難来るをもって安楽と意得べきなり

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ここで、池田先生のご指導から、「難を乗り越える信心」を学んでいきましょう。

 

 

第56回本部幹部会、第13回全国婦人部幹部会

題目を抱きしめて。私は祈った。激闘の中で祈り抜いた。もう寝ても覚めても題目。歩いていても題目。車の中でも電車に乗っても時間さえあれば全て題目。ただただ題目を抱きしめて、この世の残酷な苦難をはね返し、戸田先生が第2代会長に就任される道を命を賭して、切り開いていったのである。

(2006年1月スピーチ、池田大作全集第100巻)

 

 

池田先生のご指導

私は、うんと厳しく指導した人間は一生、大事にしていく。
とことん厳しく薫陶するけれど、そこから立ち上がった人は信用できます。
例えば、功徳が受けられない───家が焼けたとか、母が亡くなったとか、不幸な出来事が起こり、どんなに拝んでも功徳が出ない───。

 

たとえ、そうであっても、歯を食いしばり、御本尊を信じ抜き、学会を守り切っていく、その人は最後は必ず勝っていく。
私は、そういう人を大事にするんだ。
私は、本当の訓練を受けていこうとする人には甘えたことは言わない。
その決意の人には、厳しくしていきます。

(出典、亡失)

 

 

池田名誉会長の写真紀行 光は詩う

意のままにならないからこそ、修行なのだ。そこで奮闘してこそ、「苦を転じて楽となし、敗北を転じて勝利となす」痛快さえも味わえるのだ。

安穏は魂を殺し、順調は魂を殺し、自己満足は魂を殺す。

心から血を流したことのない人間が、どれほど、つまらないか。どん底を見たことのない人生が、どれほど味気ないか。

つまずき、立ち上がるたびに、本当の人生を学べるのだ。耐えて生きている人の心もわかるのだ。

つまずき、立ち上がるたびに、本当の人生を学べるのだ。踏んだり、蹴られたりしなければ、精神がふやけてしまう。

強い人間は、不幸さえも楽しんでいけるのだ。

(2000年4月 第23回 桜樹燦爛から)

 


 

末尾に御書を銘記します。

始めより終わりまで、いよいよ信心をいたすべし。
さなくして、後悔やあらんずらん。
譬えば、鎌倉より京へは十二日の道なり。
それを十一日余り歩みをはこびて、
今一日に成って歩みをさしおきては、
何として都の月をば詠め候べき。
(新池御書 新版p.2063)

 

 

 

 

 

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コメント

  1. ラン より:

    レオさん、池田先生の厳愛のご指導、キレイな満月のお写真をありがとうございます✨

    例の長井某もそうですが、恵まれた環境で、池田先生に間近で接する機会があり、数々のご恩を受けながら、裏切っていく人間もいます。

    師匠に何回会ったとか、何年お側にいたとか、物理的な距離は、まったく関係ないということを、教えてくれている反面教師ですね。

    たとえ、一度も池田先生とお会いしたことがなくても、師匠の仰せ通りに実践できる人が、本物の弟子だと思います。

  2. レオ レオ より:

    ランさん、本当に仰る通りです。仏法は峻厳です。最も心肝に染めるべきご指導の一つだと思います。自分の名聞名利のために師匠を利用した輩たちが、どれほど害毒を流しているか。どれほど不幸な人生を歩んでいくか。反面教師として自己を戒めていきます。

    また本記事にもある通り、難に直面した時に、その人の真価が表れるのですね。何もない時に感謝の心で、どこまで広布の戦いを起こせるか、自分を鍛錬できるかが大事ですね。ありがとうございます。