寿量品講義(2)

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特に強く印象に残った部分の抜粋です。
(『池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義(三)』 p.127~)

仏にとっては、一切衆生は皆「吾が子」です。
仏は、実に親のように、子どものことをよく分かって、さまざまな手を尽くす。
諸【もろもろ】の方便を用いる。
その最大の方便が、仏の入滅なのです。

本当は、仏はつねに人々のそばにいて見守っている。
「常住此説法(じょうじゅうしせっぽう=常に此【ここ】に住して法を説く)」です。
しかし、わざと姿を見えないようにする。
これを「雖近而不見(すいごんにふけん=近しと雖【いえど】も而も見えざらしむ)」といいます。
なぜ仏は、わざわざそのようにするのでしょうか。
それは、衆生を本来の自己に目覚めさせ、自立させていくために必要だからです。

これも、子どもの例でいえば、赤ん坊に”いないいない、ばあ”をして、あやすようなものです。
また、子どもは”かくれんぼう”が好きです。
これらは、子どもの心理の発達のうえから考えると、実はとても大事なこととされる。
目の前にはいなくても、どこかにいる。
必ずまた会える――。
このような安心と信頼を育てるからです。

こうした心情が育まれていけば、自立の力が生まれます。
いわば、心の中に親が住んでいる。
目には見えないけれども、心には確固として信頼できる人がいる――。
この原理は、大人になっても同じです。

他の誰が見ていようがいまいが、”あの人”だけは分かってくれている。
”あの人”だけは自分を信頼してくれている。
この絶対の安心が、この不動の信頼が、大きな励みになり、何よりも力になる。
だからこそ、伸び伸びと自由に、思う存分、活動できる。

今世だけではない。
三世にわたって衆生を見守ってくれる「親」が、寿量品に明かされている「永遠の仏」なのです。
とはいえ、自らの心に厳然と具わる仏も、顛動【てんどう】の衆生には見ることができない。
そこで、日蓮大聖人が御自身の仏の生命を御本尊としてお認めくださったのです。
この御本尊を鏡として自身の心の御本尊を見ることができるのです。

仏の慈愛の深さ智慧の深さをほうふつとさせる先生の講義です。
全ての弟子たちに、一切衆生に「一人立つ」ことを教え打込むために、仏は神通力を用いて方便として死の姿を現じるのです。
そしてその意義は幼児教育の原理からも、その正当性が立証できるのです。

たとえ師匠が目の前に見えなくなったとしても、
すべて解って下さっている、
わが心の中に師が住んでいる、
との自覚を持つことが必要なのですね。
どこまでいっても師の恩は有り難いです。

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