信用と約束

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[信用と約束]

 1.
できないことは
初めから約束など
しないことだ
一旦 約束したなら
命がけで約束を守ることだ
信用とはそこから始まるものだから
(レオ)

 2.
信用は
人間として生きる
基礎であり土台である
約束を軽んじる人間は
誰からも信頼されない
だから一度した約束は
何を犠牲にしても守る
その至誠の中にこそ
自他を繁栄させる因がある
(レオ)

最近、周りに約束を破る人が目につきます。
友人、内部、依頼客・・・。

自分はどこまでも信義の人でありたいと期しています。
なぜなら、財産も、肩書も、名誉も、立場も、何も持たないだけに、結局は体と信用だけしか無いから。
それだけが唯一の資本であるからです。
もちろん、御本尊こそ根本は揺るぎません。

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コメント

  1. 福島の壮年 より:

    『一度した約束は、 何を犠牲にしても守る』

    その通りと思います。
    全く異論はありません。

    過去、私は友達との約束を優先した家内を
    烈火の如く怒ったことがあります。

    その日、家内は旧友と会う約束をしており、
    時間に間に合うように家を出ました。

    仕事から帰宅した私に、そのことを話す家内。
    旧友に会うために家を出ようとした時に、
    同じ敷地内の借家に住む80歳を過ぎた
    おばあちゃんから、
    「具合が悪いので、車で(かかりつけの)病院に
    連れて行ってくれないか」
    と、電話があったそうです。
    その病院は住まいからはすぐ近くですが、
    急な坂道を登っていかなくてはいけません。
    家内は、
    「友達と会う約束をしていて、すぐに出ないと
    時間に間に合わなくなっちゃうんだけど、
    おばあちゃん、自分で行いけない?」と。

    ※当時は、今のように携帯が普及しておらず、
     お互いに家を出たら、連絡が取れません。

    それを聞いた私は、烈火の如く怒りました。
    そのおばあちゃんは、我が家の学童期前の
    3人の子供たちの面倒を良く見てくれていて、
    副白ゆり長としても家内を助け、高齢なのに、
    一番大きな次男をおぶっては、家庭訪問を
    一緒にしてくれ、まだまだ若輩の私たち夫婦に
    とっては、実の親以上に面倒をおかけした方
    でした。

    「お前、どれだけ(おばあちゃんの)世話に
    なってるか分かってんだろ。
    もし、お前に断られれば、無理にでもとは
    言わないよな。
    もし、友人と会っている間に、おばあちゃんに
    もしものことがあったら取り返しがつかねえだろ。
    友達に連絡が出来ないって? 病院なんか
    すぐそこじゃねえか。
    行きがけに乗せて行っても遅れて会うことは
    できるんじゃねえのか?
    そういう事情を話して理解してくれない友達なら、
    俺はいらないし、付き合いたくもない」

    約束は守らなくてはいけませんが、時に、
    不慮の事態に遭遇することはあります。
    そちらを優先させれば、待っている人は
    アクシデントかと心配するでしょうし、不快にも
    なるでしょう。
    そういう時は、事後でも構わないので、きちんと
    明確に理由を話し、謝罪をすることが大事
    ですよね。

  2. Leo2014 より:

    福島の壮年さん、真剣に叱る壮年さんの顔が目に浮かぶようです。何事も教条的に強行するのでは、重大な間違いも起こりえます。そもそも、約束といっても「人間のため」なのですからね。

    そのおばあさんは結果として大事はございませんでしたか。奥さんは「大事には至らないだろう」との状況判断もあったのではと思います。徒【いたずら】に騒いだり慌てることは禁物ですが、大事を未然に防ぐには大きな果断が求められる時もありますね。

    やはり人命や自他の安全は最優先されるべきことは、いつも忘れてはなりませんね。意外と、日常に慣れた頭脳と心には、そうした緊急事態への切り替えをいかに迅速・果断に行うかが大事なのですね。

    また約束に限らず人間関係を始めとして、様々な判断、時には政治的判断も含めて、ディレンマ(=葛藤)というものがつきものです。そこをどう調整し、為すべきことを為していくかに、その人の力量が試されますね。

