新しき統合原理を求めて

池田名誉会長の記念講演「新しき統合原理を求めて ~クレアモント・マッケナ大学」を聞きました。
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いち講演=600円かかります。
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記念講演CDは写真のように5枚持っていますが、しばらく触れてなかったので、感動が冷めたのか、正直あまり期待してなかったのです。

ところが素晴らしいものはやはり素晴らしい。
持っていなかった講演を購入したのですが、いざ聞き終わってみると、余りに感動的内容に、居ても立ってもいられなく、この記事を書いている次第です。
私が特に印象に残った部分を引用しながら、講演内容を追ってみましょう。

(中略)
そのイデオロギーのもとでの膨大な犠牲を思えば、統合原理の模索は、慎重のうえにも慎重を期さねばなりません。
その意味からも、新たな統合原理は、人間を超越したところにではなく、徹底して人間に即して内在的に求められなければならないと思うのであります。
こうテーマを設定したとき、私の脳裏に浮かぶのは、精神薬理学のパイオニアであるエルキース博士の鋭い洞察であります。

(中略)
「”治癒”とは全体性の回復のことです。治癒( ヒーリング)と全体(ホール)と神聖( ホーリー)という言葉は語源を同じくしております。
それは円満であること、すなわち、個人として調和がとれ、他者と調和がとれ、そして地球と調和がとれていることを意味します。
痛みとは、部分が全体から切り離されたという警告なのです」と 。

(中略)
こうした急進主義に対する批判は数多くありますが、ここでは一つだけ、キルギスタン出身で現代ロシアを代表する作家アイトマートフ氏の告発をあげておきたいと思います。
私との対談集『大いなる魂の詩』(読売新聞社。『池田大作全集』第15巻収録)の中で氏は青年に、こう呼びかけております。
「若者たちよ、社会革命に多くを期待してはいけません。
革命は暴動であり、集団的な病気であり、集団的な暴力であり、国民、民族、社会の全般にわたる大惨事です。
私たちはそれを十分すぎるほど知っています。
民主主義改革の道を、無血の進化(漸進的発展)の道を、社会を逐次的に改革する道を探し求めて下さい。
進化は、より多くの時間を、より多くの忍耐と妥協を要求し、幸福を整え、増大させるこ
とを要求しますが、それを暴力で導入することは要求しません。
私は神に祈ります――若い世代が私たちの過ちに学んでくれますように、と 」

(中略)
従って、第二に訴えたい点は、急進主義的アプローチが必然的にテロや暴力に依存していったのとは逆に、漸進主義的アプローチの必然的帰結であり、武器は、「対話」であるということであります。
それも、ソ クラテスがそうであったように、言葉と言葉の撃ち合いが、果ては死をもたらすかもしれないほどの緊迫した状態さえ覚悟した、退くことを知らぬ徹底した対話であります。
それはおそらく、暴力に数十倍する精神の力と強さを要するはずであります。
思うに、隣人との対話であれ、歴史との、あるいは自然や宇宙との対話であれ、語らいを通した開かれた空間の中でのみ、人間の全人性は保障されるものであり、自閉的空間は、人間精神の自殺の場になっていくほかはありません。
なぜなら、人間は生まれ落ちたまま人間であるのではなく、文化的伝統を背景にした”言葉の海” ”対話の海”の中で鍛え上げられて初めて、自己を知り他者を知り、真の人間となっていくからであります。

私は、言論嫌い(ミソロゴス)が 人間嫌い(ミサントローポス)に通じていくことを、ソクラテスが若者に諄々と説いて聞かせる『パイドン』(藤 沢令夫訳、『世 界古典文学全集』
14〈プラトン1〉所収、筑摩書房)の美しい一節を想起しております。
言論嫌いを生む言葉への不信は、言葉への過信と”一つもの”の裏と表にすぎない。
その”一つもの”とは、対話と、対話による人間同士の結びつきに耐えられぬ弱い精神をいうのである。
そうした弱い精神は、何かにつけ人間への不信と過信の間を揺れ動き、分離の力の格好の餌食になってしまうだろう。
対話は最後まで貫徹してこそ対話といえるのであり、問答無用は、人間の弱さへの居直り、人間性の敗北宣言である。
さあ、若者よ、魂を強く鍛えよう。
望みを捨てず、自制力を働かせながら、勇気をもって前進しよう。

