賢聖は罵詈して試みるなるべし ー10時間唱題 (35)(36)

この記事は約5分で読めます。

現在、毎年恒例の確定申告の作業中です。青色申告に切り替えて15回目となります。すべて複式簿記で会計ソフトに入力していきます。複式簿記とは、仕入れ先や売上先等の全ての取引を、借方○○円、貸方○○円と入力していきます。1年間の事業の取引を全て、地道に入力していくと、最後に「損益計算書」と「貸借対照表」が得られます。

 

これらに基づいて申告用紙に転記・スキャン後、e-Taxと呼ばれるインターネットを利用して税務署に提出します。その後、確定申告により確定した所得税、消費税等の各種税金を、納付して完了となります。途中、e-Taxによるデータの送信では、ICカードリーダーをパソコンに接続し、マイナンバーカードを読み込んで個人・法人情報を識別したうえでデータを送信します。

 

確定申告自体は売上を生まず無報酬の作業ですが、収入状況と納税状況を知るために、そして1年間の経営状況を把握するためには、避けて通れません。それに加えて現在、見込み客名簿を整備しながら、新規開拓の営業を行なっているところです。自営業(フリーランス)において、受け身で黙っていても仕事は来ません。とにかく的確な行動を起こすことにより、あたかも、川の流れの淀みが解消されるように、物事が動きだすものです。

 

昨今、あらゆるものの価格が高騰する中、企業や消費者の財布のヒモは固くなっています。だからこそ、今まで以上の、積極的な姿勢で働きかけていく姿勢が必要だと思います。もちろん、売込み一辺倒ではお客さんの警戒心を煽るだけで、売れるものも売れなくなります。営業戦略、マーケティング戦略、価格戦略等、上手に進めていかねばなりません。こうした事業の課題や、人生・生活の課題・目標を懸けて10時間をまた2回行ないました。以下の画像がその模様です。

 

 

ではここで、御書をいくつか学びましょう。

 

同生同名御書 新版1,518㌻

石を珠(たま)といえども珠(たま)とならず、珠(たま)を石といえども石とならず。権経の当世の念仏等は石のごとし。念仏は法華経ぞと申すとも、法華経等にあらず。また、法華経をそしるとも、珠の石とならざるがごとし。

 

法華経の実践者をいかに貶めようとも、珠は決して石とはならないのです。逆に、石が珠を名乗ったとしても、石が珠になることは決してない、との御文です。

 

佐渡御書 新版1,288㌻

鉄(くろがね)は炎(きた)い打てば剣となる。賢聖は罵詈(めり)して試みるなるべし。我、今度の御勘気は、世間の失(とが)一分もなし。ひとえに、先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし。

 

賢人・聖人、つまりその人が本物の人物であるかどうかは、中傷・誹謗を受けて初めて分かると仰せです。大聖人は世間的な過失が全く無かったにも関わらず、命に及ぶ迫害を受けられました。ただただ、法のため人のため国のために、大難をものともせず乗り越えられ、正義を証明されたのです。

 

経王御前御返事 1,633㌻

また、この曼荼羅能く能く信ぜさせ給うべし。南無妙法蓮華経は師子吼のごとし、いかなる病さわりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。

 

南無妙法蓮華経は「師子吼のごとし」と仰せです。元品の無明を断破する利剣が唱題行です。師子が吼(ほ)えるように、勇気凛々と実践に打って出る、「師子王の心」を湧現できる題目なのです。臆病者には決して、実践することは不可能な題目なのです。

 


 

次に、「四悉檀」なかでも「為人悉壇」、また、「対告衆」は誰なのか等の捉え方はあるでしょうが、御書や学会指導は結局、自分のこととして読むことが大事です。対告衆が誰々だから自分には関係ない、と取捨選択してしまうなら、自分に直接関係あると判断することは受け入れ、そうでない御書は無視するということになってしまう。結局、自分の境涯に合わせた読み方から脱せられないことになる。

 

改めて青年教学1級試験でも学んだように、御本尊に認められた、釈尊も、地涌の菩薩も、縁覚・声聞やその他の十界の衆生も、すべて己心の十界の生命なのです。法華経に登場する十界の衆生も、すべて己心の十界なのです。このことからも、経文や御書、さらに学会指導は「我がこと」として読んでいく姿勢が大事です。御書も先生の指導も、他人ごととして読むのでなく、「自分に宛てて送られたお手紙として拝すべき」との指導の意味の一端がここにあるでしょう。

 

さらに信心の上での「勇気」とは、ネット上で勇ましく他人を論破したり、自己の勇敢で知恵者なることを、殊更(ことさら)に顕示(けんじ)することではありません。バーチャルはどこまで行ってもバーチャルです。あたかも、ゲームのプレーヤーが、ゲーム内でのスキルや勇猛さを、自画自賛しているようなものです。匿名性に身を隠しきった姿勢で、自己の勇気をひけらかし、他者を貶めるのだとすれば、それは卑怯です。

 

具体的に、何を実践し、誰に何を語り、誰に何をはたらきかけ、どう折伏・弘経したのか。これは何も、固有名詞や個人名を一つも出さなくとも、述べることはたやすいことです。また、勇気ある広布の実践によって、具体的にいかなる難・迫害を呼び起こし、どのような不惜身命の実践によって、それらを乗り越えていったのか。こうした具体性こそが「体験」であり、万人に説得力を持ち、人を鼓舞(こぶ)するものです。

 

悩める多くの人々を救いきってきた、真の勇気漲(みなぎ)る体験、誰もが怯(ひる)み諦めてしまうような大難を乗り越えた体験を、ぜひともお聞きしたいです。

 

 

 

 

0Shares

コメント