最蓮房御返事より

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最近拝読した御書の、特に印象に残った部分を抜粋します。

実に無始曠劫の契約・常与師倶生の理ならば
日蓮
今度成仏せんに貴辺豈(きへん・あに)相離れて
悪趣に堕在したもう可きや、

如来の記文仏意の辺に於ては
世出世に就いて更に妄語無し、

然るに法華経には「我が滅度の後に於て応(まさ)に斯(こ)の経を受持すべし、是の人仏道に於て決定(けつじょう)して疑有ること無けん」或は「速為疾得・無上仏道」等云云、

此の記文虚(むなし)くして我等が成仏今度虚言ならば
諸仏の御舌もきれ・多宝の塔も破れ落ち
二仏並座は無間地獄の熱鉄の牀(ゆか)となり
方・実・寂の三土は地・餓・畜の三道と変じ候べし、

争(いかで)かさる事候べきや
あらたのもしや・たのもしや
是くの如く思いつづけ候へば 我等は流人なれども
身心共にうれしく候なり。

大事の法門をば昼夜に沙汰(さた)し
成仏の理をば時時・刻刻にあぢはう、
是くの如く過ぎ行き候へば
年月を送れども久(ひさし)からず過ぐる時刻も程あらず、

例せば釈迦・多宝の二仏・塔中に並座して
法華の妙理をうなづき合い給いし時
五十小劫・仏の神力の故に諸の大衆をして半日の如しと
謂(おも)わしむと云いしが如くなり、

劫初(こうしょ)より以来
父母・主君等の御勘気を蒙(こうむ)り
遠国の島に流罪せらるるの人
我等が如く悦び身に余りたる者よも・あらじ、

されば我等が居住して一乗を修行せんの処(ところ)は
何れの処にても候へ常寂光の都為(みやこ・た)るべし、
我等が弟子檀那とならん人は
一歩を行かずして天竺の霊山を見
本有(ほんぬ)の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事
うれしとも申す計り無し申す計り無し。

(最蓮房御返事p1342)

もし日蓮大聖人と最蓮房の師弟が成仏できないなら、釈迦・多宝や諸仏の証明はすべてが虚妄(こもう)となり、あらゆる国土も三悪道に堕してしまうであろう。
そんなことは断じて無いのであり、師弟の成仏は絶対に間違いない、との大確信を打ち込まれた御書です。

創価の師弟こそ、日蓮仏法そして法華経の兵法の核心であると再銘記して、勇気と確信みなぎる一念で、新たな戦いを起こしてまいります。

 

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