
魔は魔であると見破った時に、打ち破ることができる
新人間革命8巻 ~清流の章からの抜粋
●「一」の暴言、中傷を聞いたならば、「十」の正論を語り抜く。その言論の戦いのなかにこそ、「声仏事を為す」(御書708ページ)という精神も、生き生きと脈打つのである。
● さらに彼は、幸福の要諦は自分の心に打ち勝つことであり、何があっても御本尊を信じ抜く、「無疑曰信」(疑いなきを信という)の清流のごとき信心が肝要であることを訴えていった。
「大聖人の仏法の正しさは、文証、理証、現証のうえから証明されております。しかし、ちょっと商売が行き詰まると、すぐに御本尊には力がないと疑いの心をいだく。子供が怪我をしたといっては、御本尊は守ってくれなかったと思う。
また、一部のマスコミが学会を批判したからといって、学会の指導を疑い、御本尊への確信をなくし、勤行もしなくなってしまう。こういう方もおりますが、そうした人に限って、自分自身の生き方や信心を振り返ろうとはしない。それでいて、何かにつけて御本尊を疑い、学会を疑う。それは大功徳を消していくことになります。
赤ん坊は、何も疑うことなく、お母さんのお乳を飲んで成長していきます。しかし、お乳を飲まなくなれば、成長も遅くなり、病気にもかかりやすい。それと同じように、御本尊を信じ、生涯、題目を唱え抜いていくならば、仏の生命を涌現し、生活のうえにも、絶対的幸福境涯の姿を示していけることは間違いないのであります。どうか、御本尊を疑うことなく、題目を唱えに唱え、唱えきって、広宣流布の団体である学会とともに走り抜き、この人生を、最高に有意義に、最高に幸福に、荘厳してまいろうではありませんか」
●数日後、彼女は、方面の壮年の中心幹部に会って、沼山の件を伝えた。その幹部も、さすがに驚きの表情を隠せなかった。
「そんなことをしていたのか。それで、何人ぐらいの人から借金をしているのかね」
「詳しいことはわかりませんが、私が聞いているだけでも数件はあります」
「これは大変な問題だ」
彼は、すぐさま学会本部の指示を仰いだ。早速、この地方を担当している副理事長らが現地入りし、調査を開始した。調査を進めていくと、沼山広司は予想した以上に多くの会員から、借金を重ねていたことが明らかになっていった。しかも、その手口は、いずれも、巧妙に信心を利用したものであった。
(中略)
さらに調査が進むと、妻の三重子の不正行為も浮かび上がっていった。支部事務所に出入りしては、婦人の中心幹部であることを利用し、適当な理由をつけて、自分が私用で使ったタクシー代などを、清算させていたことが判明したのである。三重子は派手好みの、見栄っぱりな性格であった。高価な服を着込み、ちょっと買い物に行くにも、自宅にタクシーを呼ぶという生活ぶりであった。広司の借金にしても、三重子自身が岸坂幸子に語ったように、浪費癖(ろうひぐせ)のある彼女が、そうするように仕向けていたのである。(中略)しばらくすると、三重子の行方が、わからなくなってしまった。異性との問題であった。ほどなく、姿を現しはしたものの、結局、支部婦人部長を、解任せざるをえなかった。
●それから数年後、沼山三重子は、支部婦人部長に復帰した。この人事には、かなりの異論があったが、(中略)ほかに適任者が見つからないということも、大きな理由であった。(中略)三重子は、人の心をつかむ才に長(た)けていた。また如才なく人の面倒をみるという面もあった。彼女の場合、そうした性格が自分の取り巻きを増やすために発揮され、次第に “親分・子分”のような、いびつな組織をつくりあげていったのである。
人事も、すべて自分の感情が優先され、“腰巾着(こしぎんちゃく)” のようなメンバーで固められていった。彼女から、「私の言うことが聞けないの!」と迫られれば、誰も反論などできない雰囲気が、組織内につくられていったのである。また、三重子は、自分の意のままにならない相手には、容赦しなかった。みんなの前で激しく罵倒したり、反対に何を言っても無視するという、陰湿な “いじめ” を執拗(しつよう)に繰り返すのである。皆、「白蛇(しろへび)」と呼んで、彼女を恐れるようになっていった。
彼女が夜中に、電話で、「ちょっと、お寿司が食べたいんだけど」と言えば、市内を車で駆け回り、買い求めて届ける、取り巻きの婦人部の幹部もいた。だが、組織としての活動の結果だけは出ていたこともあり、東京の首脳幹部たちには、その実態がわからなかった。しかし、山本伸一の彼女を見る目は厳しかった。幹部との懇談の折などにも、彼女には、「会員のために奉仕するのが幹部である。自分のために会員を利用するようなことは、絶対にあってはならない」と厳しく言い続けてきた。
●沼山夫婦の処遇については、再度、審議され、学会除名に決定した。山本伸一は、この沼山夫婦の問題を最も深刻にとらえていた。 彼らは、地域の学会の草分けともいうべき存在であり、周囲の幹部も、それを評価し、敬意を表してきた。また、彼らなりに、真剣に活動に励んできた時期もあった。だから、幹部に登用されてきたのである。(中略)信仰とは、己心の魔と仏との戦いでもある。幹部として広宣流布の力となり、一生成仏の道を歩むか、あるいは、退転・反逆していくかは、わずかな一念の差であり、紙一重ともいえよう。
