人を育てる(3)

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ここでいくつか御書と先生のご指導を見てみましょう。

(c) 1996年2月24日のご指導

「人がものを教えるというのは、
車輪が重かったとしても油を塗ることによってまわるように、また、船を水に浮かべて進みやすくするように教えるのである」
(通解、御書1574ページ)

大切なご指導である。車輪が重いのに、油も差さずに無理やりまわせば、壊れてしまうであろう。人にものを教えるということも同じである。

「この人の心を軽くしてあげるためには、今、何を話してあげればよいのか」 「あの友が生き生きと前進するには、どう励まし、何をしてあげるのが、いちばんよいだろうか」。このように心をくだくことである。

相手が何を思っているかも考えずに、一方的に”指導”したとしても価値がない。相手が、おなかがすいているのに、長々としゃべる、体の調子が悪いのに、ただ頑張れ、頑張れ――これでは頑張ろうと思っている人でさえ、いやになってしまう。相手が求めているものをあたえる。何をしてあげればよいかを考える、手を打つ――この慈愛が大切なのである。慈愛から知恵は生まれる。

相手のつまずきを除いてあげる、求めているものを与え、行きやすいようにしてあげるとのご指導です。

重い車輪に油を塗る、船を水に浮かべて進みやすくする、との御書は、前回の記事の「盆栽とジャングル」にもありましたが、元々、車輪は回転しており、船も元々前に進んでいると考えられます。

すなわち、その導こうとしている目の前の子供や大人は、元々、伸びよう成長しようという欲求を持っている上に、行きやすいように手を貸してあげるというスタンスなのです。

つまり「外発的」ではなく「内発的」な動機づけの重視です

(d)『永遠の経典「御書」に学ぶ』 第1巻から

また指導者には、訓練、擁護【ようご】、指導、教授の四項目が必要です。問題があれば、親切に「指導」する。あるいは必要な知識を「教授」する。そうやって、本人が行き詰らないようにしてあげる。

疲れている場合は「擁護」してあげる。成長の度合いに応じて「訓練」し、訓育する。これが指導者です。擁護すべき状態なのに訓練すれば、本人が潰【つぶ】れてしまう。指導、訓練すべきときに擁護しては、本人が伸びなくなる。

この場合、あえて言えば、擁護が「主の徳」、指導・教授が「師の徳」、訓育が「親の徳」に当たるかもしれません。

よく言われるように学会は指導主義です。
御本尊に自ら題目を唱えて課題を解決できるよう導くことが根本です。
ともに唱題することが最高の指導とも言えます。

その上で、リーダーには「訓練、指導、擁護、教授」の4項目が必要であるとの仰せです。

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コメント

  1. うるとらまん より:

    深く考えさせられました。ありがとうございます。実践していきたいと思います。私のブログで紹介させて下さい(私のブログは一般向けなので修正します事をお許し下さい)

  2. 福島の壮年 より:

    (1)~(3)までを通して読ませて頂きました。

    結構以前のことですが、転んだ時に、顔面に大怪我を
    してしまう子供が多くなったということが話題になりました。

    私たちは、何かに躓(つまづ)いて前のめりに倒れた時、
    自然と体より先に、手を先に延ばし、より重要な部位である
    顔面や頭を地面に叩きつけないように防御するものです。

    このことが普通にできる人たちは、全く何も意識することなく
    自然とそういう体勢(防護姿勢)を取っていることでしょう。
    いわゆる「反射」の中でも「無条件反射」に類するもので、
    本能的所作なのかとばかり思っていましたが、どうやら
    そうではなく、「条件反射」のひとつなのですね。

    「条件反射」ですから、繰り返し同じような体験を積み
    重ねて、「手を先に地面に付かなければ、大怪我をする」と
    体に覚えこませることで、咄嗟のときには、無意識に、
    自然とそういう防御姿勢を取るようになります。

    ※最新の脳科学では、スポーツの分野でも職人の
     分野でも、熟練されたベテランの人ほど、状況に
     応じて、瞬時に最適な次の動作・行動をとりますが、
     これは、それまでの反復訓練や学習によって、
     脳の極限られた部位を効率よく使い、素早く判断・
     行動に繋げているからだというのが分かってきた
     そうです。
     素人や初心者ほど、「次の行動・動作」をする時に、
     脳の各部位をフル回転させているのだと。
     「脳をできるだけ使う」のはいいことだと思いきや、
     結局、脳をフル回転させるということは、余計な事に
     あれこれと思考を巡らせ決断できずに「迷っている」
     状態なのだそうです。
     繰り返し、反復訓練をしてきたベテランは、状況に
     応じて、最小限に必要な脳の部位を的確に使い、
     瞬時に決断し、次の一手を迷いなく繰り出せるの
     だと。

    話は戻って、なぜ、その条件反射が利かない子供たちが
    増えてしまったのか。
    ヨチヨチ歩きから、少しは走れるようになってきた時期まで、
    最も危うげな歩き方をしている子供たちが転びそうになると、
    すぐに親が手を出して、転ばないように支えてあげたり、
    抱き上げたりをしてしまうので、「手を突かなければ危ない」
    という体験を積めないのだそうです。
    だから、「条件反射」としての防御の仕方も身に付かない
    のだと。

    「人を育てる」に当たっては、過保護でもいけないし、
    放任でもいけないし・・・そのさじ加減は非常に難しいですね。

    最近の少子化の影響で、昔は大勢の兄弟たちの中で揉まれ、
    更には、近所のガキ大将たちと接し、遊んでいく中で、
    「やっていいこと悪いこと」の加減を、自然と学習できたもの
    ですが、そういう適度な「競争」や「気遣い」を、遊びの中で
    身に付けにくくなった状況がありますね。
    社会性の欠落した大人が多くなったのも、その辺に要因が
    ありそうに思います。

  3. Leo2014 より:

    うるとらまんさん、こういう内容で役立つなら、どうぞお使いください。
    あと貴ブログをリンクさせて頂いて宜しいですか。

  4. Leo2014 より:

    福島の壮年さん、大変参考になる条件反射と脳科学の知見の紹介を有難うございます。
    最近の子供が転んだ時に手の付き方を知らず大けがをしてしまう、というのは時々耳にしましたが、生命体として深刻とも言える危機ですね。
    親が手を出し過ぎるのが災いしているというのですから、皮肉であり、教育の困難さの1つを示しています。

    初心者ほど無駄に脳をフル回転させているとの知見も、興味深くもなるほどと思います。
    逆に考えるとベテランは、思考と行動が定式化し、悪く言えばマンネリ化に陥り、新鮮な息吹を失う傾向があるかもしれません。

    何事もある程度の新旧の新陳代謝は欠かせないのでしょうし、経験が長い人も経験だけに頼り過ぎずに、自己の殻を破るための研鑽と精進が常に必要と言えます。

    人は人の中で揉まれてこそ人になる、というのもその通りです。
    IT技術の浸透で人間関係の希薄化や、三軒長屋のおじちゃんおばちゃんといった地域共同体も関わりが弱くなったと言われて久しいです。

    社会性ということでは、自分が元々、理工系ということと、メンタルの持病もあり、欠けていたり弱い部分を気にしており、直していきたいとも考えています。
    ソーシャルスキル・トレーニングの本を読んだりしていますが、知識とともにトレーニングすることにより身に付くものですから、時間は掛かるとの前提で、気長に取り組んでいます。

    こうした社会性という視点でも学会の座談会運動が、いかに人間性を高め社会を維持・発展させることに貢献しているかは、繰り返し繰り返し言う必要があると思います。