貧乏の鉄鎖を切る(10)

約8年前に書いた記事を微修正して再掲します。

★日厳尼御前御返事 p1262

叶ひ叶はぬは御信心により候べし
全く日蓮がとがにあらず、
水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく
みなの御心は水のごとし

信のよは(弱)きはにご(濁)るがごとし、
信心の・いさぎよきはす(澄)めるがごとし、
木は道理のごとし
風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ

願いが叶うか叶わないかは信心の厚薄によるのであり、大聖人の失【とが】ではないとの仰せです。ともすると我々凡夫が陥りがちな「他力本願的」な考え方を、根本から打ち破られています。この御抄を頂いた日厳尼は、ご供養とともに何らかの願いを書いた願文を、大聖人に送りました。そこには御本仏に直接、願いを訴えれば、必ず願いを叶えてもらえるのではないか、との甘えがあったと考えられます。

順調な時はついつい感謝を忘れ、苦境に陥った時には不平・不満が出る。あるいは、ふだんの地道な祈りと実践もなく、困った時にだけ御本尊を頼る、身勝手な信心であってはいけません。どこまでいっても「心こそ大切なれ」であり、水の流れるような弛【たゆ】まぬ信心が大切です。御書講義録には、次のように述べられています。

「願いが叶わないのは、御本尊に力が無いからではなく、信力、行力が弱いからである。仏力、法力は無限である。しょせん、甘えた信心だからであり、真剣な祈念を欠き、心の底から信じて祈っていないからである。その心の不信が、そのまま現実の姿のうえに現れているにすぎないことを知るべきであろう」

★王舎城事 p1138

御いのりの叶い候はざらんは
弓のつよ(強)くしてつる(絃)よはく
太刀つるぎ(剣)にて
つかう人の臆病なるやうにて候べし、
あへて法華経の御とがにては候べからず

同様に、ここでは祈りの叶わない理由を、その人自身の臆病である、と断じられています。

★聖人御難事 p1190

彼等にはただ一えん(円)におもい切れ
よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ
ひだるし(空腹)とをもわば餓鬼道ををしへよ、
さむしといわば八かん(寒)地獄ををしへよ、
をそろししと・いわばたか(鷹)にあへるきじ(雉)
ねこ(猫)にあえるねずみ(鼠)を
他人とをもう事なかれ、

此れはこまごまとかき候事は
かくとしどし(年年)・月月・日日に
申して候へども
なごへ(名越)の尼 せう(少輔)房
のと(能登)房・三位房なんどのやうに候、

をくびやう(臆病)物をぼへず
よくふか(欲深)く・うたがい多き者どもは
ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ
そら(空)をきり(切)たるやうに候ぞ。

熱原の法難の渦中の人々に対して、善くなるなどということは不思議と思うべきであり、これからも、ますます厳しくなると覚悟を決めよ、との仰せです。一般的にも、甘い観測を捨て、最悪の事態に対処してこそ、困難を乗り越えていけるものです。餓鬼道や八寒地獄、食う食われるの動物の譬えは、残忍な権力者からの迫害に負けて退転したならば、今の飢えや寒苦や恐怖よりも、さらに深く逃れがたい三悪道におちてしまうとの意味です。

はるかな過去世から三悪道を流転し、今ようやく正法に巡り合って、そこから脱出できるチャンスをつかんだのです。そこから逃れようとしている今、これら三悪道の苦が、ある意味では凝縮しておそってきているのです。信心を貫き通して、根本の大苦から逃れ出る最高の機会なのです。そして退転者の名を挙げて、彼らの本質には4つあることをご教示されます。このことから逆に、信心において大事なことが何であるかが明確になります。

★曾谷殿御返事 p1056

涅槃経に云く
「若し善比丘あつて法を壊(やぶ)る者を見て置いて
呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し
挙処(こしょ)せずんば
当に知るべし是の人は
仏法の中の怨(あだ)なり、
若し能く駈遣し呵責し挙処せんは
是れ我が弟子真の声聞なり」云云、

此の文の中に
見壊法者(けんねほうしゃ)の見(けん)と
置不呵責(ちふかしゃく)の置(ち)とを
能く能く心腑(しんぷ)に染む可きなり、
法華経の敵を見ながら置いてせめずんば
師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、

