極悪と戦ってこそ極善となる

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3月3日に続いて、13日にも通算29回目となる十時間唱題を完遂しました。では早速、本題に入ります。

 

十界互具論から言っても、一人の内面には善と悪の両方の生命があるのが実相です。時々刻々と縁に触れて三悪道、六道から、さらに四聖までの、十界それぞれの境涯を顕します。さらに、個々の生命から社会や歴史に目を転じてみると、何が正義で何が悪なのかは簡単には断定できない面があります。

 

正義と悪は時代や政治のあり方等により、大きく変わってしまうことが少なくない。それは、日本の終戦の混乱期を例として挙げるまでもないでしょう。また、互いに正義を主張しながら国家間で戦争を行ない、多くの人々の生命を奪ってきたのが人類の歴史と言えます。聖戦を叫んでテロを行なう人間さえいます。

 

この余りに深い人間の「業」に対して、仏法の真髄である創価の仏法がいかなる解決の鍵を見出したか。善と悪をどう説いているのか。極悪の提婆はいかにして成仏したのか。悪をも善に変える妙法の力用とは何か。『法華経の智慧』を通し、先生の講義から学びましょう。

 

 

 『法華経の智慧』 提婆達多品(第十二章)から

極悪の提婆をも「善知識」と

(中略)
斉藤 今、提婆が「善知識」とありましたが、現実に今世の釈尊にとっては、提婆達多は「悪知識」にほかなりません。提婆は、釈尊を殺そうとしたり、破和合僧、つまり正法の教団を分裂させたり、女性門下(蓮華色比丘尼)を殴り殺したりしました。その大悪人が過去世では、「善知識」であったと言うのです。ここでは善悪が全く逆転しています。それどころか、不思議なことに、提婆達多が過去世においては、釈尊の師匠であったと説かれていきます。これも悪人が仏の師匠であったというのですから、常識では考えられないことです。

 

須田 そこで手がかりになると思われるのは、提婆品で、釈尊が成仏したのは「皆な提婆達多が善知識に因るが故なり」(法華経400ページ)と説かれていることです。提婆達多がいなければ、釈尊も仏にはなれなかった、と。天台大師も『法華玄義』で「悪によって善あり、悪を離れて善なし」、また「悪は是れ善の資(=善を助けるもの)なり。悪なければ、また善もなし」と述べています。

 

池田 そこだね。善と悪とは「実体」ではない。どこまでも「関係」の概念です。ゆえに、一人の人間がはじめから善人であるとか、悪人であるとか決めることはできない。牧口先生は、「善人でも大善に反対すれば直ちに大悪に陥り、悪人でも大悪に反対すれば忽に大善になる」と言われていた。(『価値創造』、『牧口常三郎全集』10、趣意、以下同書から)(中略)「かの良観、道隆の輩も、もし日蓮大聖人が出現されなかったならば、生き仏として現世を終わったであろう。残念なことには、彼らはこの関係がわからず、私利私欲に目がくらみ、大悪僧になってしまった」と。やはり嫉妬によって悪人になってしまった。

 

斉藤 牧口先生は「公益を善という」と定義されています(『創価教育学大系』同全集5)。法華経は、万人を成仏へと導く経典です。その意味で、法華経は最高の公益、最高の善を目指していると言えますね。

 

悪と戦い、打ち勝ってこそ「善悪不二」

池田 それが仏の心である。ゆえに仏は極善です。しかし、それは仏の生命に悪がないということではない。悪は、可能性として仏の生命にも具わっている。しかし、最高の善を目指し、悪と戦い抜いているがゆえに、仏は善なのです。大聖人は「善に背くを悪と云い悪に背くを善と云う、故に心の外に善無く悪無し」と仰せです。善も悪も実体ではない。空であり、関係性によって生ずる。だからこそ、たえず善に向かう心が大事であり、行動が大事なのです。

 

須田 (中略)生命の実相は善悪不二であり、善も悪も生命に具わっている。だからこそ、実践の上では、法性を根本とし、善を目指さなければならないと。

 

池田 そう。仏法は勝負です。限りなき闘争です。釈尊が提婆達多に勝ったからこそ提婆の「悪」が釈尊の「善」を証明することになった。悪に負けてしまえば、善知識であったとは、とても言えない。戸田先生は明快に言われています。

 