    約束については、壮年さんが挙げた例とは異なって、明らかに無責任な言動と見られる場合があります。学会員にはそういう人は少ないとは思います。易きに流れる傾向はかく言う自分も持っています。その上で、誰かと約束を結ぶときは、単なる日常会話の一つでも延長でもないということを、肝に銘じたいという主旨のつもりでした。

    広く言えば、経済も法律も、政治もビジネスも、消費行動も、ありとあらゆる人間の営みが、約束すなわち信用の上に成り立っています。毎日使っているお金だって、もし国の内外に不測の事態が起こり信用が崩れたとすれば、ただの紙屑同然となるそうです。やはり、約束を守ることは軽く扱ってはならないのですね。

  3. 福島の壮年 より:

    >約束については、壮年さんが挙げた例とは異なって、
    >明らかに無責任な言動と見られる場合があります。

    はい。
    承知しています。
    レオさんの論点とは異なる事例ですので、
    書き込もうかどうしようかと迷ったのですが、
    約束を違えてしまった人にも「止むを得ない事情」が
    あるかも知れませんので、それを汲み取る必要も
    中にはあるでしょうし、約束を破っても許される
    不測の事態とは、緊急且つ重大なこと
    (誰かの健康や命、財産に関わること)
    が起きた場合に限られるべきでしょうねということは、
    記事を読まれた方も念頭に置いて欲しいなと、
    そういうことで、コメントさせていただきました。

    >そのおばあさんは結果として大事は

    はい、お陰さまで。
    翌日、家内が私から怒られたということを
    その方に正直に話したらしく、「実の親子でもないのに
    そんなに心配してくれて」と、涙を流して喜んでくれた
    そうです。
    実の親でもないのに、子育てに最も大変な時期に、
    おばあちゃんにはどれだけ面倒を見ていただいたか、
    こちらこそ感謝し切れませんけれどね。

    また、やはり体調は優れなかったらしく、暫くは
    通院されていましたね。

  4. Leo2014 より:

    福島の壮年さん、貴重な補足を有難うございます。そのおばあさんに大事なくて良かったです。大恩ある人ならなおさら優先して行動して差し上げたいところですね。知恩・報恩こそ仏法の肝要ですから。

    ところで、約束との関連なのですが、世間の言葉に「うそも方便」という言葉があります。仏は最高の不妄語の人なのですが、この言葉に関して福島の壮年さんはどのようにお考えになりますか。宜しければお考えをお聞かせ願えますか。

  5. 福島の壮年 より:

    『世間の言葉に「うそも方便」という言葉が
    あります。仏は最高の不妄語の人』

    素晴らしき宿題を与えて頂きましたね。
    ご提示の命題だけでも原稿用紙数十枚の
    リポートが書けそうです。
    時間もありませんし、冗長な文章を何連投も
    重ねるわけにはいきませんので、手始めに
    大聖人の御文とその依文を引用させて頂き
    ながら、なるべく簡単にお応えします。

    御書の中で大聖人が『方便力』という表現を
    されているところだけを探しても、片手では
    足りません。
    『方便』と言う表現だと、数十箇所に及ぶこと
    でしょう。
    その中から、『一代聖教大意』に絞って引用
    させて頂きます。

    (御文・依文ともカナを振りたいところですが、
    その分長くなりますし、レオさんは私以上に
    教養がおありでしょうから、略します)

    『此等の四十二年の説教は皆法華経の
    汲引の方便なり、其の故は無量義経に云く
    「我先に道場菩提樹下に端坐すること六年
    阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり』