(中略)
青年をこよなく愛した恩師が、よく、「人生の名優たれ」と励ましていたことを私は懐かしく思い起こすのであります。
確かに、人格の力というものは、役者が舞台の上で、自分の役割に徹し、演じきっていく時の集中された力によく似ております。
名優がそうであるように、卓越した人格にあっては、どんな切羽詰まった立場に置かれても、どこかでその立場を演じているような余裕と落ち着き、ある種のユーモアさえも漂わせているものであります。
そして、淡々とその場を切り抜けていけるのであります。
それは、自分で自分をコントロールする力といってもよいと思います。

優れた演出家でもあったゲーテは、俳優を選ぶ際の基準について問われ、こう答えております。
「何をおいても、自制心を持っているか否かを見た。
なぜならば、いっこう、自分の制御もできず、他人に対して、最も好ましいと思うところを示すこともできないような俳優は断じて物にならない。
俳優という職業に徹底するには、絶えず自分自身を無にして行かねばならない」
(エッカーマン『ゲーテとの対話』神保光太郎訳、角川文庫)と 。

先生の肉声を聞いたものを、文章の部分的引用だけでどこまで感動が伝わるか、は大いに心もとない気がしますが、黙して語らずの無であれば何も伝わりません。
先生の行動の大きな柱である「対話」について、その集大成とも言うべき哲学が語られています。
そしてそれは単なるいち市民の行動にとどまらず、新しき統合原理の方法であり、平和の武器とも言うべきものであり、原理そのものを内包しているのです。

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滝の詩

今月の座談会で『滝の詩』を歌うので、只今、練習中です。

グラスゴー大学のフォーブス・マンロー博士が、創価大学で記念講演の際、『滝の歌』について言及されております。

青森県の奥入瀬で詠われた創立者の『滝の詩』について言及。
「私は1994年6月、創大創立者の池田大作先生に対するグラスゴー大学名誉博士号授与式の推挙で、奥入瀬の滝の詩を引用させてもらいました。
『滝の如く激しく滝の如く撓まず 滝の如く恐れず 滝の如く朗らかに 滝の如く堂々と 男は王者の風格を持て』とのこの詩は、池田先生の堅実で、信頼でき、誇り高き真のリーダーとしての人格を表現するのに最も適していると思いました。
さらに先生の多くの美しい詩に触れ、青少年時代のことを思い出しました。
スコットランドは、北海道とほぼ同じ広さと人口。
私の故郷スコットランド北部のハイランドは、山、川、そして滝があり、青森と非常によく似ています。
最初に奥入瀬の滝の詩を読んだ時、地球の何千マイルも離れた青森に思いをはせたことを昨日のように思い出します」
と語りました。

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五番街のマリーへ

ここでまた懐かしい曲を聞いてみましょう。
高橋真梨子さんは私より15歳年上で今では還暦を越えられていますが、歌唱力、曲調ともに気に入って、学生時代によく聞いたものです。


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国家資格試験の結果

このことに触れたくなくて、放っておいたのだが、ここで今年度を総括し再スタートを切ろうと思う。

8月初めの土・日に札幌に1泊して、5年目となる国家試験の1次を受けた。
その結果が先月、発表され、
「運営管理( オペレーション・マネジメント )」
「経営法務」
の2科目があとわずか一歩で科目合格を逃してしまった。
あと1問、もしくはあと数点取れれば両方とも合格であった。

他の3科目はパッとしない結果であり、どう打開していくか、さらなる努力次第だ。
6~7科目はすでに科目合格していたので、今年は免除だった。

受験直前は「今回はいけるのでは」との手ごたえのようなものを感じていたのだが、どこかでまだ甘さがあったようだ。
合格に必要な学習時間が少なくとも700~1000時間と言われる試験なのだが、私の記録では600~750時間ほどが実際に積み重なっている。
ただしこの時間は5年間もかかっての累計であり、150時間の幅があるのは、「財務・会計」の基礎として「簿記」のセミナーを受講した分を含むか含まないかである。