(中略)では、どうすれば、こうした問題を防ぐことができるのか。少しでも、学会の指導に反する行為が見られたならば、相手が誰であろうと、すぐに指摘し、戒めていくという、勇気ある行動をとることである。それが根本的には、学会の組織を守り、相手を守ることにもなる。ともかく、皆が聡明になることだ。悪を見逃さぬ目をもち、悪とは敢然と戦うことだ――それを訴え続けていく以外にないと、山本伸一は思った。
●「三沢抄」には、第六天の魔王が、法華経の行者を悩ませるために、自分の眷属に次のように命令したと仰せである。「かれが弟子だんな並に国土の人の心の内に入りかわりて・あるひはいさめ或はをどしてみよ」(御書1488ページ)つまり、弟子檀那の心のなかに入って、仏子を惑わし、広宣流布の前進をとどめさせよというのである。それは、人びとの意表を突き、不信をいだかせるのに、極めて効果のある、魔の現れ方といえよう。
ゆえに、広宣流布が魔軍と仏の軍との戦いである限り、魔は、幹部の不祥事、退転、反逆というかたちとなって、永遠に現れ続けるにちがいない。だが、何も恐れるには足りない。魔は魔であると見破った時に、打ち破ることができるからである。要は、現象に惑わされるのではなく、“信心の眼”を開き、御書に立ち返ることだ。一見、複雑そうに見える問題も、“信心の眼”で見るならば、すべては明瞭である。
●ところで、不祥事を起こし、学会に迷惑をかけて、退転していった人間は、必ずといってよいほど、学会を逆恨みし、攻撃の牙を剥くものである。それは、一つには、学会を利用し、果たそうとした野望が実現できなかったことから、学会を憎悪し、嫉妬をいだくためといえる。また、不祥事を起こした、脱落者、敗北者の“負い目”“劣等感”を、拭い去ろうとする心理の表れともいえる。そのためには、自己を正当化する以外にないからだ。
そこで、学会や山本伸一を「巨悪」に仕立て上げ、自分を、その被害者、犠牲者として、「悪」と戦う「正義」を演じようとするのである。この本末転倒の心の在り方を、「悪鬼入其身」というのである。しかし、そうした輩の中傷は、なぜか、自分の犯した悪事と同じことを、学会が犯していると吹聴するケースが多い。例えば、金銭問題や異性問題を起こして退転していった者の手にかかると、学会は、そうした問題の温床であり、伸一は、その元凶ということになる。「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といわれるが、人間の思考も、自分の境涯の投影であるからであろう。
●ある時、沼山三重子は、かっての婦人部長である、清原かつを訪ねて来た。清原は、その変わり果てた姿に、息を飲んだ。体はやつれ、顔色は青黒く、生気は全くなかった。三重子が、弱々しい声で、喘ぐように語ったところでは、癌に侵され、しかも、転移してしまっているとのことであった。彼女は、深々と頭を垂れて言った。
「学会にご迷惑をおかけして、本当に申し訳ございませんでした。もう一度、もう一度、学会員にしてください……」
病に苦しみ、死を見すえた彼女は、学会に敵対し、仏法に違背した罪の探さに、気づかざるをえなかったのであろう。仏意仏勅の団体である創価学会の組織を撹乱し、反旗を翻した罪はあまりにも重く、限りなく深い。大聖人は「法華経には行者を怨む者は阿鼻地獄の人と定む」(御書1389ページ)と仰せである。かって教学を学んだ彼女は、病苦のなかで、わが身の罪業の限りない深さに気づき、恐れおののき、地獄の苦にあえぎ続けていたにちがいない。しかも、その業苦は、生々世々にわたることであろう。
清原は、哀れ極まりない沼山三重子の姿を目の当たりにすると、胸が締めつけられ、怒る気にもなれなかった。そして、あまりにも厳しい仏法の因果に慄然とした。清原は言った。
「懺悔滅罪のお題目よ。ともかく、命ある限り、御本尊に、罪をお詫びし抜くしかないでしょ」
しかし、ほどなく三重子は他界している。無残な末路といわざるをえない。人は騙せても、自分は騙せない。また、自分は騙せても、仏法の法理をごまかすことは絶対にできない。生命の因果の法則の審判は、どこまでも厳格であり、峻厳であることを知らねばならない。
【ひと言感想】
もちろん、上のご指導のような悪い幹部は、ごくわずかな数です。理想は全ての幹部が模範の存在であるべきですが、幹部といえど人間革命の途上にあります。全国・全世界の何万、何十万人の幹部のほぼ全ての人達が、広布のため、社会のため、自他の宿命転換のために、真面目に真剣に戦っている方達です。
ともあれ、仏法は峻厳です。たとえ、いかなる誹謗・中傷・迫害があろうとも、学会指導通りに、どこまでも題目根本に前進していきます!
(R7.2.7 加筆・修正しました)
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