大いなる苦しみは大いなる魂をつくる -指導集(15)

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連日の投稿になります。前回の記事では、「国主と成つて民衆の歎きを知らざるに依り…」の御書を拝読しました。今回は戸田先生と池田先生の指導を学びます。1つめは交通事故で子供を亡くした夫婦への戸田先生のご指導です。2つ目と3つ目は、これに関連して述べられた池田先生の言葉です。

●『人間革命 第8巻』(推進の章から)

ぼくも二十四の年に、『ヤスヨ』という、子どもを亡くした。女の子でした。ぼくは悲しかった。まだ御本尊様を拝まないころだったので、ただ、もう悲しくて、冷たい死骸を一晩抱いて寝て、泣きました。

その子に、その時、別れて、ぼくは、この年になった。当時は、まだ赤子であったが、今、生きておれば、かなり立派な女性になっていると思う。死んだその子に、今世で会ったと言えるか、言えないか……。ここで信心の感得の問題になってくる。私は、その子に会っているような気がします。

(中略)
生死の問題は、生涯にわたる、最も重大で、また深刻な問題です。子どもに死なれた時ぐらい、この世の中で悲しいことはなかった。そして、”もし、妻が死んだら、どうだろう”と、私は恐ろしかった。ところが、その妻も、しばらくして死んだので す。その時、もし母親が死んだらどうしようと、辛い思いをした。そしてさらに、ぼく自身が死ななければならなくなったらと考えたら、体が震えてしまった。生死の問題が、何もわからない時には、真剣に人生を考えている人は、誰でもそうなるだろうと思う。

そんな私が、戦争中、牢に入らなくてはならなくなって、少しばかり法華経を読ませてもらって、”ああ、やっとわかった” と、生死の問題を解決するにいたったんです。私にとって、死の問題は、二十何年間かかった。子どもに死なれては泣き明かしながら、妻の死も自分自身の死も、怖かった。これがようやく解決できたればこそ、戸田は創価学会の会長になったんです。

その夫婦が、死んだ子に今世で会えるか、会えないかは、私から言うわけにはいきません。その人たち自身の感得の問題だと思う。会えると言うこともおかしいし、会えないと言うこともおかしいし、それは、その人たち自身の信心にかかわるものだから、私の力の及ばぬところです。『自分の力でおやりなさい』と言ってあげなさい。

 

●仏法哲理の泉 大白蓮華2019年2月号p.100

戸田先生も、「初めから立派過ぎたのでは人々の中に入っていけないから、われわれは仏法を弘めるためにわざわざ貧乏や病気の姿をとって生まれてきたんだよ」 「人生は芝居に出ているようなものだよ」と、しばしば言われていた。また、「戸田は妻を失い、娘まで亡くした。事業も失敗した。そういう苦悩を知っているからこそ、創価学会の会長となったのだ」とも言われていた。

苦労もない、悩みもないというのでは民衆の心が分かるわけがない。人生の辛酸をなめた人であってこそ、人々を救うことができるのです。

●池田SGI会長指導選集 16-9月号大白蓮華

創価学会は、常に、不幸な人びとの渦中に飛び込み、戦ってきた。それゆえに「貧乏人と病人の宗教」と嘲笑され、侮蔑(ぶべつ)されてきた。しかし、わが師である戸田城聖先生は、呵々大笑(かかたいしょう)して、その無理解の中傷を、むしろ誉れとされた。不幸な民衆を救ってこそ、真実の「力ある宗教」である証拠だ! 戸田先生は、大確信をもって人びとに訴えられた。

「もし、皆さん方が幸せにならなかったら、この戸田の命を差し上げる!」
相手がどんなに絶望の淵にあろうとも、眼前の「一人」を救えなければ仏法は嘘になってしまう。先生は、渾身の力で、人々の生命を揺さぶり、苦難と戦いゆく偉大なる不滅の勇気を呼び覚まし続けたのである。

(中略)
(市ヶ谷の)分室に来る人のなかには、”幹部でありながら、こんなことで悩んで”と自分を苛(さいな)んでいる人もいた。先生は、真剣に生きようとする限り、悩みは当然だと、大きく包容された。反対に、見栄っぱりで、悩める同志を見下すような者は、烈火のごとく叱られた。悩んでこそ、人の苦しみがわかる。悩んでこそ、強くなる。

先生ご自身も、お子さんを亡くされた。事業の苦境も、何度も経験しておられる。法華経の信仰ゆえに、二年間、牢獄にも入られた。先生は、そうした幾多の辛酸をなめ、艱難【かんなん】を勝ち越えたからこそ、学会の会長になったのだと述懐されていた。かの文豪ユゴーが喝破したように、「大きな苦しみは、魂をとてつもなく大きなものにする」(『九十三年』下、榊原晃三訳、潮出版社)のだ。

●「社会で光る」から 大白蓮華2015-9月号

誰も知らないところで、広宣流布のために、祈り、尽くしている。心を砕いている。その尊き行動を、全宇宙の仏天は厳然と見ているのです。反対に、『どうせわからないだろう』とさぼっても、それもしっかりと見られている。(笑い)

因果の理法は峻厳です。自分が、どう祈り、どう戦っているか、どう行動してきたかは、自身の生命に厳然と刻み残されている。どこまでも真面目に、誠実に信心を貫いた人が、絶対に最後は勝つ。必ず無量の福運を積んでいけるのです。
 (『御書と青年』から)

 

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