池田先生著の「青春対話」から抜粋
唱題は「質と量」どっちが大事?
――「祈りは何時間もやらないと叶わないのですか。短時間でも祈りが強ければ、叶うのですか」と言う人もいます。要するに「質」が大事なのか、「量」が大事なのかということですが。
池田 一万円札は、千円札よりも「質」が高い。一万円札のほうがよいのは当然です。真剣な、強き祈りが大事です。そのうえで、一万円札をたくさん持っていれば、いちばん、いいわけだ。祈る「質」も「量」も、両方、大事なのです。すべて自分のための信心です。唱題も「自分が満足する」ということが大事です。決して、何時間やらなければいけないとか、形式ではない。
目標を立てることは意味があるが、疲れている時とか眠い時とか、心もうつろに、惰性で口を動かしているだけ――それよりも早く休んで、はつらつとした心身で行うほうが、価値的な場合がある。居眠りしながら祈るのではなく、真剣さが大事です。「ああ、すっきりした」と自分が満足するのが第一義です。その一日一日の積み重ねが、自然のうちに、いちばんいい方向へと人生を開いていくのです。
――たしかに、そういう体験は、創価学会に、文字通り「無数」にあります。
池田 そう。学会は、皆が「体験」をもっているから、強いのです。
(中略)
「実力を出しきる生命力」がわく
――「祈っている時間があったら、その分、勉強したほうがいい」という人もいますが。
池田 勉強に忙しくて勤行をする時間がないと思う人は、勉強して余った時間で題目をあげればよい。祈っていく主体は自分です。自分が決めていけばよい。勉強をするというのは、言うなれば高校生の「義務」です。一生懸命に勉強をし、クラブ活動もしていれば、そうそう時間は取れないだろう。
しかし、そのような中で祈っていくからこそ尊いのです。祈れば、自分自身の「勝利の原因」を作れます。祈ったほうが勝ち、得をします。題目をあげれば、生命力がわいて頭もよくなる。また、自分の実力を出しきる生命力がわいてくる。たとえば、実力が「十」ある人なら、試験の時も「十」出す生命力がついてくる。ふつうは、よくて、七か八しか出ないものだ。
――実力が「五」しかないのに「十」出したいというのは、虫がよすぎるということですね。
池田 勉強という努力をしないで、祈って成績を良くしていこう、なんていうのは、錯覚です。努力をした延長に、祈りは叶い始める。「必ず、祈ったようになるんだ」と、自分の心が開けていく。また、「太陽」が昇れば、「地上」が明るく照らされていくように、現実の勉強や生活で、自分が何をどうすれば、うまくいくのか、はっきりとわかってくる。そして、「また頑張ろう!」という元気がわいてくる。”努力するためのエンジン” が信仰です。祈りです。そこを、かん違いしてはいけない。
――たしかに、百科事典を横に置いて、いくら祈っても、知識が増えるわけではありません。
祈りは「叶うまで」続けよ
池田 働きもしないで給料をくれと言っても、それは無理です。仏法も、「すべての人を幸福にする」という仏の願いのために働いた分だけ、自分の祈りも叶っていくのです。そもそも、御本尊には「祈りを叶える義務」などない。「拝んでほしい」などと言われたわけでもない。こちらが、拝ませてほしいとお願いしたのです。その感謝の心があれば、祈りは早く叶うのです。
――それと関連するかもしれませんが、こういう質問もあります。「叶わない祈りというのは、なぜ叶わないのでしょうか。その叶わなかった祈りも、自分の成長になるのでしょうか」と。
池田 祈っていることがなかなか叶わなかったり、一生懸命祈っても、結局、叶わなかったということもあるだろう。しかし、大切なことは「祈りが叶うまで続ける」ことです。祈りが叶うまで祈りを続けることによって、自分自身を厳しく見ることもでき、日常生活の向上にもつながっていく。就職して働きにいっても、その日に給料がもらえるわけではない。木を植えて毎日、水をやっても、すぐに大きくなるものではない。
――「桃栗三年、柿八年」というくらいですから、時間がかかります。
「祈り」は向上への「心」の表れ
池田 水をやり続けることで、だんだんと木が生長するように、毎日だんだんと勉強が進んでいくように、すべてのことが地道な努力の積み重ねで、でき上がっている。
――仏法は生命の法則だから、法則を無視した、道理に合わない話はないということですね。
池田 祈ったから、すぐに具体的な結果が出るとは限らない。しかし、本当に毎日、祈った場合、その時は叶わなくても、何かの時に大きな軌道修正ができるようになっている。あとから考えると、「これで良かったんだ」と思えるように必ずなっている。
――だから、祈り続けることが大切なのですね。
池田 「叶う、叶わない」には、さまざまな要因がある。しかし、「祈っている」ことで、自分自身の軌道が修正されていく。また、たとえば「勉強」のことを祈ったとしても、それだけでなく、より以上、大きく、自分の人生万般に渡って広がっていくのです。結論すれば、何があろうと「御本尊に向かって祈ろう」という姿が大事です。それが、向上しようという決心の表れです。その「心」が大切なのです。その「心」が人間の証であり、何かを為していこうという崇高な精神の表れなのです。
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