南岳大師の云く
「諸の悪人と倶(とも)に地獄に堕ちん」云云、
謗法を責めずして成仏を願はば
火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし
はかなし・はかなし、

何(いか)に法華経を信じ給うとも
謗法あらば必ず地獄にをつべし、
うるし(漆)千ばいに蟹(かに)の足一(ひと)つ
入れたらんが如し、
毒気深入・失本心故(しっぽんしんこ)は是なり

謗法と決して妥協するな、法華経の敵を責めよ、との叱咤・ご命令です。挙処とは、謗法の者の罪を1つ1つ挙げて、責めることです。

うるし千杯・かに足一つの譬えは、膨大なうるしも、たった一つの蟹足【かにあし】を入れたことによって、ダメになり使えなくなります。いかに一生懸命信心をしても、法華経の敵を見て折伏しないでいれば、謗法にも通じることであるから、無間地獄に堕ちてしまうという意味です。今年の大白9月号p35に次の戸田先生の言葉が紹介されています。

「悩みがあるならば、折伏をするのだ!」
「折伏の中で自身の宿命転換もできるのだ!」

経済革命に限らず、自他の宿命の転換のために、眠れる勇気を奮い起こし、地涌の誓いを果たし抜いていきます。長文になり申し訳ございません。

 

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貧乏の鉄鎖を切る(9)

戸田先生は、『観心本尊抄講義』を発刊された昭和30年頃、各地で、繰り返し「受持即観心」の法理を語られました。(中略)

御本尊を受持すれば、自分が過去世につくらなかった、裕福になるなどの幸福の「原因」を即座にくださる。「あとは自分の信心と、折伏によって、結果を勝ちとらなければいけない」と。
(大白蓮華2017年9月号p16~)

自分も数年前にしばらく振りに、友人に入決をさせることができました。結果は入決まででしたが、相手の友人にも功徳の結果がハッキリと出て、自分にも経済面で結果が出たのです。自営の仕事において、前の年の平均月収の4倍を超える収入があり、我ながら驚きは大きかったです。

金銭の功徳話を書くと、「本当の信心の功徳とはそんなものなのか!」とお叱りを受けるやもしれませんが、自分は素直に折伏の功徳は凄い! と感じましたね。入決でこういう結果なんだから、弘教をやり切ったら? さらに10世帯、100世帯とやり切ったら、それこそ立派な個人会館が建つのも、夢ではないと思ったものです。あくまで未だ観念的に思っただけに過ぎませんが。

この入決で顕れた功徳も、「友人を救おう!」とのいわば「菩薩」の生命と行動に懸命だったからこそ、創価の御本尊の功徳が厳然と顕れたのです。この時は、年末年始返上で題目と折伏に必死でしたから。これがもし、最初から金銭を期待し、そのために友人への折伏を利用する命だったとしたら、これだけの功徳は無かったと思います。「発心真実ならざるも」なお功徳の大きい妙法ですから、ある程度は出るでしょうが、所詮、「餓鬼界」の生命では御本尊の力を、充分に引き出すことは不可能でしょう。

結局、今回の記事の結論は、もし本当に経済革命したいなら、貧乏の鉄鎖から自由になりたいなら、折伏するのが最も近道だということです。悩める友人を根底から救い、御本尊の無眼の功徳の引き出し方を教えるのですから、この世でこれほど尊い行いはないのです。

さらに、折伏に限らず、学会から打ち出される様々な戦い(法戦も当然含まれます)も同じです。それら一つ一つに、自己の限界突破の高い目標を掲げ、誠心誠意、一生懸命戦い切った時は、厳然と功徳の結果が必ず顕れます。僭越ですが、それが、私の約50年に及ぶ信心で体験した法則なのです。

 

貧乏の鉄鎖を切る(1)

貧乏の鉄鎖を切る(2)

貧乏の鉄鎖を切る(3)

魔との戦い ~御書三編

貧乏の鉄鎖を切る(4)

貧乏の鉄鎖を切る(5)

貧乏の鉄鎖を切る(6)

貧乏の鉄鎖を切る(7)

貧乏の鉄鎖を切る(8)

 

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須達長者

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貧乏の鉄鎖を切る(8)

 戸田城聖先生 質問会集から抜粋
~経済的問題とその答えだけを抜粋しました(つづき)