    上の御文は、『無量義経・説法品第二』から
    引かれたものです。
    試みに、少し長くなりますが、同品から引用。

    『仏の言わく、善男子、是の一の法門をば
    名づけて無量義と為す。(中略)
    是の如く観じ已って、衆生の諸の根性欲に入る。
    性欲無量なるが故に説法無量なり、説法無量
    なるが故に義も亦無量なり。
    無量義とは一法より生ず。
    其の一法とは即ち無相也。是の如き無相は、
    相なく、相ならず、相ならずして相なきを名づけて
    実相とす。
    (中略)
    我等、仏の諸説の諸法に於いて復疑難なけれども、
    而も諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて、
    世尊に諮いたてまつる。
    (中略)
    我等、仏の諸説の諸法に於いて復疑難なけれども、
    而も諸の衆生迷惑の心を生ぜんが故に、重ねて、
    世尊に諮いたてまつる。如来の得道より以来
    四十余年、常に衆生の為に(中略)
    辟支仏道を得、菩提心を発し、第一地、第二地、
    第三地に登り、第十地に至りき。
    往日説きたもう所の諸法の義と今説きたもう所と、
    何等の異なることあれば、而も甚深無上大乗
    無量義経のみ、菩薩修行せば必ず疾く無上菩提
    を成ずることを得んと言う、是の事如何。
    (中略)
    我先に道場菩提樹下に端坐すること六年にして、
    阿耨多羅三貎三菩提を成ずることを得たり。
    仏眼を以って一切の諸法を観ずるに、宣説すべ
    からず。所以は云何、諸の衆生の性欲不同なる
    ことを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。
    種種に法を説くこと方便力を以ってす。
    四十余年には未だ真実を顕わさず。
    是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を
    成ずることを得ず。
    (中略)
    善男子、初め四諦を説いて声聞を求むる人の為に
    せしかども、而も八億の諸天来下して法を聴いて
    菩提心を発し、中ごろ処処に於いて甚深の十二
    因縁を演説して辟支仏を求むる人の為にせしか
    ども、而も無量の衆生菩提心を発し、或は声聞に
    住しき。
    次ぎに方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を
    説いて、菩薩の歴劫修行を宣説せしかども、而も
    百千の比丘、万億の人天、無量の衆生、須陀、
    斯陀含、阿那含、阿羅漢果、辟支仏、因縁の法の
    中に住することを得。
    善男子、是の義を以っての故に、故に知んぬ、
    説は同じけれども而も義は別異なり、義異なるが
    故に衆生の解異なり。解異なるが故に得法、得果、
    得道、亦異なり。』

    簡単に言えば、釈尊(仏)はまっすぐに、自らが
    成仏したる根源の法(真実)を説きたかったの
    ですが、それを聞いて成仏すべきべき衆生の
    機根に各々差別があるために、各々の機根に
    応じて先ずは目の前の問題を解決すべき方法を
    説き、衆生各別の苦悩を抜いてやるところから始め、
    それによって釈尊(仏)の偉大な功力を知らしめ、
    尊敬せしめ、徐々に六道から二乗、二乗から菩薩道
    を説いて来たのに、皆、その時々の「方便の教え」に
    固執してしまって、これからまさに説こうとするところ
    の「真実の法」に疑義を起こし、本当に求めるべき
    一法(法華経)を聞く姿勢を失ってしまったと。

    法華経以前の法は全て方便であるということは、
    衆生各別の境涯に応じた苦悩を抜く法もまた
    方便であるということですね。
    そして、南無妙法蓮華経は、釈尊や大聖人の胸中
    の悟りの究極ですが、私たち凡夫を「仏にしよう」
    というのが「三世十方の仏たちの御談合」であって、
    その方法は、「自分たち凡夫の生命も全ての仏と
    何ら変わることはないのだ」と悟らせることだと
    大聖人は仰っていますので、立場上、仏と凡夫が
    存在していること自体が方便であり、苦悩多い
    私たちの姿も皆、方便であるということになります。

    私は体のどこかしらに痛みを抱えているのが常
    ですが、今日はとりわけ腰が痛く、昼食後に
    鎮痛剤を服用しました。
    この痛みもまた、私が「私として」この人生を送る
    ためには必要であるから痛んでいるわけですが、
    これもまた、私のこの人生の最終章を迎える
    頃には「方便であった」と実感することでしょう。

    もっと簡単に世間的な言葉で申し上げるならば、
    誤って苦しむべき方向へと向かっている人を
    楽しめる善の方向へと向かわせるためには、
    その人の知識や経験に応じて理解できる言葉で、
    また仕草で導いてあげなければ、その目的は
    達せられないということでしょう。
    そのために「表層的には」「嘘」を言ってでも
    納得させなければいけないこともあります。

    結論です。
    「人を救い、よりよい方向へと導くために言う
    嘘が『方便』である」と。
    仏とは、その方便力が巧みな存在ですよね。
    それでさえ、その真意を測るのは難しいわけです。

    「表層的な嘘」も、真に衆生をして最善の方へと
    導けた暁には、それは「実相として真実」になる。
    そういうことではないでしょうか。

  6. 福島の壮年 より:

