難の意義(2)

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「難の意義」について、先生のご指導を拝しながら、さらに深めてみたいと思います。

●平成15年2月号、大白蓮華 「御書の世界」
(中略)
 名誉会長 表面的には、大聖人は流罪人で、迫害者たちは権力者であり聖職者です。しかし、内面の実相は、迫害者たちは「悪鬼入其身」であり、大聖人が智者であり、救済者なのです。
 この逆転の実相から佐渡流罪を見るとき、かえって、迫害者たちこそが愚痴【ぐち】と愚行【ぐこう】にがんじがらめに閉じ込められた罪人なのです。

 (中略)
 ある意味で言えば、文永8年の大法難で、鎌倉の門下たちの組織は、一【ひと】たびは確かに壊滅状態になった。
 そして、その再建とは、言うなれば、散り散りになった門下たちが漠然と集まってきたというのではないと思う。大聖人が佐渡から発信される明確な指導のもとに、戦う心が同一になった門下たちが、以前より堅固【けんご】な異体同心の和合僧を築いていった。それが佐渡期の鎌倉の門下たちではないだろうか。

 (中略)
 あえて言えば、真実の信仰に立った、新しい教団の形成とも言えるのではないか。
 そして、その特徴は、一人ひとりが大聖人と師弟の絆【きずな】を固くもっていた、ということです。
 強靭【きょうじん】な広宣流布の組織というのは、人間の信頼の絆が縦横にめぐらされていて初めて実現する。
 嵐のなかの運動です。組織や集団の形式的な論理で一人ひとりが動くわけがない。一人ひとりの人間の絆によってしか支え合うことはできない。
 インドのガンジーも、内外の数千人の人と文通していたといわれる。1日平均、100通の手紙です。10通は自分で書き、何通かは口述【こうじゅつ】、その他の手紙は返事の仕方を秘書に指示した。そして1日の残りはすべて面会者にあてられた(ルイス・フィッシャー著、古賀勝郎訳『ガンジー』)

竜の口に続く佐渡流罪によって、鎌倉の門下たちは壊滅的な状態に陥ります。
しかしこの大難が1人1人の信仰を鍛え上げるとともに、教団として見ても、以前より堅固な異体同心の和合僧を築き上げていったのです。
それは師匠との絆であり、戦う心が同一となった同志の絆が、縦横に張り巡らされたがゆえに強靭となった組織でした。

そして竜の口・佐渡流罪は大聖人にとっての発迹顕本でしたが、ある意味で、弟子門下にとっても1人1人に発迹顕本をうながし、その結果、教団全体の発迹顕本もなされたという見方もできましょう。

ところで諸難とは世界広布の進展した現代では、1つ1つの広布の戦いや法戦が、自身を深く鍛える諸難と捉えることもできます。
難とは迫害者との戦いだけではないのです。
自発能動で自ら求めて、苛烈な広布の戦いに勇んで身を投ずることも、諸難に遭うのと同じ意義があると考えられるのではないでしょうか。

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