 

経済的悩みが大きくなった

[質問] 経済的な悩みで信心して二年になりますが、だんだんその悩みが大きくなっている状態です。

[答] 四十歳ぐらいで、商売を熱心にやっていればだいじょうぶです。金はもうかるようになります。しかし、あまり若いうちから、金はできないほうがいいでしょう。五十ぐらいからでどうですか。このなかに、経済的に悩んでいる人もあろうと思うから、私の体験を一応話しておきましょう。

私はヒバリのような運勢といわれているのです。それは、貧乏すると、どこへもぐったかわからないほど貧乏をしてしまう。それからひとたび景気がよくなると、どこまであがっていくかわからないのです。ですから友人は、私のことをヒバリというのです。
四十四のとき、牢へはいる前ですが、昭和十八年です、そのとき六百万円もっていました。どうやってできたか自分におぼえがないのです。それが牢から帰ってきたら、借金が二百何十万残っているのです。

それを返し、そうとう財産をつくってから謗法をしたのです。私が天台流の講義をやったのです。それは、私が会長にならなければならない宿命なのです。だが、会長になるのがいやでたまらなかったのです。会長にならないというと、身は日蓮大聖人の弟子でありながら、講義は天台流の講義をしたのでは、心は天台の弟子です。それは大謗法です。自分の謗法というのは気がつかないものです。それでえらい損をしました。

それで私は、昭和二十六年、会長になりました。それから、天台流の講義は絶対にいたしません。おかげで、どうやら金では今日は困りません。だから戸田は、創価学会をやっているから、私たちの寄付でのんきにやっているから、そんなことがいえるのだろうと疑ってはなりません。それはあなた方のほうから一銭ももらってはいません。ぼくに金をくれたという人がいたら出てごらんなさい。それは、あそこへ普請【ふしん】している大講堂の御供養のお金はもらっています。だが私がもらっているのではありません。あの建物がもらったのです。

私がどうにかなったのは、五十二からです。四十四のとき、六百万ももったとき、たいてい五十から財産ができると人は話しているが、私は頭がいいから、人より十年早いのだと、いばっていたのです。ところが、パッとなくなってしまったのです。五十を越してからどうにかできてきました。だから、そうあわてる必要はありません。

それから、いま、あなたのことばをきいていると、ひょっとすると、利息を払っている金を借りているのではないかと思うのですが、利息を払うということはこわいことです。
「だいぶ利息をとったから、元金を利息でとったから、おまえの借金はまけてやる」という人は、どこにもいないのです。だから、もしあなたが借金をして、利息を払っているのなら、そこを打ち勝たなければならないのです。これがいちばんの根本の問題です。このような場合、利息を払う人があるものですか。だから利息など払わないようにと考えるのです。これは大事なことです。

しかし、銀行の利息くらいは、払ってもよい。二銭か、二銭一厘の利息を払って、商売をやれないようなものなら、商売をやらないほうがいいです。ところが、まぬけな人は、日歩十銭だとか十五銭だとかいう利息を払うのです。そんなものを払って、商売などできるものですか。日歩十五銭とすると、年にして六割、月にすると五分ぐらいです。そんな金を払って商売などやれるわけがありません。

ですから、いまの人が二年半も信心して、だんだん重苦しくなってきたというのは、手形をだして、たくさん利息を払っているのでしょう。それをやめるのです。二年も三年も信心していて、金ができないというのは、たいてい高利を払っているのです。このなかにも、そういう人がいるのではないですか。断じて高利など払ってはなりません。それをどうしたら払わないですむかということを考えるのです。そうして、そこからのがれれば、いやでもおうでも、謗法さえなければ、商売は一生懸命になるし、金はできるに決まっています。ところが、いくらもうけても、高い利息を払ったらどうにもなりません。それで、不熱心はだめです。

折伏だ折伏だといって、商売もしないで、折伏に歩いている人がいるのです。このなかには、そのような人はいないでしょうね。折伏はすべきである。しかし商売を放ってまですべきではありません。四条金吾殿という方は、ひじょうにりっぱな方でありまして、本名は四条中務三郎左衛門尉頼基【なかつかささぶろうざえもんのじょうよりとも】と申し、左衛門という官名が中国で金吾というので、四条金吾となったのです。日蓮大聖人様が打ち首になるときに、もし、日蓮大聖人様が首を切られたら、追腹切って死のうとした方です。