    ちょっと読む人によっては誤解をされそうなので、補足です。
    前の書き込みで「嘘」と表現したものは、「真実とは違う」という
    意味で使用しているのであり(「仮」であり、「権」であり、「迹」ですね)
    「嘘八百」などの「嘘」とは、少しばかりその「義」が異なります。
    その「少しばかり」を誤解されると厄介なことになってしまうわけ
    ですが。

  7. Leo2014 より:

    福島の壮年さん、日が空いてしまいました。豪雨の被害・影響はありませんでしたか。

    電光石火の丁寧かつ詳細で解りやすいご回答、誠に有難うございます。腰がお痛みの中、またご多忙にも関わらず、ご負担をお掛けし恐縮です。ゆるゆるとやり取りしていければ、お互いに負担も少ないのではと思います。

    「嘘も方便」は誰が言い始めた言葉か由来を調べたら、意外な事実がありそうです。この言葉は、方便の教えに執着し、どうしてもそこから離れられない人の、生命の傾向性からの言葉のように思います。爾前・権経への執着から離れ切れないゆえに、仏の金言を嘘ではないのかと、疑いの目で見てしまう。仏が方便を説かざるを得なかった真意が、把握できないのでしょう。

    今回の青年1級の教材を買って、自主研鑽を続けていますが、難信難解に教相と観心の二義があるそうです。教相の難信難解は、始成正覚と久遠実成といった一仏二言に対して生じます。観心の難信難解は、非情に十如是を具えていることへの難信難解です。こうした難信難解を乗り越えられない信力・行力の弱さや、自己の迷いに負けた命が言わしめた言葉ではないかと思います。

    ただし現実生活においては、この言葉には一理ある場合があります。人(の人命など)を守るために敢えてつく嘘です。人を傷つけるための嘘でなく、人を守るためにつく嘘というのがあると思うのです。この点はいかがお考えになりますか。

    今回の考察のために私も先生の『寿量品・方便品講義(1)方便品』を再読してみましたが、おおむね福島の壮年さんと合致する内容でした。執着についても、執着を活かす生き方についての部分に感銘しました。

  8. 福島の壮年 より:

    『人(の人命など)を守るために敢えてつく嘘です。
    人を傷つけるための嘘でなく、人を守るためにつく
    嘘というのがあると思うのです』

    いわゆる『法華経の七譬』と言われるものがあります。

    1.「三車火宅の譬え」(譬喩品第三)
    2.「長者窮子の譬え」(信解品第四)
    3.「三草二木の譬え」(薬草喩品第五)
    4.「化城宝処の譬え」(化城喩品第七)
    5.「貧人繋珠の譬え(衣裏珠の譬え)」
      (五百弟子受記品第八)
    6.「髻中明珠の譬え(頂珠の譬え)」(安楽行品第十四)
    7・「良医病子の譬え(譬如良医の譬え)」
      (如来寿量品第十六)

    この『七譬』の中でも、
    『1.「三車火宅の譬え」』と『7.「良医病子の譬え」』は、
    「火事で燃え盛る炎の中に居る子どもたち」や
    「毒薬を服み、苦しんで転げ回っている子どもたち」、
    速やかに助け出さなければ、命の危機にある子ども
    たちを、巧みな譬喩によって救っていこうとする父の
    お話ですよね。

    よくご存知のお話でしょうから、詳細は省きます。

    三乗の執着を捨てて一乗に帰せよとするにしても、
    滅不滅・三世永遠の生命の実相を説かんとするにも、
    折伏行とは、巧みな譬喩をもって相手の命を救う
    (三世の苦の束縛・連鎖から解放する)行為である
    ことを教えてくれているのではないでしょうか。

    それに際して、最も重要なのは、相手の方に
    信心をする動機を与えてあげることでしょうね。
    「南無妙法蓮華経」とは「かくかくしかじか」という
    難しい話をしをしても理解する人は「いない」とは
    申し上げませんが、極めて稀でしょう。
    そこで大事なのが、相手の方のこれまでの人生や
    性格、性分等も含んだ境涯に合わせて、分かり易く
    様々な譬えによって、「生命の実相」と「信心の意味」を
    話してあげることではないでしょうか。
    ここで、最も説得力のある譬喩とは、自身の体験で
    あることは間違いがないところでしょう。
    そして、そうやって折伏行に使える体験であるからこそ
    自身の過去の苦悩は、「他者救済のための『方便』で
    あった」と自覚することができます。
    この自覚こそが、『願兼於業』ですよね。

