仏界と愚癡の関係

この記事は約2分で読めます。

「愚癡は福運を消す」
とは有名な学会指導である。
愚癡はどこまで行っても愚癡である。
愚癡に捉われていると魔に付け込まれる恐れもある。
身口意の三業においても愚癡は戒めるべきことというのは、学会員としては常に心得ているべきことである。

では徹頭徹尾これっぽちも愚癡を思わず、考えにも上らせないというのが正しい信心のあるべき姿なのだろうか。
例えば、生活の現状や、現に自分が悩んでいる事柄をありのままに言うことまで、愚癡と一刀両断してよいだろうか。

あるいは個人指導を受ける時に、ありのままに言うのは愚癡だからと、格好を付けて窮状【きゅうじょう】を隠してしまえば、個人指導は成立しない。

さらに、人間は決して機械ではないから、強いようで弱い面も併せ持つ存在である。
時には自分の愚癡を聞いてもらう相手が必要なこともあるだろうし、時には今度は自分が誰かの愚癡に耳を傾けてあげることも必要だろう。

そうであるのに、学会員はみな師子であるべきと強調する余り、一言の愚癡を言うことも「それは謗法だ」と決めつけたりしたとすれば、それは明らかに行き過ぎだろう。
そこまで行かずとも、客観的現状やありのままの問題点を言ったに過ぎないことを、それは愚癡であり弱い人間の言うことである、と断定し軽蔑する態度を取ったりすることは、間違いの部分が大きいと私は思う。

ではなぜ人間の生命に愚癡が具わるのかを、仏法の十界論から考察してみたい。
「十界互具」論によれば、十界各々の生命にまた十界が具わる。
この日蓮仏法の1つの核心的法門により、苦悩に沈む九界のどの衆生も妙法を覚知することにより、仏界を顕わすことが可能となった。

このことは観点を変えると、最高の仏界にも、最低の苦しみの境涯である地獄・餓鬼・畜生の三悪道の命をも、具えていることになる。
つまり、九界なかんずく三悪道の生命を厭離【おんり】し捨て去って仏になるのではないのである。

だからといって例えば、「愚痴っぽい仏」がいてよいなどと言う訳では当然ない。

最も言いたいことは、仏も自分の命に愚癡の命(=畜生界)を具え、愚癡を言う衆生の気持ちが分らなければ、そういう苦悩に沈む人々に同苦し救っていくことは不可能になってしまう。
地獄界も餓鬼界も、修羅界などについても同じことが言える。

なにも愚癡を言うことを奨励したいのでは決してないが、「愚癡を言うな」と排除するだけの姿勢には、仏法者としての使命の放棄につながる場合があると考える。
時には、大海原のような心で、身近な人や大切な友人の愚癡話にも、付き合ってあげる位の余裕をもちたいものである。

→愚癡を治すための参考記事


ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ にほんブログ村


コメント

  1. 男子部の時代からつい最近まで私は愚痴、文句ばかりでした
    去年その事にやっと気が付いたのです
    入信50年近くになって、50年!
    永いのか、過去世からみれば今世で気が付かせて頂きありがたいのか
    聖教新聞の教学随想という記事でした
    四常金吾に与えられた御書を紹介していた記事でした
    それ以来愚痴、文句は謹んでいます
    生命に染み込んだ命はなかなか消えないですが

    題目をあげて罪障消滅です

  2. うるとらまん より:

    仏も自分の命に愚癡の命(=畜生界)を具え、愚癡を言う衆生の気持ちが分らなければ、そういう苦悩に沈む人々に同苦し救っていくことは不可能になってしまう。 

    う~ん 考え込んでしまいました。
    去年の9月から毎週木曜日に壮年部で本音で語る懇談会をしています。
    最初は幹部批判組織批判の展覧会でした。そこまで言わなくてもいいんじゃないかと思うことありました。
    私は、すべての不満愚痴を吐き出したほうが価値的と思い愚痴文句の展覧会が1ヶ月ぐらい続きました。
    1ヶ月愚痴文句言い続けた後、俺達は幹部批判するために信心しているのではない。幸せになるために信心している。→どうしたら幸せになるんだ→題目 家庭訪問 折伏だとなりました。
    その時の感動は生涯忘れることはありません。
    おかげで1人の未活動男子部と懇談会に勤行するようになりました。ブロック長は、一人を立たせるのに、こんなにしんどい思いをするとは思わなかったと語っていましたが、一人の青年が立ち上がろうとしている現場にいる事の幸福感を痛感しているようです。
    愚痴文句に支配されるのではなく活用できる工夫は大事と思います。現場で活用したいと思います。活動にインパクトあるアップありがとうございます。

    • うるとらまんさん
      東京の壮年部です
      どこもやはり幹部批判、組織批判はあるものなのですね
      うちも会合が終わり帰途につく時とか、お互いに本音が出てしまいますね
      「あれは良くない」「あの人の話しが長い」「あの幹部は何が言いたいのか!」「・・・・」凡夫に染みついた業というのはなかなか取れないものですかね
      これも愚痴?
      良くない!良くない!
      前向き前向きに!

      海外のメンバーが言ってましたね、私達の国では老若男女みんな仲が良くて仲が良くて♪
      でも日本に来ると人の悪口と怨嫉ばかりねぇ~
      と。

  3. Leo2014 より:

    東京の壮年部さん、50年かけて愚癡文句はいけないと気づいたとのこと、愚癡に負けまいと実行できるのは素晴らしいです。
    私はまだ0.5から1%位の割合で、たまに愚癡が出て、グダグダのことを言ってしまう時があります。
    まだ修行が足りないのですね。

    「第六天の魔王我が身に入らんとするに
     兼(かね)ての用心深ければ身によせつけず、
     故に天魔 力及ばずして王臣を始として
     良観等の愚癡の法師原に取り付いて
     日蓮をあだむなり」
    (御書1340ページ)

    と御金言にあります。
    魔王は末法の御本仏たる日蓮大聖人ご本人をも付け狙い、その身に入って信心を破ろうとしたが、先々の用心が深かったので寄せ付けなかったと仰せです。
    そのため力及ばなかった魔王は王臣等のあらゆる階層の人々、愚癡の良観等に入其身(にゅうごしん)して様々な迫害を加えてきたのです。

    これにつけても、魔を寄せ付けない信心が大事と、一念を新たにしています。

  4. Leo2014 より:

    うるとらまんさん、愚癡文句の展覧会1カ月を忍耐で乗り越えて、人材育成されたとのこと、なお聞くにつけ素晴らしい実践ですね。
    「愚癡文句の展覧会」との表現も様子がひしひしと伝わってくる気がします。

    1人が立ち上がった時の感動は生涯忘れないとのこと、そして1人を立ち上がらせるしんどさをB長が改めて知ったとのこと、それもこれも広布の心労を重ね切って結果を出したからこそ味わえたのですね。

    愚癡を言うために信心しているのではない、愚癡を言って幸せにはなれない、と1か月後に気付いたのですか。
    思いっ切り愚癡を吐き出させるとの過程を1度経たからこそ、そこまでの気付きに至ったのでしょうね。
    その背景には、うるとらまんさんとB長等の徹した忍耐と一歩も退かない志があればこそであり、私も見習いたいと思います。
    いつも啓発を与えてくれるコメント有難うございます。