小さな行動


昭和の末頃、私は神奈川県の大和市に3年ほど、一人暮らししていました。
短い期間でしたが、懐かしい思い出が多いです。
ここでは、それらの思い出を1つ1つ書きませんが、新・人間革命を読んで1つだけ思い出したことがあります。

ある日、勤務先から帰宅すると、ドア・ノブに手料理とメモを添えて袋が掛けられていたのです。
婦人部の真心の差し入れでした。
栄養不足と偏りを気遣っての食べ物に、1人暮らしの寂しさも癒される思いがし、深い感謝の念が止まりませんでした。
未だ二十歳を過ぎて間もない自分でしたが、学会の人間的温かさを感じ取りました。

新・人間革命では自らが苦しい生活の中、苦闘する後輩のためにとたくさんの餃子を差し入れする先輩会員の姿が描かれています。
後輩たちが餃子を食べ終わると、差し入れしたほうの先輩のお腹が、「グググーッ」と空腹で鳴ったという場面でした。

ヒューマニズムと言っても人類の宿命の転換と言っても、こうした脚光を浴びない小さな行動が、実は大きく1人の心をつかみ動かしていくことを学んだ出来事でした。

神奈川時代に悔やまれることが1つあるので、この機会に書かせてもらいます。
病気等の事情で北海道にUターンして数年後、法戦の交流で再び大和市のお世話になった地域を訪れました。
その時は私を含め男子部3名で、その地域のこれも男子部のお宅に泊めて頂きました。

共に戦いお世話になった地区やブロックの方たちが、一目会いたいと別会場に集まって下さっていると連絡があったのです。
しかし私はその日が余りにも強行軍で疲れが酷く、持病もあったので、無理をしないよう、断わってしまったのです。
(1日で、東京、千葉、神奈川と移動し、何軒も何軒も友人宅を周りました)

しかもおみやげに買った酒を飲むようにいわれ、晩酌をする余力だけはあったのですから、ひんしゅくを買い、集ってくれた人々を悲しませる行動でした。

このことが時々強く思い出され、悔恨にさいなまれたのです。
このブログを見てくれているかどうかは分かりませんが、この場を借りて、集って頂いた方々に深くお詫び申し上げます。

このような昔のことで個人的なことを、本来ブログで公開すべきではないことかもしれません。
過去の失敗は、繰り返すことのないよう深く反省しつつ、逆に信仰者として人に喜びと感動を与えていけるようさらに人間革命していきます。

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補足 -瑞相御書

2月末日に『瑞相御書』について書込みしました。
日蓮大聖人御書講義録第23巻に『瑞相御書』についての講義が載っており、その中から特に印象に残った部分を紹介します。

瑞相御書 の記事

【以下は、御書講義録第23巻からの引用】
だが、ここに述べられている正報と依報の関係は、更に深く微妙である。
すなわち正報の心の中の変動が、依報の変異をもたらすという原理である。
ここでは依報は正報を映す鏡のようなものとして把えている。
人の心の中の変動は、外から容易に見ることができない。
個人の心の表面的・日常的な動きは、その表情の変化によって知ることができるが、社会全体の人々の心に起こった深層の激変は、顔などの表情を通じては把握できない。
その巨大な深部の変動は、依報の鏡に映り、すなわち天変地夭として初めて知ることができるというのである。

この生命の深層の心理は、凡智をもって理解することは難しい。
ただ、仏法の法理と、透徹した仏の英知の直観力によってのみ、その実態を把握できるものなのであろう。
「衆生の五根やぶれんとせば四方中央をどろうべし・ されば国土やぶれんと・するしるしには・まづ山くづれ草木かれ江河つくるしるしあり、人の眼耳等驚そうすれば天変あり、人の心をうごかせば地動す」と仰せられているのが、これである。

(中略)
大地の振動とは、人々の心に動執生疑を起こし、既成の価値観が崩壊し、正法にめざめていく姿を象徴したものと考えることができる。

(中略)
この前の「人の悦び多多なれば天に吉瑞をあらはし地に帝釈の動あり、人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭出来す、瞋恚の大小に随いて天変の大小あり」の文を受けて、現実の日本の様相を述べられているのである。
もとより、それが”正嘉・文永の大地震・大転変”の原因をなしていることを指摘されるためであることは、文の流れからいって当然である。

