命ある限り題目を唱え、広布に向かっていくのだ -指導集(21)

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如説修行抄p504

一期を過ぐる事程(こと・ほど)も無ければいかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ、縦(たと)ひ頸(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切り・どう(胴)をばひしほこ(稜鉾)を以て・つつき・足にはほだしを打つてきり(錐)を以てもむとも、

命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死(しぬ)るならば釈迦・多宝・十方の諸仏・霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山(りょうぜん)へ・はしり給はば二聖・二天・十羅刹女(じゅうらせつにょ)は受持の者を擁護(ようご)し諸天善神は天蓋(てんがい)を指し旛(はた)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光の宝刹(ほうせつ)へ送り給うべきなり、あらうれしや・あらうれしや。

 

 

「広布と人生を語る」第5巻 1983年12月8日

「いかに強敵重なるとも」と――この決心なくして信心のリーダーとはいえない。「ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」と。とうぜん、正法には難がつきものである。とともに、いかなる権力によって脅し迫害されたとしても、ゆめゆめ退転するな、恐れるな、との厳しき響きを忘れることができない。

また「縦ひ頸をば鋸にて引き切り・どうをばひしほこを以て・つつき・足にはほだしを打ってきりを以てもむとも」――これほどまでの残虐なことをされたとしても、けっして一歩も退かない信心でなければならない。そして「命のかよはんほどは南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死しぬる」ことが、信心の真髄なのである、と私は徹底して戸田先生より鋭く指導されてきた。この決心が私の信心の骨髄となったがゆえに、私はなにも恐れるものはない。これからもこの決心で、私は皆さま方とともに前進する決意である。

 

戸田第2代会長の指導


広宣流布へ向かっていくのだ

われわれ自身が南無妙法蓮華経である。ゆえに叩かれようが、罵られようが、ひとたび題目を唱えた以上は、水をのみ、草の根をかんでも、命のあるかぎり、南無妙法蓮華経と唱え抜いて、広宣流布へ向かっていくのだ。これが信心だ!

悩みがあるなら真剣に祈りなさい
 真剣に御本尊様に願い切るんだな。この簡単な原理がみんなわからない。これが一番遠いようで確実な早道になっていく――いつもこう指導されて、理屈ではわかっているが、いざ日常生活の中ではさっぱりわかってないようだ(なかなか確信できない)。

 

 

【ひと言感想】

究極の信心の覚悟を打ち込まれた御書です。民主主義であり信教の自由が保障された現代においては、折伏したからといって投獄されたり、刑罰あるいは拷問を受けたりするなどは到底、起こり得ません。何百万世帯以上も折伏した三代の会長以外には、無実による投獄は誰もありませんでした。その意味では、現代はずいぶんと広宣流布しやすい時代になったと言うことができると思います。

しかし、そうは言っても創価の仏法が最高に正しいがゆえに、広宣流布に障魔や迫害は避けて通れません。信心したことにより、家族や親類に反対をされたり、村八分や職場などで苦境に立たされたりといったことがあるかもしれない。意外と、最も自分に理解を示し味方だったような人が、豹変して、信心に大反対することがあります。

それは、この信心が正しいからであり、絶対に間違いがないからであり、必ず幸福になれるからこそ、現れてくる障害なのです。信心を捨てさせようとの第六天の魔王の働きと見抜かなければならない。難が起きた時こそ、絶対に負けてはならない、大事な大事な正念場なのです。

如説修行抄で、大聖人がこれほどの残虐な仕打ちを具体的に描写しながら、「迫害を恐れるな! 退転してはならない!」とご指南されているのは、不退転の本物の信心を烈々と打ち込まれているのです。改めて御文を心肝に染めて、勇気ある実践に挑んでまいります。

 

 

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