    ・・・回答になっていますか・・・ね。
    こういうことは、レオさんなら既にご承知のことと
    推察致します。
    私が、レオさんの問いを消化しきれていないかも
    知れません。

    取り敢えずの回答とさせていただきます。

  9. Leo2014 より:

    福島の壮年さんへ。
    対話におつきあい頂き有難うございます。「法華経の七譬」を用いてのご説明、よく分かりました。仏の巧みな譬喩も方便も、衆生を救うための「慈悲」から発したものなのですね。

    四悉檀で言えば、「第一義」「対治」だけでなく「為人悉檀」の重要性ということですね。「今の人は説明はうまいが、それでは相手の心に届かない」「どこまでいっても結局、こちらの確信が無ければダメなんだ。最後は、こちらの確信によって折伏成就するのだ」との指導を何度か聞きました。

    説明だと結局、「理」なのですね、要するに頭脳から発したもので、信心とはある意味、別なのですね。例え表面上は反対したとしても、どこまでも御本尊への確信から発する勇気こそが、相手に伝わるのですね。

    「正直に方便を捨てよ」「ただ無上道を説く」「余経の一偈をも受けざれ」等と、仏は強く戒められて、法華経を説きました。寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の「絶待妙」の立場から、今度は一切経を自在に使いこなしていくことができます。

    「人命を守る嘘」に戻りますが、こんな挿話があります。戦乱の時代、ある国のある村に敵国の軍隊がやって来ました。敵が来ることを前もって聞いた村人たちは、皆、森に隠れたのです。その空っぽになった村に敵軍が来ると、1人の男がいました。決して嘘を言わないと呼ばれていた男でした。敵軍の兵士がその男に村人の行き先を聞くと、森に隠れていると正直に答えてしまったのです。結局、村人たちは子どもから老人まで1人残らず、殺されてしまいました。

    こういう話だったと思います。時には嘘が大勢の命を救うことがあるのだなと考えさせられた話でした。正直も場合によっては、大きな害を被ってしまう場合があることを示唆しています。

  10. 福島の壮年 より:

    >「人命を守る嘘」に戻りますが、こんな挿話が
    >戦乱の時代、ある国のある村に敵国の軍隊が
    >・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    >皆、森に隠れたのです。
    >・・・・・・・・・・・・・・・・・・1人の男がいました。
    >決して嘘を言わないと呼ばれ
    >敵軍の兵士がその男に村人の行き先を聞くと、
    >森に隠れていると正直に答えてしまった

    >時には嘘が大勢の命を救うことがあるのだなと
    >考えさせられた話でした。

    なるほど、そういうことだったのですね。
    私には、その男は「正直者」というよりは、
    状況や立場や人情の機微、自分の発言の
    社会的影響などを斟酌することができない
    未発育な「子ども」なのだなと、そう思えます。

    教訓としての逸話ですから、あれこれ掘り下げる
    必要はないのかもしれませんが、

    村人は、その男の性分や人となりをよく知って
    いたのですから、丁寧に諭して一緒に連れて
    行くなり、より遠くへ逃げるなりの方法は取れた
    筈ですよね。

    同じ村人であるにも拘らず、彼だけ疎ましがって
    邪魔にし、独りだけ残し、置いてきぼりにして
    しまったところが最大のミスではないでしょうか。

    設定としては逆ですが、同じように皮肉めいた
    寓話に、『狼少年(羊飼いの少年)』というものが
    あります。
    よくご存知でしょうから、内容は省きますが、
    この2つの逸話の底流には、共通の示唆が
    含まれているように思えます。

    「周囲の状況を敏感に捉え、誠実な対応
    (周囲の人を救うための智慧を発動すること)
    ができない『たった一人』の言動が、村中の
    人々を死滅させてしまうほどの大惨事を
    招くことさえある」ということです。

    その「『たった一人』の言動」を引き起こす
    生命の因を、仏教では「境涯」と言いますよね。
    その影響を受けて大迷惑を蒙る側もまた、
    そういう「境涯」であるのでしょう。
    誰か一人、正しい判断力と行動を取ることが
    できていれば、結果は全く変わっていたと
    私には思えてなりません。

    さて、
    >今回の青年1級の教材を買って、自主研鑽を
    >難信難解に教相と観心の二義
    >教相の難信難解は、始成正覚と久遠実成
    >観心の難信難解は、非情に十如是を具えて

    素晴らしいですね。私は教材を入手していませんが
    『観心本尊抄』ですね?