悪心にせよ善心にせよ、その心の激しさ、強さも大小の判定の大切な基準であるが、より重要な問題は、対象にある。
いま、大聖人が”大悪心”といわれているのは、全民衆を救済しようとして、ただその広大な慈悲から起ちあがられた大聖人に対して、人々は憎悪と憤りをもって応えるのみであった。
ゆえに、これは、大悪心という以外にないのである。

いわゆる大善に対して、大善を憎むがゆえに、それは大悪となるのである。
もし小善が対象であれば、憎悪、瞋恚の心がいかに激しくとも、それは小悪でしかない。
また、もし悪に対する憎悪・瞋恚は、そのためにとる手段・方法は別として、それ自体は善にさえなるのである。

末法御本仏、日蓮大聖人に対し、当時の日本民衆は、幕府権力の中枢から一般民衆にいたるまで、程度の差は万別であろうが、みな、憎悪と瞋恚の心を抱いたのである。
自分たちを救ってくれるべき、主・師・親の三徳を具備した人を憎んだのであるから、それは“大悪心”である。
「此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり」の一文に、民衆救済のために起たれた、大聖人の大確信が秘められていることを知らねばならない。

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PUSHIM – 誓い feat. MIHIRO〜マイロ〜

2連投で失礼します。
昨年末に地元の青年大会で歌われた曲です。
新しい感覚が良いのですが、タイトルを見ても、どこまでがグループ名でどこからが曲名かも解らないんです(汗)

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瑞相御書

『瑞相御書』p.1140~という御書を最近、拝読しました。
特に私がポイントと思う部分を、以下に列挙します。

夫れ天変は衆人をおど(駭)ろかし地夭(ちよう)は諸人をうご(動)かす、仏・法華経をとかんとし給う時五瑞六瑞(ごずい・ろくずい)をげん(現)じ給う、

其(そ)の中に地動瑞と申すは大地六種に震動す

(中略)
かるがゆへに衆生の五根やぶれ(破)んとせば四方中央をどろう(駭動)べし・されば国土やぶれんと・するしるし(兆)には・まづ山くづ(崩)れ草木かれ(枯)江河つくるしるしあり、

人の眼耳等驚(きょう)そう(躁)すれば天変あり、人の心をうごかせば地動す・抑何(そもそも・いずれ)の経経にか六種動これなき一切経を仏とかせ給いしみなこれあり、

しかれども仏法華経をとかせ給はんとて六種震動ありしかば衆も・ことにおどろき弥勒(みろく)菩薩も疑い文殊(もんじゅ)師利菩薩もこたへしは諸経よりも瑞も大に久しくありしかば疑も大に決しがたかりしなり、

(中略)
問うて云く在世よりも滅後の瑞・大なる如何、答えて云く大地の動ずる事は人の六根の動くによる、

人の六根の動きの大小によつて大地の六種も高下あり、爾前の経経には一切衆生・煩悩をやぶるやう・なれども実にはやぶらず、

今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり、末代は又在世よりも悪人多多なり、かるがゆへに在世の瑞にも・すぐれて・あるべきよしを示現し給う。

(中略)
人の悦び多多なれば天に吉瑞をあらはし地に帝釈の動あり、
人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭出来す、
瞋恚(しんに)の大小に随いて天変の大小あり地夭も又かくのごとし、
今日本国・上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり、
此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり、

より深い力ある教えが説かれる時には、その深さに応じて瑞相が起こります。
法華経迹門 →本門 →文底下種本門 とより深い法門が明かされるに従って、瑞相も未だかつて無かったほど大きな瑞相が起こります。
それら瑞相の1つが、大地が六種に震動することです。

衆生の眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が動くことにより、大地も六種に動くとご教示されています。
爾前の経経は衆生の煩悩を破るようであって、実際は克服していない。
法華経は最も根源的な煩悩である、元品の無明を破るゆえに、大きな動きがあるというのです。
それが以下の御文です。
「人の六根の動きの大小によつて大地の六種も高下あり、爾前の経経には一切衆生・煩悩をやぶるやう・なれども実にはやぶらず、今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり」

