新しき統合原理を求めて

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池田名誉会長の記念講演「新しき統合原理を求めて ~クレアモント・マッケナ大学」を聞きました。
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記念講演CDは写真のように5枚持っていますが、しばらく触れてなかったので、感動が冷めたのか、正直あまり期待してなかったのです。

ところが素晴らしいものはやはり素晴らしい。
持っていなかった講演を購入したのですが、いざ聞き終わってみると、余りに感動的内容に、居ても立ってもいられなく、この記事を書いている次第です。
私が特に印象に残った部分を引用しながら、講演内容を追ってみましょう。

(中略)
そのイデオロギーのもとでの膨大な犠牲を思えば、統合原理の模索は、慎重のうえにも慎重を期さねばなりません。
その意味からも、新たな統合原理は、人間を超越したところにではなく、徹底して人間に即して内在的に求められなければならないと思うのであります。
こうテーマを設定したとき、私の脳裏に浮かぶのは、精神薬理学のパイオニアであるエルキース博士の鋭い洞察であります。

(中略)
「”治癒”とは全体性の回復のことです。治癒( ヒーリング)と全体(ホール)と神聖( ホーリー)という言葉は語源を同じくしております。
それは円満であること、すなわち、個人として調和がとれ、他者と調和がとれ、そして地球と調和がとれていることを意味します。
痛みとは、部分が全体から切り離されたという警告なのです」と 。

(中略)
こうした急進主義に対する批判は数多くありますが、ここでは一つだけ、キルギスタン出身で現代ロシアを代表する作家アイトマートフ氏の告発をあげておきたいと思います。
私との対談集『大いなる魂の詩』(読売新聞社。『池田大作全集』第15巻収録)の中で氏は青年に、こう呼びかけております。
「若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけません。
革命は暴動であり、集団的な病気であり、集団的な暴力であり、国民、民族、社会の全般にわたる大惨事です。
私たちはそれを十分すぎるほど知っています。
民主主義改革の道を、無血の進化(漸進的発展)の道を、社会を逐次的に改革する道を探し求めて下さい。
進化は、より多くの時間を、より多くの忍耐と妥協を要求し、幸福を整え、増大させるこ
とを要求しますが、それを暴力で導入することは要求しません。
私は神に祈ります――若い世代が私たちの過ちに学んでくれますように、と 」

(中略)
従って、第二に訴えたい点は、急進主義的アプローチが必然的にテロや暴力に依存していったのとは逆に、漸進主義的アプローチの必然的帰結であり、武器は、「対話」であるということであります。
それも、ソ クラテスがそうであったように、言葉と言葉の撃ち合いが、果ては死をもたらすかもしれないほどの緊迫した状態さえ覚悟した、退くことを知らぬ徹底した対話であります。
それはおそらく、暴力に数十倍する精神の力と強さを要するはずであります。
思うに、隣人との対話であれ、歴史との、あるいは自然や宇宙との対話であれ、語らいを通した開かれた空間の中でのみ、人間の全人性は保障されるものであり、自閉的空間は、人間精神の自殺の場になっていくほかはありません。
なぜなら、人間は生まれ落ちたまま人間であるのではなく、文化的伝統を背景にした”言葉の海” ”対話の海”の中で鍛え上げられて初めて、自己を知り他者を知り、真の人間となっていくからであります。

私は、言論嫌い(ミソロゴス)が 人間嫌い(ミサントローポス)に通じていくことを、ソクラテスが若者に諄々と説いて聞かせる『パイドン』(藤 沢令夫訳、『世 界古典文学全集』
14〈プラトン1〉所収、筑摩書房)の美しい一節を想起しております。
言論嫌いを生む言葉への不信は、言葉への過信と”一つもの”の裏と表にすぎない。
その”一つもの”とは、対話と、対話による人間同士の結びつきに耐えられぬ弱い精神をいうのである。
そうした弱い精神は、何かにつけ人間への不信と過信の間を揺れ動き、分離の力の格好の餌食になってしまうだろう。
対話は最後まで貫徹してこそ対話といえるのであり、問答無用は、人間の弱さへの居直り、人間性の敗北宣言である。
さあ、若者よ、魂を強く鍛えよう。
望みを捨てず、自制力を働かせながら、勇気をもって前進しよう。

(中略)
青年をこよなく愛した恩師が、よく、「人生の名優たれ」と励ましていたことを私は懐かしく思い起こすのであります。
確かに、人格の力というものは、役者が舞台の上で、自分の役割に徹し、演じきっていく時の集中された力によく似ております。
名優がそうであるように、卓越した人格にあっては、どんな切羽詰まった立場に置かれても、どこかでその立場を演じているような余裕と落ち着き、ある種のユーモアさえも漂わせているものであります。
そして、淡々とその場を切り抜けていけるのであります。
それは、自分で自分をコントロールする力といってもよいと思います。

優れた演出家でもあったゲーテは、俳優を選ぶ際の基準について問われ、こう答えております。
「何をおいても、自制心を持っているか否かを見た。
なぜならば、いっこう、自分の制御もできず、他人に対して、最も好ましいと思うところを示すこともできないような俳優は断じて物にならない。
俳優という職業に徹底するには、絶えず自分自身を無にして行かねばならない」
(エッカーマン『ゲーテとの対話』神保光太郎訳、角川文庫)と 。

先生の肉声を聞いたものを、文章の部分的引用だけでどこまで感動が伝わるか、は大いに心もとない気がしますが、黙して語らずの無であれば何も伝わりません。
先生の行動の大きな柱である「対話」について、その集大成とも言うべき哲学が語られています。
そしてそれは単なるいち市民の行動にとどまらず、新しき統合原理の方法であり、平和の武器とも言うべきものであり、原理そのものを内包しているのです。

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