父母への御孝養には、法華経を贈り給べし

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教学試験の学習会を再開しました。日蓮大聖人は佐渡流罪という、食べる物にも事欠き御命を狙われることさえあった危機的状況下で、観心本尊抄をお認めになりました。また、観心本尊抄は南無妙法蓮華経の御本尊を明かした「法本尊開顕の書」であり、最高峰の御書です。それだけに、戸田先生の十大部講義録、池田先生の小冊子の講義、最新の世界広布の翼を広げて・観心本尊抄第1版、第2版と、30年以上かけて各講義録を読了してきました。

 

難解さもさることながら、「無二の志を見ば、これを開拓せらるべきか」と送り状にあるように、信心がなければ、この書を見ても、かえって誹謗や退転の心を抱き、成仏の軌道から外れることになるだろうと戒められています。根本は題目しかないとの思いで、毎日3時間20分の唱題を欠かすことなく、学習会に臨んでいます。

 

相応の準備の上で今回の学習会を迎えたつもりですが、元々、暗愚な質の自分には「荷が重い」と思うことも度々です。それでも、負けじ魂で、自分を鼓舞しながら取り組む毎日です。最近では、自分が不充分な説明や余計な話をするよりも、なるべく教材を読み合わせしていくことを主に心掛けています。何より、受験者本人の真剣さはもちろん、題目と応援を送っくださる同志の方々に、力を頂いており深く感謝しております。それでは、最近、身内と読み合わせ、再び感動を深めた御書を紹介いたします。

 

 

 

刑部左衛門尉女房御返事 全集1,397㌻

 

或経に云く六道の一切衆生、仏前に参り集りたりしに、仏、彼れ等が身の上の事を、一一(いちいち)に問い給いし中に・仏、地神に汝、大地より重きものありやと問い給いしかば、地神、敬んで申さく、大地より重き物・候と申す、仏の曰く(いわく)いかに地神、偏頗(へんぱ)をば申すぞ、此の三千大千世界の建立は皆大地の上にそなわれり、所謂(いわゆる)、須弥山の高さは十六万八千由旬、横は三百三十六万里なり・大海は縦横八万四千由旬なり、其の外の一切衆生・草木等は皆大地の上にそなわれり、此れを持てるが大地より重き物有らんやと問い給いしかば、地神答て云く

 

仏は知食(しろしめ)しながら、人に知らせんとて問い給うか、我、地神となること二十九劫なり、其の間、大地を頂戴して候に、頸(くび)も腰も痛むことなし、虚空を東西南北へ馳走(ちそう)するにも重きこと候はず、但(ただ)、不孝の者のすみ候・所が、身にあまりて重く候なり、頸(くび)もいたく腰もおれぬべく膝もたゆく足もひかれず眼もくれ魂もぬけべく候、あわれ此の人の住所の大地をば・なげすてばやと思う心たびたび出来(しゅったい)し候へば不孝の者の住所は常に大地ゆり候なり、

 

されば教主釈尊の御いとこ、提婆達多と申せし人は、閻浮提第一の上﨟(じょうろう)・王種姓なり、然れども不孝の人なれば我等、彼の下の大地を持つことなくして、大地破れて無間地獄に入り給いき、我れ等が力及ばざる故にて候と、かくの如く地神、こまごまと仏に申し上げ候しかば・仏は、げにもげにもと合点せさせ給いき、又、仏、歎いて云く、我が滅後の衆生の不孝ならん事・提婆にも過ぎ、瞿伽利(くぎゃり)にも超えたるべし、等云云、取意、涅槃経に、末代悪世に、不孝の者は大地微塵よりも多く、孝養の者は爪上の土よりもすくなからんと云云。

 

今、日蓮、案じて云く、此の経文は、殊(こと)にさもやとをぼへ候、父母の御恩は、今初めて、事あらたに申すべきには候はねども・母の御恩の事、殊(こと)に心肝に染みて貴(とうと)くをぼへ候、飛鳥の子をやしなひ、地を走る獣の、子にせめられ候事・目もあてられず魂もきえぬべくをぼへ候、

 

其(それ)につきても母の御恩忘れがたし、胎内に九月の間の苦み、腹は鼓(つづみ)をはれるが如く、頸(くび)は針をさげたるが如し、気は出づるより外に、入る事なく、色は枯れたる草の如し、臥(ふせ)ば、腹もさけぬべし、坐(ざ)すれば五体やすからず、かくの如くして、産(さん)も既に近づきて、腰はやぶれて・きれぬべく、眼はぬけて天に昇るかとをぼゆ、かかる敵(かたき)を、うみ落しなば、大地にも・ふみつけ、腹をもさきて、捨つべきぞかし、さはなくして、我が苦を忍びて、急ぎいだきあげて、血をねぶり不浄をすすぎて、胸にかきつけ、懐きかかへて、三箇年が間、慇懃(ねんごろ)に養ふ、

 

母の乳をのむ事・一百八十斛(こく)三升五合なり、此乳(この・ちち)のあたひは、一合なりとも三千大千世界にかへぬべし、されば乳一升のあたひを撿へて候へば、米に当れば一万一千八百五十斛(こく)五升・稲には二万一千七百束に余り・布には三千三百七十段なり、何に況や(いかにいわんや)一百八十斛三升五合のあたひをや、他人の物は銭の一文・米一合なりとも盗みぬれば、ろう(牢)のすもり(巣守)となり候ぞかし、

 

而(しか)るを、親は十人の子をば養へども、子は一人の母を養ふことなし、あたたかなる夫をば懐きて臥(ふ)せども、こごへたる母の足をあたたむる女房はなし、給孤独園(ぎっこどくおん)の金鳥は、子の為(ため)に火に入り・憍尸迦夫人(きょうしかふじん)は夫の為(ため)に父を殺す、仏の云く、父母は常に子を念へども、子は父母を念はず等云云、影現王(ようげんおう)の云く、父は子を念(おも)ふといえども、子は父を念はず、等是れなり、

 

設(たと)ひ又・今生には、父母に孝養をいたす様なれども、後生のゆくへまで問う人はなし、母の生(いき)てをはせしには、心には思はねども、一月に一度・一年に一度は問いしかども・死し給いてより後は、初七日より二七日、乃至、第三年までは、人目の事なれば、形の如く問い訪(とぶら)ひ候へども・十三年・四千余日が間の程は・かきたえ問う人はなし、生てをはせし時は、一日片時のわかれをば、千万日とこそ思はれしかども、十三年、四千余日の程は、つやつやをとづれなし、如何(いか)に、きかまほしく、ましますらん、夫(それ)、外典の孝経には、唯(ただ)・今生の孝のみををし(教)へて、後生のゆくへをしらず、身の病を、いやして、心の歎きをやめざるが如し、内典五千余巻には、人天二乗の道に入れて、いまだ仏道へ引導する事なし。

 

(中略)
父母に御孝養の意(こころ)あらん人人は、法華経を贈り給べし、教主釈尊の、父母の御孝養には、法華経を贈り給いて候

 

 

 

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コメント

  1. ラン より:

    レオさん、記事をありがとうございます!教学試験の講師、本当にお疲れ様です✨
    観心本尊抄は難解な御書です。お題目をあげ、真剣に研鑽されて講義にあたられているとのこと、本当に尊いことだと思います。

    御書のご紹介もありがとうございました。
    苦しい思いをして自分を産んでくれた、母親への恩は絶対に忘れてはいけませんね。

    • レオ レオ より:

      ランさん、深いご理解と励まし、いつも誠にありがとうございます。
      受験者とともに、信心の合格者を目指していきます❗