「仏界と愚癡の関係」の記事については、ご心配をかけたようで、何人かの方にコメント等を頂きました。
多少の波はあるものの、あくまで許容範囲です。題目は欠かさず90分を持続をしており、大丈夫ですので余り心配なさらぬようにお願いします。「愚癡を言ってはならない」というのは創価の信仰の基本であるのは間違いないことです。御書にも先生のご指導等にも、愚癡を戒める内容は枚挙にいとまがありません。その上で、なお私は納得できないことがあったのです。
それほど忌み嫌われる愚癡の命がなぜ私たちの生命に、初めから具わっているのか。マイナス面しかない愚癡なら無くしてしまえばよいのではないのか。「冥伏」させて出て来ないようにするという、信心の力用は分りますが、跡形【あとかた】もなく消えてしまった訳ではありませんから、縁に触れて出てくるのも事実です。そこで愚癡の命には何らかの存在意義があるはずと思ったのです。消し去ってゼロにするべきものではないのではと考えたのです。
そこで調べてみると、何と発見することができました。以下に先生の『御義口伝講義』の抜粋を紹介します。
第二不断煩悩不離五欲の事
御義口伝に云く此の文は煩悩即菩提生死即涅槃を説かれたり、
法華の行者は貪欲は貪欲のまま 瞋恚(しんに)は瞋恚のまま
愚癡は愚癡のまま 普賢菩薩の行法なりと心得可きなり云云。
(785ページ御義口伝巻下)
貧欲とは欲望である。瞋恚とは怒りであるが、総じて感情に支配された境涯といえる。愚癡とは、愚かさである。貧欲・瞋恚・愚癡ともに人間性から本来、切っても切り離せないのである。キリスト教などの外道も、釈迦仏法も、これら貧・瞋・癡【とんじんち】が不幸の原因であり、これを断じ尽くす以外に幸福はないとした。
だが、たしかに一面は貧・瞋・癡が不幸の原因であろうが、再往考えてみると、欲望なくして、どうして、人間は、より以上成長し、よりすぐれた文化を創造しようとするのであろうか、また、瞋恚なくして不正は追求されないし、感情を抑えたところには、鬱積した暗い空気が、いつも重々しくたれこめるものである。
さらに、人間は、本来、愚かさをもっているものである。皮想的には知識を与えたとしても、知識は智慧に入る門にすぎず、表面をとりつくろったにすぎない。貧欲は貧欲のまま、瞋恚は瞋恚のまま、愚癡は愚癡のままで、そのありのままの姿のなかに、自らの幸福を追求し、社会のために尽くしていける教えが、日蓮大聖人の仏法哲学なのである。これこそ、最も近代的な、人間性にかなった行き方というべきであろう。
「普賢菩薩の行法なり」とは、御本尊を信じ、仏法を根底としながら、その上に立って、九界に遊戯し、社会人として活躍していく、そこにありのままの人間として、何の戒律にも縛られることなく、自在の振舞いでありながら、それが、自己の人間革命、人生観の確立に通じ、さらには、社会への価値創造のため、広宣流布実現のためへの活動になっていくという姿を「普賢菩薩の行法」というのである。
普賢菩薩とは、前項で「三千十界悉く普賢なり」また「法界一法として漏るる義之れ無し故に普賢なり」とあるように、この妙法はムダはないとの意である。したがって、広宣流布のため、すべての人の一切の振舞いが、それぞれの価値と使命をもっていることを自覚すべきである。
なんと仏法は深い教えなのでしょうか。
そしてなんと無理なくありのままに、人間生命を如実知見しているのでしょうか。
もし興味を持たれた方は、『御義口伝講義』にも挑戦してみるとよいと思います。
コメント
レオさん こんばんは
人間性から本来、切っても切り離せないものですか
深いですね
ありのままの 姿見せるのよ、でまずはいいわけですね
いくら強く焼く火力を持っていても、薪がないことには慧火を現前させられませんもんね
私の場合、燃料は豊富にあるんですが、弱い火力しか持っていません
これでは困ったもんですけれどね
やはり、先生の指導というか、講義と言うか、
分かり易いですね。
命にストンと入ってきますね。
『苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき
苦楽ともに思い合せて
南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、
これあに自受法楽にあらずや、
いよいよ強盛の信力をいたし給へ』
大聖人御在世当時の、我々の大先輩・
四条金吾が苦境にある時に励まされた
お手紙の一節ですが、
ありのままでいいんだ。何も飾る必要もないし、
苦しいなら苦しいと、楽しいなら楽しいと、
そのまま御本尊と向き合い、
南無妙法蓮華経の功徳力を
受け楽しんでいきなさい。
そのために、御本尊に相対するときだけは
いよいよ強盛の大信力で接していきなさい。
そういうことなのでしょうね。
そう言えば今月の拝読御書『上野殿後家尼御返事』
の中にも出てきますね。
『又なげき給うべきが凡夫のことわりなり、
ただし聖人の上にも・これあるなり、
釈迦仏・御入滅のとき諸大弟子等のさとりのなげき・
凡夫のふるまひを示し給うか』
「悟りの嘆き・凡夫の振る舞い」という表現が
夫を亡くし、嘆かずにはおれないであろう
尼御前への大聖人の思いやりとして、
心に染みます。
虎キチさん、こんばんは、ディズニーの主題歌ですかw
燃料は豊富にあっても、火力が弱いといいますと、虎キチさん未入会と前に仰ってましたが、そのことですかね。
いつでもトビラは開かれてますので、ご自身の一念次第だと思います。