末法は五濁と言って命が濁り切っており、悪人が充満しています。
「人の悦び多多なれば天に吉瑞をあらはし地に帝釈の動あり、人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭出来す」
とあるように、人々が悦んで日々を暮らしているのか、逆に嘆き苦しみや、或いは悪心が燃えさかっているのか、によって自然・環境も連動して吉瑞か、逆に凶変・凶夭かが、明確に分かれてくるのです。

具体的には、凶変・凶夭とは、大早魃、大風、大水、飢饉、疫病などであり、大聖人はさらに内乱と他国より攻められる2つの大難を予言され、後にそれらは現実のものとなりました。
それらの三災七難は、法華経の行者である日蓮大聖人に対する怨嫉の一事が、それら一切の根本の原因であると仰せです。
種々の瑞相は、根本からの生命変革、生命浄化を可能にする仏法の力の証明なのです。

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冬の信心

大地はささ(指)ばはづるるとも、
虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも、
潮のみちひぬ(満ち干ぬ)事はありとも、
日は西より出づるとも、
法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず
(p1351)

妙法の実践者の祈りは必ず叶うとの「祈祷抄」の仰せです。
この御文の通りに私も再発心後、四半世紀にわたって、大小さまざまの祈りを叶えて頂き、学会と御本尊に深く感謝しています。

ところで、もし仮に信心をしていながら、1つも願いが叶わなかったら、あなたはどうしますか。
透徹した潔(いさぎよ)い実践をしていれば、願いが叶わないことなどあり得ないのですが、ここにAさんならAさんがいて、1つも願いが叶わないから信心を辞めると言い出したとします。
祈りが叶わないから退転すると言うのです。

このAさんの間違いとして考えられるのは、1つには同志誹謗が無いか、それによって功徳がせき止められていないか反省しなければなりません。
2つには、祈りが叶わないから退転するという思考に、根本的な誤りがあるのです。

それは一般的に見ても、余りにも現世利益に流され、本当の信仰心とはかけ離れてしまっています。
あるいは、これだけ○○したのだから、これとこれは叶えてほしいとのおねだり信心になる場合があります。
乞食信心とも言われているようです。
そういう人に限って、御本尊へ「ああしてくれ、こうしてくれ」の要求は大きいのですが、自身が身を粉にして広布の戦いをしていません。

学会に何かしてもらおうというのではなく、自分が学会のために何ができるか、が大事です。
その心と行動があり感謝あるところに、功徳の花が咲かない訳がないのです。

「冬の信心」と言われるように、「冬は必ず春となる」訳ですが、春まだ来ぬうちは厳しき冬が続きます。
時にはどれだけ真剣に実践しても祈っても、目に見える結果が出ないばかりか、試練が打ち続く厳寒の時もあるでしょう。
それはそれで深い深い意味があると捉えていくことが大事です。

日蓮大聖人のご一生を学べば、大難と戦い乗り越え、広布の大願に生き抜かれたご生涯でした。
「我が生きざまを見よ! 苦難に対してはかくあれ!」
との御本仏としてこれ以上ない勇気と不屈の手本を示されたのです。
さてここで、次の2つの御文を紹介します。

此(こ)の法門を申すには必ず魔出来(ま・しゅったい)すべし
魔競はずは正法と知るべからず
(p1087)

御義口伝に云く妙法蓮華経を安楽に行ぜむ事
末法に於て今日蓮等の類いの修行は
妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり。
(p750)

特に、「魔が競わなければ正法ではない」「難来るをもって安楽と意得べきなり」と仰せです。
このことを深く確信していかないと、「良いことが無いから信心を辞める」という不信の落とし穴に堕ちてしまうのです。
こういう人には、「不自惜身命」あるいは殉教の精神ということを、理解することさえ不可能です。

苦楽ともに一切が自身を成長させてくれる仏の計らいとの感謝と勇気あるところに、変毒為薬・転重軽受されて、草木萌え出ずる暖かき陽光の春が、必ずやって来るのです。

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