仕事をしない人は絶対に信用しません-指導集(11)

●人間革命第10巻[第2版] 跳躍の章 聖教ワイド文庫

(p218~ 戸田先生の指導)
「日蓮大聖人の遺された御本尊の功力によって、私たちは、金のない人は金ができ、体の弱い人は丈夫になります。私たちの願いは、このような相対的な幸福を願っていながら、将来は、絶対的幸福境涯に入るんです。

絶対的幸福など、あなた方は願っていない。願っていないのに、あなた方は、そうならなければならない。まことに、いやでしょうけれども、絶対的幸福というのは、どこにいても生きがいを感ずる境涯。どこにいてもですよ、どこにおっても生きている自体が楽しい。したがって、その人のいるところは、いつも明るい。喧嘩などありません。腹の立つことがあっても、愉快に腹が立つ――そういう境涯になったら嬉しくありませんか。早く、予想もしなかった絶対的幸福を、一人ひとりが得られんことを希望して、私の講演を終わります」

(p224~)
弘教の歓喜は、会員はもちろん、参加者全員をつつみ、皆が感動の涙で手を取り合ったのである。だが、一部の会員のなかには、もともと仕事が不調であったせいもあるが、仕事で努力するよりも、活動にさえ励んでいれば、生活も楽になるかのように錯覚している人もいた。道理に合わない、生活の基盤を全く無視した行き方である。伸一は、そうした人たちを見かけると、その誤った信心の姿勢を突き、叱咤した。

「私は、仕事をしない人は絶対に信用しません。日蓮大聖人の仏法に照らしても、信用してはならないことは明白です。仕事に憂【うれ】いがあるようでは、思いきった戦いができるはずもありません。本当の信心は、そんな甘いものではない。『仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり』(御書992㌻)です。また、『御みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ』(御書1295㌻)とも言われ、厳しく戒められています。

”信心で飛び回っていれば、なんとかなるだろう”という考えは、大聖人の仏法ではありません。今は苦しくても、歯を食いしばって、仕事にも信心にも頑張る時です。『法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる』(御書1253㌻)――大丈夫です。御本尊は、すべてをご存知です。今は、いつまでも冬が続くように思っているでしょうが、決してそんなことはない。間もなく必ず春が来ます。今は、頑張る時です。しっかりやりましょう」 伸一の熱情こめた指導に、「信心即生活」の自覚を新たにした人たちは、見る見る血色を蘇らせ、奮起するのであった。

 

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民衆の奴隷であってこそ本当の王者 -指導集(10)

◆池田SGI会長の指導

・ベートーヴエンが交響曲「田園」をつくった。もう、かなり耳は聴えなくなっている。しかし心の中には「田園」の鳥の声がさえずっている。小川のせせらぎが聴こえて田舎の人々の楽しい集いの声が聴こえている。激しい嵐の音も、嵐のあとの、さわやかな自然のたたずまいも、全部、ベート-ヴエンの「己心の中」にある。己心中の大自然を、彼は人類に伝えたのです。耳が聴こえなくても、仏法を知らなくても、それだけの境涯があった。いわんや、妙法を行じる人が、己心の宇宙を大きく広げられないわけがない。「妙」には「開く」という意義がある。広々とした己心の宝の世界を開くための信心です。何があっても楽しんでいける境涯をつくるのです。

 

♦︎民衆に尽くす無冠の王者♦︎
私だって毎日、朝から晩まで民衆の奴隷のようなものだ。それでいい。それが本当の王者だと思っている。 権力で自分を飾っていくのではない。(権威や財産や栄誉や名声など)それらをかなぐり捨てて「妙法以上の宝はない」と信心に徹した時、善の「妙荘厳王」となる。

 

・信心が燃えていれば、全宇宙がその人を守る。 「必ず心の固きに仮(よ)りて神の守り則ち強し」 大聖人が繰り返し引いておられる一句です。 「信心の強さによって、諸天が守る強さが決まる」と。 信心している人間が「大将軍」になれば、その家来である諸天善神は、元気一杯に働く。

 

・ただ「拝んでいる」だけでは、「日蓮と同意」にはならない。 折伏をやろう!広宣流布をやろう!―この心の炎が燃えている人が「日蓮と同意」なのである。

 

・病気になることは、決して敗北ではない。信心が弱いからでもない。広宣流布に生き抜く中で起きた病気という苦難は、成仏を阻もうとする魔の働きである。ゆえに怯んではならない。勇敢に立ち向かって、一生成仏を勝ち開いていく勇気を教えられているのです。大事なことは、病気になった時こそ、いよいよ強盛の大信力を奮い起こしていくことです。

 

♦︎魔が競った時こそ♦︎
戸田先生は語っている。 「魔が強いからこそ、勝てるのだ。信心が毅然として、その上で魔が強いということは、必ず勝てるという証拠なのである。要は自分自身の信心の決心にかかっている」 魔が競い起こった時こそもう一歩も二歩も大きく成長していくチャンスなのである。

 

・折伏以外に信心はない。折伏が根幹です。折伏をしなくなっては、学会の生命はありません。折伏を行った人、また、折伏をする人、また、折伏をするように指導する人・激励した人には、どういう人生であっても、それだけの功徳がある。反対に、どんなに信心をしていようと、折伏に挑戦しない人の人生は、最後には崩れてしまうのです。

 

・人間は、苦境に負けるのではない。自分自身に負けるんです。自らあきらめ、信念を捨て去り、敗れていくんです。今は、どんなに苦しくとも、広宣流布という最高の目的に生き抜いていくならば、十年後、二十年後には、絶対に花開かないわけがないと、私は断言しておきます。

