末代の三毒のかしこさは、いかなる賢人・聖人も治め難い

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夏の風物詩-風鈴

 

 

ご無沙汰しています。久しぶりの投稿となりますが元気です。4回目の御書全編拝読に向けて進めています。その中で印象に残った部分を抜粋します。

 

 

減劫御書から(御書1966㌻)

漢土・日本国は、仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもって民の心をととのえてよをば治めしほどに、次第に人の心はよきことははかなく、わるきことはかしこくなりしかば、外経の智あさきゆえに、悪のふかき失(とが)をいましめがたし。外経をもって世おさまらざりしゆえに、ようやく仏経をわたして世間をおさめしかば、世おだやかなりき。これはひとえに、仏教のかしこきによって人民の心をくわしくあかせるなり。

 

(中略)
また、人の心ようやく善の智慧ははかなく悪の智慧かしこくなりしかば、仏経の中にも小乗経の智慧、世間をおさむるに、代おさまることなし。その時、大乗経をひろめて代をおさめしかば、すこし代おさまりぬ。その後、大乗経の智慧及ばざりしかば、一乗経の智慧をとりいだして代をおさめしかば、すこししばらく代おさまりぬ。

 

今の代は、外経も小乗経も大乗経も一乗法華経等も、かなわぬよとなれり。ゆえいかんとなれば、衆生の貪・瞋・癡の心のかしこきこと、大覚世尊の大善にかしこきがごとし。譬えば、犬は鼻のかしこきこと人にすぎたり。また鼻の禽獣をかぐことは、大聖の鼻通にもおとらず。ふくろうがみみのかしこき、とびの眼のかしこき、すずめの舌のかろき、りゅうの身のかしこき、皆かしこき人にもすぐれて候。そのように、末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは、いかなる賢人・聖人も治めがたきことなり。

 

その故は、貪欲をば、仏、不浄観の薬をもって治し、瞋恚をば慈悲観をもって治し、愚癡をば十二因縁観をもってこそ治し給うに、いまはこの法門をといて、人をおとして、貪欲・瞋恚・愚癡をますなり。譬えば、火をば水をもってけす。悪をば善をもって打つ。しかるに、かえりて水より出でぬる火をば、水をかくれば、あぶらになりていよいよ大火となるなり。

 

今、末代悪世に、世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり。これをばしらずして、今の人々善根をすすれば、いよいよ代のほろぶること出来せり。今の代の天台・真言等の諸宗の僧等をやしなうは、外は善根とこそ見ゆれども、内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり。

 

しかれば、代のおさまらんことは、大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有って、仙予国王のごとくなる賢王とよりあいて、一向に善根をとどめ、大悪をもって、八宗の智人とおもうものを、あるいはせめ、あるいはながし、あるいはせをとどめ、あるいは頭をはねてこそ、代はすこしおさまるべきにて候え。

 

法華経の第一の巻の「諸法実相」乃至「ただ仏と仏とのみ、いまし能く究尽したまえり」ととかれて候はこれなり。「本末究竟」と申すは、「本」とは悪のね善の根、「末」と申すは悪のおわり善の終わりぞかし。善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり。(中略)法華経に云わく「皆実相と相違背せず」等云々。天台これを承けて云わく「一切世間の治生産業は、皆実相と相違背せず」等云々。智者とは、世間の法より外に仏法を行わず。世間の治世の法を能く能く心えて候を、智者とは申すなり。

 

殷の代の濁って民のわずらいしを、太公望出世して殷の紂が頸を切って民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし、張良出でて代をおさめ民の口をあまくせし、これらは、仏法已前なれども、教主釈尊の御使いとして民をたすけしなり。外経の人々はしらざりしかども、彼らの人々の智慧は、内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり。

 

今の代には、正嘉の大地震、文永の大せいせいの時、智慧かしこき国主あらましかば、日蓮をば用いつべかりしなり。それこそなからめ、文永九年のどしうち、十一年の蒙古のせめの時は、周の文王の太公望をむかえしがごとく、殷の高丁王の傅説を七里より請ぜしがごとくすべかりしぞかし。日月は生盲の財にあらず。賢人をば愚王のにくむとは、これなり。しげきゆえにしるさず。法華経の御心と申すは、これていのことにて候。外のこととおぼすべからず。

 

大悪は大善の来るべき瑞相なり。一閻浮提うちみだすならば、「閻浮提内、広令流布(閻浮提の内に、広く流布せしむ)」は、よも疑い候わじ。

 

 


 

【ひと言感想】

末法の世になると人々の瞋(いかり)、貪(むさぼ)り、愚か、の三毒の心が際限なく、ずる賢くなると仰せです。「衆生の貪・瞋・癡の心のかしこきこと、大覚世尊の大善にかしこきがごとし」とあるように、人々が悪に対して賢いことは、仏である釈尊が大善に対して賢いことと匹敵する位だというのです。

 

その原因は、真言などの邪法の僧らが流した、「謗法」の邪智・悪知恵が元凶なのです。ですから、仏と為政者が協力して謗法の根を断っていけば、世も治まるであろうと仰せです。本来、周の文王が殷の紂王を討つために、太公望を補佐役として最大の礼儀をもって迎えたように、幕府は大聖人の主張を採用し用いるべきだったのです。しかし実際は、夜陰に乗じて斬首しようとしたが果たせなかったので、2年半に及ぶ佐渡流罪という、大難をもって大聖人に報いたのです。

 

「大悪は大善の来るべき瑞相なり」に続く、余りに有名な御文は、その大難を生きて勝ち越えた日蓮大聖人から創価学会へ脈々と流れる、広布の大確信であり大宣言です。本抄の冒頭で問い掛けられた、末法の三毒強盛な衆生を根底から救いきるのは誰でいかなる法かとの問いに、完璧に合致する教団は大聖人の仏法を継承した創価学会をおいて他にないのです。

 

 


コメント

  1. ラン より:

    レオさん、おはようございます記事ありがとうございます!

    「大悪は大善の来るべき随想なり」

    今、我が家の宿命転換をかけて戦っているまっ最中なので、とても勇気づけられました。ありがとうございました✨

  2. レオ より:

    ランさん、こんにちは。コメントいつもありがとうございます。

    ご家庭の宿命転換の戦いの只中なのですね。一つ乗り越えたらまた次の悩みが来ますが、いよいよ強盛な信心を奮い起こし、境涯を開いていけますね。

    自分も新たな難に直面中ですが、晴れやかに勝利のご報告していけるよう、戦います❗