振り返ってみると「まだまだできるはずだ」との努力の不足を感じる。
多くの受験生はフルタイムの仕事をこなしながら、空き時間で学習している人が多い。
自分の場合、専門学校を受講していないことと、持病があるのが不利条件だが、自己の弱さに負けてる部分や、効率の悪いポイントのずれた学習をしている面が、多々あるのだと思う。
創大現役生で資格試験に臨む人が、「1日10時間勉強しています」と言うのをよく見聞きしたが、私の場合自営業もこなしながらであるが、休日でも6時間超えがやっとであった。

「資格というのは取ってなんぼだよ。
合格してこそ評価されるんだ。
僕は資格を受け続けて○年です、と言ったって誰も評価しないよ」
と壮年幹部の方に厳しく言われたこともあります。
その意味では、こういう場に事細かく書くこと自体も、恥の宣伝みたいなものになるのかもしれません。

そう指摘下さった人へ、
「そんな簡単に言うなら、あんたが合格してみなよ」
と喉まで出掛りました、正直言うと。
ま、でも、一理も二理もある指摘だ。
数ある知り合いの中で、そうした厳しくもハッキリ言ってくれる人も有り難い存在である。

それはともかく、ざっくり総括すると、
「まだまだ甘い、努力の余地が大きい」
となると思う。
1次2次ストレート合格は、旧司法試験に近い合格率3~4%位であるが、私の1次の段階では20%位がパスするのだから、この結果は余りにも不甲斐無い。
と、いうことで、来年度も気合を入れ直して頑張ります。

(こんな状態で、さらに「司法書士」とのダブル受験するべく、そちらの方も少しずつ学習開始した)

5年受けた国家資格の雰囲気が解る動画ということで、専門学校の無料動画を紹介する。
ほんの触りだけだが、雰囲気が伝わると思う。
動画は2つある。
「講義を視聴する」ボタンを押すと見ることができる。

専門学校の無料講義の動画


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寿量品講義(2)

特に強く印象に残った部分の抜粋です。
(『池田名誉会長の法華経方便品・寿量品講義(三)』 p.127~)

仏にとっては、一切衆生は皆「吾が子」です。
仏は、実に親のように、子どものことをよく分かって、さまざまな手を尽くす。
諸【もろもろ】の方便を用いる。
その最大の方便が、仏の入滅なのです。

本当は、仏はつねに人々のそばにいて見守っている。
「常住此説法(じょうじゅうしせっぽう=常に此【ここ】に住して法を説く)」です。
しかし、わざと姿を見えないようにする。
これを「雖近而不見(すいごんにふけん=近しと雖【いえど】も而も見えざらしむ)」といいます。
なぜ仏は、わざわざそのようにするのでしょうか。
それは、衆生を本来の自己に目覚めさせ、自立させていくために必要だからです。

これも、子どもの例でいえば、赤ん坊に”いないいない、ばあ”をして、あやすようなものです。
また、子どもは”かくれんぼう”が好きです。
これらは、子どもの心理の発達のうえから考えると、実はとても大事なこととされる。
目の前にはいなくても、どこかにいる。
必ずまた会える――。
このような安心と信頼を育てるからです。

こうした心情が育まれていけば、自立の力が生まれます。
いわば、心の中に親が住んでいる。
目には見えないけれども、心には確固として信頼できる人がいる――。
この原理は、大人になっても同じです。

他の誰が見ていようがいまいが、”あの人”だけは分かってくれている。
”あの人”だけは自分を信頼してくれている。
この絶対の安心が、この不動の信頼が、大きな励みになり、何よりも力になる。
だからこそ、伸び伸びと自由に、思う存分、活動できる。

今世だけではない。
三世にわたって衆生を見守ってくれる「親」が、寿量品に明かされている「永遠の仏」なのです。
とはいえ、自らの心に厳然と具わる仏も、顛動【てんどう】の衆生には見ることができない。
そこで、日蓮大聖人が御自身の仏の生命を御本尊としてお認めくださったのです。
この御本尊を鏡として自身の心の御本尊を見ることができるのです。

仏の慈愛の深さ智慧の深さをほうふつとさせる先生の講義です。
全ての弟子たちに、一切衆生に「一人立つ」ことを教え打込むために、仏は神通力を用いて方便として死の姿を現じるのです。
そしてその意義は幼児教育の原理からも、その正当性が立証できるのです。

たとえ師匠が目の前に見えなくなったとしても、
すべて解って下さっている、
わが心の中に師が住んでいる、
との自覚を持つことが必要なのですね。
どこまでいっても師の恩は有り難いです。

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