不退の信心

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桜前線もやっと北海道へ上陸し、春らしい日々が続いている。
しかし、
「季節は春になったけれども、私の生活は依然として『冬の信心』です。
いつになったら、春がやって来るのでしょうか」
との苦闘を重ねられている方もいらっしゃると思う。

かく言う私も、新たな法戦を迎えるたびに、新たな苦悩の局面に立たされることが多い。
その壁の高さと厚さに、思わず弱気になることもある。
しかし、
「悩みがあるからこそ真剣に戦えるではないか。
 戦って乗り越えよ!
 限界突破に挑み勝利せよ!
 また1つ大きく宿命転換するチャンスが訪れたのだ!」
との仏の計らいだと、ふつふつと戦う意志が起きてくる自分を発見する。

末法の御本仏でさえ四度の大難に遭われた。
1.松葉ケ谷(まつばがやつ)の法難
2.伊豆流罪
3.小松原の法難
4.竜の口の法難・佐渡流罪

こうした伊豆流罪、佐渡流罪などと言っても、それらは御書の中に書かれた、760年も昔のことなのだろうか。
それらは私たちの日常からかけ離れた、「遠い昔の出来事」などではないのである。

私にとっての伊豆流罪があり、私にとっての竜の口があり佐渡流罪・・・があるのではないだろうか。

確かに大聖人とは戦いや難の規模や次元は違うのは当然だが、大聖人門下として創価の師弟に連なる者として、過去に私にとっての松葉ケ谷、伊豆流罪、竜の口・・・があったと実感できる。

そしてそれら1つ1つの難を乗り越えて今の自分がある。
これからも難と戦い乗り越えていくのだ。
いま、もしかすると新たな難に直面していると言えるのかもしれない。
何が来ようと、勇気ある信心で打ち勝っていくなかにしか、勝利の夜明けはない。

ここで、『開目抄』にある「貧女の譬え」を紹介させて頂く。
1)~10)の数字は、譬喩の中に大聖人の読み方が十重に込められていることを表している。

涅槃経に曰く
「譬えば貧女の如し居家救護【こけくご】の者有ること無く
加うるに復病苦飢渇【けかち】に逼【せ】められて遊行乞丐【ゆぎょうこつがい】す、

他の客舎に止り一子を寄生す是の客舎の主駈逐【あるじ・くちく】して去らしむ、
其の産して未だ久しからず是の児を携抱【けいほう】して他国に至らんと欲し、
其の中路に於て悪風雨に遇て寒苦並び至り多く蚊虻蜂螫【ぶんぼうほうしゃ】毒虫の吸い食う所となる、

恒河に逕由【けいゆ】し児を抱いて渡【わた】る
其の水漂疾【みず・ひょうしつ】なれども而も放ち捨てず
是に於て母子遂に共倶【とも】に没しぬ、

是くの如き女人慈念の功徳命終の後梵天に生ず、
文殊師利若し善男子有つて正法を護らんと欲せば
彼の貧女の恒河に在つて子を愛念するが為に身命を捨つるが如くせよ、

善男子護法の菩薩も亦是くの如くなるべし、
寧【むし】ろ身命を捨てよ
是くの如きの人解脱を求めずと雖【いえど】も解脱自【おのずか】ら至ること
彼の貧女の梵天を求めざれども梵天自ら至るが如し」等云云、

此の経文は章安大師三障をもつて釈し給へり、それをみるべし、
1)貧人とは法財のなきなり
2)女人とは一分の慈ある者なり、
3)客舎とは穢土【えど】なり
4)一子とは法華経の信心・了因の子なり
5)舎主駈逐【しゃしゅくちく】とは流罪せらる
6)其の産して未だ久しからずとはいまだ信じて・ひさしからず、
7)悪風とは流罪の勅宣【ちょくせん】なり
8)蚊虻等【ぶんぼう・とう】とは諸の無智の人有り悪口罵詈等【あっくめり・とう】なり
9)母子共に没すとは終に法華経の信心をやぶらずして頚を刎【はね】らるるなり、
10)梵天とは仏界に生るるをいうなり

この法華経の信心(=御本尊)を離さないことを、貧女がわが子を放さない譬えをもって示されたのである。
成仏の種子である妙法を受持し抜くことが、求めずして成仏の境涯に至る要諦であるがゆえに、門下に対して、いかなる苦難にも屈することなく信心を貫いていけば、必ず仏界に至ることを述べられ、励まされているのである。

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