今までの文面のみから感じたのは、虎キチさんの創価の信仰への意識の高さを、私は強く感じています。
差支えなければ、その辺の経緯・ご事情をお話頂けませんか。
この場所が不可ならば、メールでもよいですよ。
福島の壮年さん、御義口伝講義は昭和37年に開始されたそうですので、先生が34歳の時ですね。
その青年会長の講義の素晴らしさ凄さは、単なる年齢という尺度では計れない、師弟の三世の生命からほとばしる勢いと深さを感じますね。
苦をば苦とさとり~の御書は、私も好きな御書です。
私が二十歳位の時に学生部の会合でたまたま担当で入った全国幹部の真ん前に座ったのですが、「好きな御書はなんですか」と聞かれ答えたのが、この御書だったのを思い出しました。
それから間もなくして、東京武道館での第2回全国学生大会に参加したのも、金の思い出です。
『上野殿後家尼御返事』等の御書には、家族を亡くした門下の心に寄り添う、大聖人の深きご慈愛が拝されます。
当たり前のことですが、その人の苦しみ嘆きに応じて、時には叱咤・厳しさだけではなく、こうした慈愛あふれる関わりこそが要請される場合とを見極めねばばりませんね。
レオさん こんにちは
差支えない程度で良ければ語ります
「自身の一念次第」
そうなんでしょうね,きっと
「自分なり」のハリのある日常は送っていますし「それなり」の努力もしてますが
もう保守的になってしまっているんでしょうね
今から急激な生活の変化は望まなくなってしまっているというか・・・
(漸進的な生活の変化はもちろんしているのでしょうが)
でも本当は火力が弱いんだろうなって、なんとなく実感としてもってますから
急激に生活が変化してしまうような事態に陥ったときには
一人で立ち上がる復元力はないだろうなって、漠然と思っている時はありますね
「創価の信仰への意識の高さ」
意識の高さは どうなんでしょうね、そんなでもないかもしれません
レオさんから強く感じていただいていることには、嬉しくも思いますが、恥ずかしくもあります
ただ 15年程前からでは 私の「創価学会観」は180度変わっています
「その辺の経緯・事情」
学会員の友人が何人かいる、これに尽きているでしょうね
家内は家内で学会員の友人がいますから、その辺も相まっているでしょう
うちは小選挙区でも公明党候補を応援できる立場ですから訪ねて来る人も多いですわ
高校時代からの友人で、「先生」のことをよく語る奴がいてます
今は相当な幹部になってますが(これほどの幹部は学会職員しかなれないと思ってました)
最初は、会員が語る「先生」ですからね、話半分くらいに聞いてればいいかなと、
でも、いつのまにか私は山本伸一ファンになっていました 稀有な人物ですね
峻厳なる師弟観(ホントに峻厳ですね)も聞いてますから、ああ ファンにしかなれないな、と
いや、奴ほどの者だって、弟子たらんと必死だ、と言ってるわけですから
新聞の集金に来られる御婦人は、いつも必ず「爽やかさ」を残して帰られます
孫だってその方にだっこされるのを待ち望んでいます
する側になれば分かりますが、毎回となると全く容易いことではありません
奴とタイプは全く違う方なのに、同じ弟子の気概を感じさせるなにかがあります
弟子と名乗るのは簡単でしょうけど 弟子であるには生半可では「正義」など証明できないでしょうね
行動、振る舞い表れてこそでしょうかね
訪ねて来てくれて、こっちが嬉しいと思う奴、思う方なんて そうは居ませんよ
虎キチさん、日にちが空きました、申し訳ないです。
何かとやることが多く、なかなか時間が確保できません。
まず、語って頂き有難うございます。
今から急激な変化は望まないとのこと、何かその点に不安や恐れがあるのでしょうか。
入会していても、良い意味で保守性はありますし、「生涯青春」とは言っても、年齢とともに青年とは違う実践のあり方があってよいと思います。
本当は人生の残り時間が少ないから、歳をとるほど変化をためらってはいけないのかもしれませんね。
火力が弱いに関してですが、「広布の使命」といっても、「順調」な中ではなかなか自分の使命に気付くことは難しいです。
ある意味、「行き詰まり」を感じるからこそ、「広布の戦いをするしかない」「戦って打開しよう」と思える訳です。
信心しなくても順調な人が仮にいたとして、その人にはある意味で、「使命」がないと言えます。
次にまず、いつもご支援誠に有難うございます、深く感謝申し上げます。
感化してくれる熱い師弟感を持つ、学会員の友人が居るのですね。
新聞の無冠の友へも、好感を持って頂いているとのこと、そういう善知識が身近に居るというのは、虎キチさんの福運だと思いますよ。
創価の信心を貫くには何より善知識と励まし合っていくことが大事ですから、虎キチさんにはその意味で大きな必要条件が整っているのです。
そういう友人を大事に思って接することができる虎キチさんこそ、やはり意識が高いです。
というより言動・振舞いがすでに、会友を超えて学会メンバーのそれと余り違和感を感じないので、あとは御本尊様を戴いて題目を唱えているかどうかの違いしかないのでは、としか思えないです。
生半可な弟子では「正義」など証明できない、との仰せ、耳が痛いです。
人と比べず、自分に生き切ってこそ、師匠と創価を宣揚できるのでしょうね。
単なる年数でも見た目でも、人の評価でもないですから。
真正の弟子といっても何もアクロバットな行動にある訳ではないです。
自分にできることを全てやり切った者こそが英雄、と言われるように、悔いない1日1日の地道な積み重ねが大樹と育つ条件なのですね。