    学生部の時、学祭で研究発表を命じられ、90分間の
    発表用原稿78枚を書いたテーマが「一念三千論」
    でした。
    発表途中で、法学部の教授が何人かの学生を引き
    連れて会場に入ってきました。
    この「非情の一念三千」のところに差し掛かったとき、
    その教授が「そんなことがあるかー!」と、大声で
    叫んでいました。
    一瞬睨みつけ、何事もなかったように発表を先に
    進めたら、すぐに退出していきましたけど、二乗の学者
    なんぞに理解できるものではないんですよね、
    この法門は。
    『以信得入』であり、仏教の究極中の究極ですから。

    私が男子部だった時の晩年に行なわれた「青年教学
    1級試験」の出題範囲も「観心本尊抄」だったと記憶
    しています。
    (六巻抄の「文底秘沈抄」も含まれていたような?)

    丁度良い機会ですので、私も自分なりに学んでみたい
    と思いました。
    試行錯誤しながら自由に編集できる私の掲示板で
    展開してみたいと思います。
    書き込みを開始できたら、こちらでお知らせ致します。
    どうか、忌憚のないご意見や反論などをお寄せ頂けれ
    ばと存じます。

    ゆっくりと、自分のペースで行ないますので、
    終着点は何時になるかわかりませんが・・・。

  11. Leo2014 より:

    福島の壮年さん

    また日数が経過してしまいました。やっと時間が取れるとくたくたで、なかなか書き込みに時間が取れません。お陰様で充実してきました。

    仰る通り、この男は上に「馬鹿」が付くほどの正直というか頑迷であり、誠実かつ柔軟な行動を出来ないゆえ、村人は全員敵軍に殺される大惨事を招きました。村人たちの方にも、多くの人命が懸かっているのだから、より賢明な対処の仕方があったはずとのご指摘ももっともです。「狼少年」の逸話もなるほど共通項がありますね。

    「一念三千論」を学生の時に発表したのですか、しかも78ページ90分という大論文をですか。私も長年、会合等で度々、研究発表の機会を頂きましたが、スケールの違いに只々驚嘆です。1ページ当たり約1分ちょっとで発表できるのですね。それとも本番で編集・要約しながらの発表だったのでしょうか。

    テーマもテーマです。仏法の根幹に関わる難解な部分ですね。「非情の一念三千」で教授の思わぬ反応があり、一瞥して続行したというのも凄いですね。社会的地位や肩書がある人ほど、それらへの執着が邪魔をして、素直に聞き入れ信受するのが難しいのでしょう。だからこそ仏は「以信得入」を強調したのでしょうね。

    私の学生時代も「一念三千」の講演こそ出来ませんでしたが、ある意味、「事の一念三千」を一分でも実証できた、人生の期間だったと思いました。高専で留年までした人間が、信心に復活する中で、心身を鍛えつつ成績もAクラスで、希望の就職を勝ち取れました。それを見ていた同級生を学会へ入会させることができたのです。その後、大病を克服し創大通教を30歳代で卒業したのも、自分らしい宿命転換の実証だったと思います。人間革命の途中であり、まだまだこれからではありますけれども。

    「観心本尊抄」の研鑽を開始されるのですか、それは素晴らしいですね。私などは未だ解説書に着いていくのがやっとなのですが、今回2度目の研鑽をすることができ喜びもひとしおです。私にできることがあれば参加させて頂こうと思います。

    なにかこうワクワクしますが、同抄の送り状に、何人かで寄り合って本抄を読み合わないよう戒めておられます。無二の信心の志があれば、大勢であっても一人と同じなので差し支えない、との意だそうです。この意味では、衆人環視のネットで研鑽を展開することに一抹の懸念がないものかとも思います。いかがお考えになりますか。