「提婆達多は釈迦一代にわたる謗法の人で、一切世間の諸善を断じた。ゆえに爾前経では『悪がなければもって賢善を顕すことができない。このゆえに提婆達多は無数劫以来、常に釈迦とともにあって、釈迦は仏道を行じ提婆は非道を行じてきた。しこうして互いに相啓発してきたものである』と。しかるに対悪顕善(=悪に対して善を顕す)が終われば悪の全体はすなわちこれ善である。ゆえに法華経では善悪不二、邪正一如、逆即是順(=逆縁も即ちこれ順縁)となるのである。このことは爾前経ではいまだ説かれなかった奥底の義である」(『戸田城聖全集』6)

 

悪もまた善を顕す働きをするのであれば、悪の全体がそのまま善になります。まさに善悪不二です。しかし、自然のままに放置していて、悪が善になるのではない。悪と戦い、完膚なきまで打ち勝って、はじめて善悪不二となるのです。その意味で、提婆品の「悪人成仏」とは、釈尊による「善の勝利」の偉大な証明です。勝利宣言です。その「勝者」の境涯が高みに立ってはじめて、提婆が過去の善知識であり、自分の師匠であって、今世で自分の化導を助けてくれたのだと言えるのです。

 

(中略)提婆達多も、生命の真実の姿においては、善悪不二です。無明と法性が一体の妙法の当体です。釈尊が師とした過去世の提婆達多とは、じつは、この妙法そのものだったと言えるのです。
 ゆえに大聖人は「提婆は妙法蓮華経の別名なり過去の時に阿私仙人なり阿私仙人とは妙法の異名なり」と仰せです。釈尊も根源の妙法を師として成仏しました。そのことを提婆品では、釈尊が過去世に阿私仙人を師匠として修行し、成仏したという表現で示したと考えられます。

 

遠藤 「善悪不二」というのは、決して「善も悪も同じだ」ということではないですね。
須田 そういう考え方だと、これは悪をも肯定してしまいます。日本天台宗が陥った「本覚思想」のようになってしまう。そうではなく、つねに「善」を創造し、悪をも善に変えていくというのが法華経の「善悪不二」論ですね。

 

池田 そう、悪知識をも善知識に変えるのが妙法の力であり、苦悩をも喜びに変え、追い風に変えるのが信心の一念の力です。提婆品は、このことを教えているのです。日蓮大聖人は、「釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよく成(なす)ものは方人(かとうど)よりも強敵が人をば・よくなしけるなり」──釈迦如来の御ためには、提婆達多こそ第一の善知識である。今の世間を見ると、人を立派にしていくものは、味方よりもむしろ強敵が人を立派にしていくのです──と言われている。

 

成仏するには「内なる悪」に勝利しきらなければならない。そのためには具体的には「外なる悪」と戦い、勝たねばならない。悪と戦うことによって、生命が鍛えられ、浄められ、成仏するのです。極悪と戦うから、極善になるのです。自分の生命を鍛え、成仏させてくれるという本質論から見たときには、その極悪も師匠とさえ言えるのです。

 

ゆえにポイントは、極悪の提婆達多をも過去の師匠なり、と説く釈尊の「大勝利の境涯」にあります。勝ったからこそ、そう言えるのです。勝ったからこそ仏なのです。日蓮大聖人も大勝利されたからこそ、こう仰せなのです。「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信・法師には良観・道隆・道阿弥陀仏と平左衛門尉・守殿ましまさずんば争(いかで)か法華経の行者とはなるべき」と。

 

御本仏を迫害した「悪」の存在をも「善」に変えてしまわれた。実際、大聖人や釈尊のそういう戦いの模範があったからこそ、後世の私どもは「正道」がどこにあるかわかる。その意味で、提婆も平左衛門尉たちも、反面教師として、後世に「善の道」を示してくれている、といえるでしょう。

 

創価学会も、ありとあらゆる迫害・弾圧・策謀に全部、打ち勝ってきました。その戦いによって、皆の信心が深まり、強くなった。難もなく、簡単に広宣流布ができたら、鍛えの場がなく、成仏する修行の場がなくなってしまう。難即前進です。煩悩即菩提です。一切の苦悩を即幸福へのエンジンとしていくのです。一切の悪を、善の炎がいや増して燃えさかるための薪としていくのです。

 

斉藤 提婆達多品の意義が、ぐっと深く感じられるようなりました。

 

 

御書を講義する若き池田先生

 

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