それほど信心強盛な四条金吾殿が、折伏によって同僚からざん言されて、主君から不興をかったときに、日蓮大聖人様は、主君の御恩をけっして忘れず、今こそ武士の本分を尽くすよう指導されています。また、あるお方が、お手紙を日蓮大聖人様にさしあげたのです。「このごろは忙しくて、法華経を読むひまがありません」と。そのときに、日蓮大聖人様の御返事が「御みやづかい(士官)を法華経とをぼしめせ」(御書全集1295㌻)、勤めが法華経である、商売が信心であるというのです。

この商売に熱心でなかったならば、いまの方はどういう方か知りませんが、高利を払っているということは、不熱心ということです。そうでしょう。合理的ではありません。
それをやめなければなりません。どうやってやめるかを考えなければいけません。その人、その人の事情によるからです。「御みやづかいを法華経とをぼしめせ」、商売が信心です。その商売を熱心にやらないで、金ができないなど、不熱心ではありませんか。自分のもうけただけそこへ払うならまだいいですけど、ひどいばかは、借りてまで利息を払うのです。そのようなばかなことをしていて、商売熱心だといわれますか。私は、商売熱心ではないと思います。不熱心です。どうか、熱心にがんばりなさい。

 

お金の出る方が多い

[質問] お金がはいるより、でるほうが多いのですが、なんとかなりませんか。

[答] 「大白蓮華」に、過去世に泥棒をやってきたものは、毎日毎日はいってくるお金はあるけれども、それより早くお金がでていってしまうと、私が書いたのですけれども、勝手に書いたのではないのです。それは、釈尊がいっているのです。私がいったのではありません。その次には、日蓮大聖人様がおっしゃっていることがあるのです。「般泥洹経【はつないおんきょう】に云く」とおっしゃっているのです。ここが問題なのです。

経の内容は「おまえは貧乏人だと、どういうわけかというと、前の世に泥棒したから貧乏なのだ」と。「はあ、そうでございますか」といって、「それでは、私過去に泥棒したのですか、よくわかりました」といっただけでなんになりますか。このなかにも、そうとう過去世の泥棒がいるらしい。さきほどの奥様が、永遠の生命論を教えてくれといったが、それを聞いただけでなんになりますか。いま私のところにお金がないのは、過去世の泥棒のせいだ、これから泥棒してはあいならん、また未来世においてこういう貧乏するといわれて、それがもっともだとわかってどうしますか。貧乏を喜んでいけますか。そこに、釈尊の仏法と、日蓮大聖人様の仏法との相違があるのです。

いろいろ貧乏をしているのは、過去に泥棒したからとわかっても、「申しわけありません」と、だれにあやまるのですか。だれのをとったのかわかっていないし、覚えていません。わかっていれば返しに行けるけれども、だれのをとったのか覚えていない。それなのに文句をいわれて、貧乏人にされるのは迷惑です。仏様もずるいです。われわれにはわからないのですから。「そういうわけで、おまえは貧乏しているのだから、がまんしていろ」というのは、それはお釈迦様のほうがずるいです。

それを、日蓮大聖人様が、「そうしんぼうすることはいらんぞ。どうせ前の世では、おまえらろくなものではないのだから助けてやる」と大慈大悲を起こされたのです。観心本尊抄という御書に、はっきりしていますが、「ここで御本尊をおまえたちにあずけておくから、この御本尊を拝め。過去世でいかなることをしておろうとも、過去世で仏になるくらいの資格をつくった人の功徳と、同じ功徳をおまえらにくれるぞ」とおっしゃって、御本尊様をお与えくだされたのが、日蓮大聖人様なのです、心配いりません。

日蓮大聖人様の五字七字の御本尊を、三大秘法の御本尊を拝むところにおいて、権迹本【ごん・しゃく・ほん】の仏の因、如是因【にょぜいん】といいますが、そういうものを、われわれにくださっているのです。過去世で謗法をやっていてもいいのです。牢になど連れていきませんし、刑事も引っ張りにきません。前の世にやったことですから。安心して御本尊様を拝めば、大金持ちの種を植えたことになるのですから、安心して金持ちになって、そしてどこかへ遊びに行っていらっしゃい。

