糞嚢に金をつつめるなるべし

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御書の研鑽の続きです。佐渡御書からです。

日蓮・今生には貧窮下賎の者と生れ
旃陀羅(せんだら)が家より出たり
心こそ・すこ(少)し法華経を信じたる様なれども
身は人身に似て畜身なり・魚鳥を混丸して赤白・二たいとせり

其中(そのなか)に識神(しきしん)をやどす
濁水に月のうつ(映)れるが如し
糞嚢(ふんのう)に金をつつめるなるべし、

心は法華経を信ずる故に
梵天帝釈をも猶(なお)・恐しと思はず
身は畜生の身なり

色心・不相応の故に愚者のあな(侮)づる道理なり
心も又身に対すればこそ月・金にもたとふ(譬)れ、

(中略)
宿業はかりがたし
鉄(くろがね)は炎打(きたい・う)てば剣となる
賢聖は罵詈(めり)して試みるなるべし、

我・今度の御勘気は世間の失(とが)一分もなし
偏(ひとえ)に先業の重罪を今生に消して
後生の三悪を脱(のが)れんずるなるべし、

(佐渡御書p958㌻、9行目~)

何の社会的過失が無かったとしても、なぜ信仰ゆえに悪口されたり迫害を受けるのか、その理由を明確にされた御書です。
その理由の1つが過去世で法華経やその行者を腐してきたことであり、また1つがあたかも糞袋にこがねを包むように、色心不相応のためであると仰せです。

ここで心が法華経を信じていることを金に譬え、身体が父母の赤白が和合して生まれ、また魚・鳥などの肉を食して永らえていることから、身を畜身すなわち糞袋に譬えられています。
人から見た外面の姿と、内証の信心の心の尊さがかけ離れているゆえ、仏法に無知な人から侮【あなど】られるのです。
これゆえ忍辱の鎧【よろい】を着て、勇気ある攻めの実践を貫き、断じてそれらの圧迫に負けてはならないのです。

 

 

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