迫害こそ誉れ

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猶多怨嫉・況滅度後【ゆたおんしつ・きょうめつどご】 という法華経法師品第十の経文をご存知のことと思います。

釈尊在世すら「猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」(なお・おんしつ・おおし、いわんや・めつどの・のちをや)と読み下し、釈迦が生きていた在世に比べれば比較にならない程、大きな難が末法の法華経の行者には起ってくる、との経文です。
日蓮大聖人は「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(御書p.200)と言われています。
四度の大難とは、

(1)松葉ケ谷(まつばがやつ)の法難・・・・「立正安国論」提出による国主諫暁から間もなく、念仏者数百人に草庵を襲われました。事前の婦人門下の報告によって難を逃れました。

(2)伊豆流罪・・・・いったん鎌倉の外へ難を逃れていた大聖人が、鎌倉へ帰るや幕府に捕えられ伊豆へ流罪されます。40歳の御年5月12日~42歳の2月22日までの1年9カ月にわたります。船守弥三郎などが弟子となっています。

(3)小松原の法難・・・・伊豆流罪を赦免(罪を許されること)されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。1264年43歳の御年11月11日、大聖人の一行は、天津の工藤吉隆邸へ向かう途中、地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時の戦闘で、工藤吉隆、鏡忍房等が死亡し、大聖人も額に傷を負い、左の手を折られました。

(4)竜(たつ)の口の法難・佐渡流罪・・・・他国侵逼難を憂えられた大聖人は公場対決を求めて11カ所に書状を送り、さらに良観との祈雨の戦いにも完膚なきまでに打ち砕き勝利されました。
僣聖増上慢などの画策・謀略が最高潮に達し、大聖人は、何も取り調べがないまま、夜半に鎌倉のはずれにある竜の口に連行され、平左衛門尉らにより、内々で斬首刑にされようとしました。
しかし、まさに刑が執行されようとしたその時、突然、江ノ島の方から”まり”のような大きな光りものが夜空を北西の方向へと走り、兵士たちはこれに怖じ恐れて、刑の執行は不可能となりました(竜の口の法難)。
この後間もなく、50歳の御年10月10日~53歳3月26日の実に2年半にわたって佐渡に流罪されます。
この間に、法本尊開顕の書「観心本尊抄」や、人本尊開顕の書「開目抄」などの重書中の重書をお認めになります。
阿仏房・千日尼夫妻などがこの間に弟子になります。

50歳という人生の晩年に差し掛かってからの、この大難は筆舌に尽くせぬほど、大聖人の心身を苛【さいな】んだのではと思います。
流罪した幕府から見れば、佐渡へ流罪しておけば間違いなく生きては帰れない、という事実上の死刑宣告に等しいものでした。
池田先生の「立正安国論講義」に詳しく述べられていますが、当時の佐渡島は準氷河期ともいうべき酷寒の気候でもありました。
その厳しき生活状況や住まいの模様は、「種種御振舞御書」にも詳しく書かれています。

末法の御本仏の強靭この上ない生命力・精神力あればこそ、耐え抜かれ切り抜かれた、正に不自惜身命の御一生でありました。
ただ我々末法の衆生のため、法のため、国のために正義を叫ばれ、万人が持つ仏としての無眼の可能性を、示し切って下さいました。

御本仏でさえこれ程の苦難を乗り越えて行ったのですから、牧口先生が言ったように「九牛の一毛」です。
私たち門下も多少の苦難に負けることなく、朗らかに前進していきましょう。

末尾に、今回の記事の啓発を与えてくれた「寺泊御書」の現代語訳を載せます。

勧持品第13には「仏教を知らない多くの人々が、私たちを非難し、罵【ののし】る」とある。
日蓮は、この経文に当たっている。
あなたたちは、どうして、この経文に入らないのか。
「刀や棒で打つ者がいる」とある。
日蓮はこの経文を身で読んだ。
あなたたちは、どうして、この経文を読まないのか。
「常に大衆の中にいて、私たちの過失をあげつらおうとする」とある。
「国王、大臣、婆羅門、社会の有力者に向かって」とある。
「悪口し、顔をしかめ、数数(しばしば)所を追われようとする」と。
「数数(しばしば)」とは、たびたびである。
日蓮は所を追われること幾度も、流罪は二度である。
法華経は三世の説法の儀式である。
過去の不軽品は今の勧持品であり、今の勧持品は過去の不軽品である。
今の勧持品は未来は不軽品となるであろう。
その時は、日蓮はすなわち不軽菩薩となるであろう。
(953㌻15行目~954㌻2行目)

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