることができるということは、確たる仏法の正道なのであります。

その現在の一瞬に、苦楽一如・善悪一如の大生命力を湧現させるためにこそ、大聖人は御本尊を認められたのであります。報恩・感謝、これに過ぎるものはありません。このことを、朝晩の唱題のさい、深くかみしめることのできる日々でありたい。

文中の御書の「癩人とはなるべし」との表現は、決して癩病の方たちを差別し虐げる意味でのお言葉ではありません。当時の時代背景にある社会通念を用いられ、どんなに恵まれない境遇にあっても、唱題できることがどれほど素晴らしいことかを、ご指南されているのです。

私は癩病ではありませんが、メンタルの持病持ちです。大昔に職場で苛めを受けたことがきっかけで病になりました。しかも折伏を決めて数か月後のことでした。この試練を乗り越える中で、大きく転重軽受・変毒為薬でき、信心の確信を深めさせてくれた体験となりました。

昔、日本は「優生保護法」という法律があって、ある種の精神病患者は国により強制的に去勢・避妊手術や人工中絶を施され、子孫を残せないようにされていたそうです。欠陥のある遺伝子を後世に残さないためとの目的でした。障害者から生殖を奪うこの手術を「優生手術」と言い、優生手術により障害者の子孫を絶つことを「断種」と呼ぶそうです。今は「母体保護法」に改正され、国がこうした強制堕胎を行なうことは無くなりました。

→優生保護法とは

しかし、優秀な遺伝子を人類子孫に残すためとの目的で、こうした障害者の子どもがどれだけ、国により命を絶たれたかは計り知れないものがあります。当事者にとってみれば、余りにも残酷なことだと思います。

何を優秀とし何を劣悪とするのか、そうした蛮行が人間として許されるのか。猿や犬・猫といった動物の世界にも、障害を負って生まれた者を、仲間で助け合って守ろうとする姿が見られるそうです。誰も病気になりたくて、すき好んで病気になる者などいません。それを同じ人間でありながら、劣悪な遺伝子と決めつけて、子どもの抹殺を図ったという、暗黒の歴史を決して繰り返すようなことがあってはならないと思います。

先生のご指導から離れてしまいましたが、例え今、いかなる不遇の身にあろうとも、学会員として題目を唱えられる福運に感謝して、希望と誇りを持って生きていきましょう。
(平成27.11.25加筆修正しました)

 

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