 

貧乏の鉄鎖を切る(1)

貧乏の鉄鎖を切る(2)

貧乏の鉄鎖を切る(3)

魔との戦い ~御書三編

貧乏の鉄鎖を切る(4)

貧乏の鉄鎖を切る(5)

貧乏の鉄鎖を切る(6)

貧乏の鉄鎖を切る(7)

 

 

 


貧乏の鉄鎖を切る(7)

戸田城聖先生 質問会集から抜粋
~経済的問題とその答えだけを抜粋しました

楽なところへ就職できるか

[質問] 現在失業中ですが、私の技術は、木工で二十四年の経験をもっていますが、最近やめさせられてしまった。楽にたくさんの給料の取れるところに、就職できるでしょうか。

[答] やめさせられた原因を、よく考え、自分のいやな、また人のいやがるところで、うんと働いてこそ、自分の願いがかなえられるのです。初代の会長は、たえず「東京で満足に生きていくには、一人前だけ働いたのでは、食うや食わずの貧乏暮らししかできない。二人前働いてやっと東京人になれ、三人前以上働いて、妻子を養うことができる」といっておられました。

職業をおろそかにする人は、信心もだめであります。金をうんともうけるには、かせがなくてはだめです。金を取る根本には信心があるのです。ろくに働きもしないなまけ者は、創価学会に必要はありません。

ふとんの行商が思わしくない

[質問] 入信して一年十か月、自分ではしっかりした信心をしているつもりですが、生活がますます、まずくなってきています。商売はふとんの行商をしていますが、どのようにしたらよいでしょうか。

[答] 商売はしっかりやっているのですか。それでは、その貧乏な人の話をすると、こうなのです。その人は、いまのようなことをしょっちゅういってきたのです。そして、しまいには夜逃げをしてしまったのです。その人をそれで私がよく記憶しているのです。一年前に思い出して、その人いったいどうなった、と聞いたのです。ところが、家を建てて電話ひいているのです。おどろきました。絶対に、そんなふうになりそうもない人だったのです。ところが、しょっちゅうきて、いまのようなことをいっていたのです。「信心はきちんとやっています。折伏もしています。商売がうまくありません。御本尊が悪いのでしょうか」といっていた。それが、六年か七年目に、私が聞いたときには、きちんと成功しているのです。これは、いつも申しますように、なかなか時間がかかるのです。

なぜかと申しますと、南無妙法蓮華経という、ほんとうの御本尊様を、われわれが受けたということは、われわれの心田に仏種を植えたことなのです。いわゆる下種、種を植えたのだから下種というのです。これだけの畠【はたけ】に、一つの種を植えたのです。その種が、育って大きい木になれば、今度は、実が年に百なら百なるとします。果物が一つ十万円で売れるとします。百売れて、十万円なら一千万円です。そういう大木を植えたのです。心田にまだ実はならない、その時にどうします。大きくなるまで、草をとったり、あるいは水をやったり、肥料をやったりするのがあたりまえでしょう。

そこでわれわれの田や畠を梵天帝釈(ぼんてんたいしゃく)をはじめぜんぶが守るのです。経済難などに絶対させるはずがないのです。そうして、今度はだんだんと守っていくのですから、だんだんとこの芽が育っていって、木の実がなるというふうになりますれば、願わずとも、金はでてくるのです。そうなるまで待つ以外にないのです。その間は、梵天帝釈は守りますから、暮らすだけのことができないわけはありません。身延ではあるまいし、そんな御本尊を私はすすめません。

それはなにかおかしなことがあるのです。私はあなたの信心を信じてはいません。そんなばかなことがあるものですか。一年十か月も信心して、どうにもならなくて、どうしましょうかなどと泣きごとをいうような御本尊様を渡してはありません。信心の仕方が違っているのです。

早くいえば、班長だとか、地区部長だとか、組長だとかいう者の批判をしたり、あるいはいろいろなことをいったりしているか、さもなければ、しっかり御本尊様を拝んでないか、商売をしっかりしていないかなのです。そんな御本尊様をあなた方に渡してはおりません。自分でよく反省してごらんなさい。一年十か月も信心して、梵天帝釈が来てたすけないような御本尊様は、絶対渡してはありません。