  12. 福島の壮年 より:

    お忙しい中でのご返信、ありがとうございます。

    >衆人環視のネットで研鑽を展開することに
    >一抹の懸念がないものかとも思います。

    大聖人の生きた時代は、日本国中に仏教が
    広まり、生活の隅々に浸透し、仏教は又、
    生きることの基準ともなっていました。

    今月の御書学の教材」「妙密上人御消息 」
    でも、大聖人が生きた時代までの日本に
    おける仏教の流入と変遷が概括されて
    いましたが、大聖人の唱えた教えは、
    それまでの7百年間で日本に浸透し、
    日本に根付いた「仏教的生命観」を
    180度変革するものでした。

    その大聖人の仏教の精髄を著した
    「観心本尊抄」は、大聖人の門下であっても
    信心の薄い者が眼にすれば、極めて大きな
    不信を抱くことになるでしょう。

    大聖人が在家の門下に送られたお手紙の
    数々にもよく表れていることですが、
    「法華経の尊さは分かる」けれども「阿弥陀仏
    や大日如来(或いは毘盧舎那仏)も尊いの
    ではないか」というような、既成の観念に
    縛られ、抜け切れない者は、非常に多かった
    ようです。

    だから、大聖人は「観心本尊抄」が理解は
    できないまでも、不信を起こすことはないで
    あろうごく少数の者だけで読みなさい。
    後は(厳重に保管して)後世に残しなさいと
    されたのだと思います。

    翻って、現代はどうでしょう。
    科学を万能と勘違いし、科学のみを信じ、
    既成の宗教や仏教をばかにしきった衆生に
    溢れかえっています。
    こういう時代に「観心本尊抄」を展開しても、
    興味を示さない人が圧倒的でしょうし、
    少しでも興味を持った人には、大いに
    「動執生疑」になっていくことでしょう。
    尤も、「観心本尊抄」の講義集や解説が
    何冊も出版されている事実に鑑みても、
    公開を心配する必要はないものと感じます。

    いずれにしても、いつから開始できるかも
    未だ判然としませんので、気長にお待ち
    頂きたく、宜しくお願いします。

  13. Leo2014 より:

    >科学を万能と勘違いし、科学のみを信じ、既成の宗教や仏教をばかにしきった衆生に溢れかえっています。
    >こういう時代に「観心本尊抄」を展開しても、興味を示さない人が圧倒的でしょうし、少しでも興味を持った人には、大いに「動執生疑」になっていくことでしょう。

    科学信仰をしているとの自覚は誰もないでしょうが、無意識のうちに電気機器、通信機器、自動車、コンピューター等が必需品となり、世界経済の大きな推進力となっているのは紛れもない事実です。

    それゆえ、あらゆる思想・哲学・宗教なかんずく仏法を、バカにし切った衆生に溢れかえっているとのご指摘は、深くうなづけます。

    個人の幸不幸を左右し、社会・国家の命運から、文化・芸術の興隆を決定付ける根本の力こそ、最も正しい哲学・宗教である、との再発見・再認識こそ必要なのが現代なのですね。

    この意味で、今回の観心の本尊抄研鑽が、ネット界隈のみならず、現代社会の進むべき大きな指標ともなっていけば、大聖人のご称讃に値することができましょう。

    その上で、大聖人の戒めを取るか、福島の壮年さんの解釈を取るかと問われれば、大聖人の戒めを蔑【ないがし】ろにすることはできません。したがいまして、個人的な考えを申しますと、観心本尊抄の研鑽と言っても膨大なものですから、ポイントポイントに絞って研鑽していってはどうでしょうか。

    あくまで、「導入編」「概論編」としての性格を持たせるのです。興味を持った人は、各人が文献を当たるなどして深めてもらうのです。そうすれば主要テーマのみを種々議論し合いながら深められます。「解かる人には解かる、解らない人には解からない」というスタンスで良いと思います。

    だいぶ進め方や内容に立ち入ってしまい、枠にはめるようなことを書いてしまいましたが、以上、いかがでしょうか。いつになるか分からないと言われていましたが、やるのであれば善は急げとの格言もあります。まずは出だしの記事だけでも、とりあえず掲載することが大事かもしれません。あくまで「信心即生活」の範囲内での応対をお願い致します。