乞眼の婆羅門(1)

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舎利弗が過去世で菩薩の修行をしていた時、婆羅門【バラモン】に眼が欲しいと乞【こ】われ、眼を差し出します。それを受け取った婆羅門は、「臭い! こんなものはこうしてやる!」と言ってツバを吐き掛け路上に投げ捨てたのです。

これに激怒した過去世の舎利弗は、「何という救いがたい人間だ」といって、菩薩の修行から退転してしまいます。せっかくそれまで長い期間積み重ねた努力も功徳も、水の泡となってしまったのです。

実は、「このまま見過ごしてしまったら成仏してしまう」と思っ第六天の魔王が、婆羅門の姿を借りて、舎利弗を退転させようとしたのでした。まんまと魔王の企みに騙された舎利弗は、せっかくの仏になれるチャンスを逃してしまうことになりました。

以上が「乞眼の婆羅門」の説話のあらましです。この話は一見、私たちとはかけ離れた、遠い世界のことのように思われますが、実は信心の途上で似たようなことに遭遇することがあります。「自分はこんなに努力しているのに、なぜ分かってくれないんだ!」 或いは、「こんなに頑張っているのに、なぜ報われないんだろう」 と思う時がありませんか。

そういう時は次元の差こそあれ、ある意味で、舎利弗が婆羅門に対して眼を差し出したのと同じと言えないでしょうか。不遇や不満を嘆いて、もし信心から退転してしまえば、乞眼の婆羅門の責めに堪【た】えられなかった舎利弗と同じになってしまうのです。

では一体どうすればよいのでしょう。舎利弗は乞眼の婆羅門の責めに対して、信心でどう捉え、どう行動するのが正しかったのでしょうか。自分なりにこのことについて考察してみます。

いかなる仕打ちを受けようとも、舎利弗は激怒した余り信心を見失ってはならなかったのです。婆羅門が自分の眼を道に捨てたのを見た時に、「これで過去からの重い1つの宿業が、また切ることができた。何と有難いことか」と、御本尊に感謝し、一段と深い決意と実践に踏み出していくべきだったのです。どこまでも忍辱の鎧【よろい】を着て、難を乗り越えていくのが正しい信心だからです。

ただし、我々末法の凡夫には、それは余りにも困難な選択かもしれません。であるなら、そういう場面に遭遇したなら、許されるならすぐに帰宅するなりして、御本尊の前に行き、心ゆくまで題目を上げるのです。そして徹して学会活動をするのです。「自分を苛めてくるような人、困らせてくる人にこそ、その人のため題目を送りなさい」(趣意)と先生は仰っています。そうすれば落ち着いて自分を見つめ直すことができます。怒りに我を忘れて、信心を退転してしまう自己の愚かさを、克明に悟ることができるからです。

 

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