煩悩即菩提(2)

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釈尊は苦行の果てに、「自らの死によって苦悩から脱する」ことは不可能であることを知った。
生きてこそ真の悟りは得られるのが道理であるし、苦行の果てに「死を選択」することは、修行の破綻であり、現実からの逃避に過ぎないと見抜いていたのだ。

爾前経では生命の六界までしか説かれず、四聖、中でも仏界が明かされないゆえ、菩提=仏界という目的を達するためには、煩悩=六界はあくまで障碍【しょうげ】としてしか捉えられず、不幸の因と見なされたのである。
すなわち十界が完全に明かされなかったゆえに、爾前では煩悩を断ずることに力点が置かれたのである。

しかし法華経に至って一転して貪・瞋・痴の惑を断ずることに真意は無く、爾前経は法華経に導く方便の役目だったのである。
そして「煩悩即菩提 ぼんのうそくぼだい」という画期的な力用が明かされるのである。

「煩悩の薪【たきぎ】を焼いて菩提の慧火現前【えか・げんぜん】するなり、
煩悩即菩提と開覚するを焼則物不生【しょう・そく・もつふしょう】とは云うなり」
(御書p.710)

とある通り、煩悩を燃料として燃え上がる炎が、仏界の悟りの智慧の炎となる。
煩悩が強ければ強いほど、すなわち悩みが多きければ大きいほど、仏界も大きく顕れてくるのである。
ここで、即の一字は信心唱題である。

煩悩即菩提を信心でとらえるなら、悩むがゆえに、御本尊に題目を唱え、自己の生命に仏智を湧現することである。
また、煩悩即菩提を生活でとらえる場合は、もろもろの生活上の不幸があるゆえに、信心修行に励み、物心ともに最高の幸福生活を成就することである。

悩みがあるからこそ、生活上に不幸があるからこそ、それを燃料として題目と学会活動に真剣に取り組むことができる。
その時に自分が奮い起こした信力・行力に応じて、御本尊の仏力・法力が厳然と現れ、最高の功徳の生活、真の遊楽と所願満足の人生が開けるのである。

人間は何不自由ない悩みもない満ち足りた生活を送っていれば、信心を行じる求道心は湧かないものである。
タキギの量が少な過ぎるゆえに、たき火の炎も小さくなるのと同じである。
その意味でも、大きな悩みがあるのは、真剣に信心に取り組める好機であり、境涯を開く絶好のチャンスでなのである。

また別の見方をすれば、菩薩界・仏界が生命に定着してくれば、すなわち悩みが無くとも戦えるようになれば、タキギとしての悩みを必要としないか、或いは少なくても済み、幸福感の連続となり「これ以上の幸せはない」という円熟の境涯となったと言えるのであろう。
末尾に、先生のご指導を紹介する。

小欲知足【しょうよくちそく】は大切だが(笑い)、正法に対しては貪欲であらねばならない。
欲を消し去るのではない。
何を欲するかが大事なのです。
「煩悩即菩提」です。
無上の悟り、菩提を求める欲は、即【すなわ】ち菩提となる。
 ”自分は、この程度でいいのだ”というのは、謙虚に似て、実は、生命の可能性を低く見る大慢なのです。

 

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