 

・「どうせ」という言葉を捨てよう。 「無理だ」という言葉も捨てよう。 今どんな状況にあろうとも、こう自分に言い聞かせて生きていくべきだ。 「自分は、最後に勝つに決まっている!」 「自分の家族こそ最高の家族なんだ!」 「自分は既に世界で一番幸福な人間なんだ!」と。

 

・本当のリーダーの戦いは、まず自分が前へ進むこと。その姿を見て、皆は奮い立つ。自分が前進しなければ、どんな立派なことを言ってもダメだ。やっているふりだけでは人はついてこない。きょうも、どれだけの人と会い、語り、励ましたか。どれだけ祈り、智慧を出し、新しい道を開いたか。いくら時間をかけても、口先は立派でも、効果が出ないといけない。勝つための手を打っていく。それが戦(いくさ)だ。

 

・戸田先生「威張ってはいけない、大聖人の仏法の講義をさせていだけること、そして皆が講義をさせていただけること、そして皆が講義を聴いてくれることに感謝しなさい」

 

・人を動かすのではなく、まず、自分から動く。みずから率先して行動する。それでこそ人は信頼し、動きだすのである。

 

・「正しき人」が悪の上に立たねばならない。そして、正しき人が力を存分に発揮しゆくことだ。正しき人に活躍の場を与え、力を与えていくことである。それでこそ組織は悪を正し、悪を排除しながら、まっすぐに伸びていくことができる。

 

♦︎日興上人と五老僧の違い♦︎
師の教えを「知っている」から偉いのではない。「師の教えは素晴らしい」とは誰でも言える。 「だから何としても人々に伝えていくのだ」 これが日興上人であられる。 「だから、それを知っている自分はすごいのだ」 これが五老僧ではなかっただろうか。

 

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貧乏の鉄鎖を切る(10)

約8年前に書いた記事を微修正して再掲します。

★日厳尼御前御返事 p1262

叶ひ叶はぬは御信心により候べし
全く日蓮がとがにあらず、
水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく
みなの御心は水のごとし

信のよは(弱)きはにご(濁)るがごとし、
信心の・いさぎよきはす(澄)めるがごとし、
木は道理のごとし
風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ

願いが叶うか叶わないかは信心の厚薄によるのであり、大聖人の失【とが】ではないとの仰せです。ともすると我々凡夫が陥りがちな「他力本願的」な考え方を、根本から打ち破られています。この御抄を頂いた日厳尼は、ご供養とともに何らかの願いを書いた願文を、大聖人に送りました。そこには御本仏に直接、願いを訴えれば、必ず願いを叶えてもらえるのではないか、との甘えがあったと考えられます。

順調な時はついつい感謝を忘れ、苦境に陥った時には不平・不満が出る。あるいは、ふだんの地道な祈りと実践もなく、困った時にだけ御本尊を頼る、身勝手な信心であってはいけません。どこまでいっても「心こそ大切なれ」であり、水の流れるような弛【たゆ】まぬ信心が大切です。御書講義録には、次のように述べられています。

「願いが叶わないのは、御本尊に力が無いからではなく、信力、行力が弱いからである。仏力、法力は無限である。しょせん、甘えた信心だからであり、真剣な祈念を欠き、心の底から信じて祈っていないからである。その心の不信が、そのまま現実の姿のうえに現れているにすぎないことを知るべきであろう」

★王舎城事 p1138

御いのりの叶い候はざらんは
弓のつよ(強)くしてつる(絃)よはく
太刀つるぎ(剣)にて
つかう人の臆病なるやうにて候べし、
あへて法華経の御とがにては候べからず

同様に、ここでは祈りの叶わない理由を、その人自身の臆病である、と断じられています。

★聖人御難事 p1190

彼等にはただ一えん(円)におもい切れ
よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ
ひだるし(空腹)とをもわば餓鬼道ををしへよ、
さむしといわば八かん(寒)地獄ををしへよ、
をそろししと・いわばたか(鷹)にあへるきじ(雉)
ねこ(猫)にあえるねずみ(鼠)を
他人とをもう事なかれ、

此れはこまごまとかき候事は
かくとしどし(年年)・月月・日日に
申して候へども
なごへ(名越)の尼 せう(少輔)房
のと(能登)房・三位房なんどのやうに候、

をくびやう(臆病)物をぼへず
よくふか(欲深)く・うたがい多き者どもは
ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ
そら(空)をきり(切)たるやうに候ぞ。

熱原の法難の渦中の人々に対して、善くなるなどということは不思議と思うべきであり、これからも、ますます厳しくなると覚悟を決めよ、との仰せです。一般的にも、甘い観測を捨て、最悪の事態に対処してこそ、困難を乗り越えていけるものです。餓鬼道や八寒地獄、食う食われるの動物の譬えは、残忍な権力者からの迫害に負けて退転したならば、今の飢えや寒苦や恐怖よりも、さらに深く逃れがたい三悪道におちてしまうとの意味です。

はるかな過去世から三悪道を流転し、今ようやく正法に巡り合って、そこから脱出できるチャンスをつかんだのです。そこから逃れようとしている今、これら三悪道の苦が、ある意味では凝縮しておそってきているのです。信心を貫き通して、根本の大苦から逃れ出る最高の機会なのです。そして退転者の名を挙げて、彼らの本質には4つあることをご教示されます。このことから逆に、信心において大事なことが何であるかが明確になります。

★曾谷殿御返事 p1056

涅槃経に云く
「若し善比丘あつて法を壊(やぶ)る者を見て置いて
呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し
挙処(こしょ)せずんば
当に知るべし是の人は
仏法の中の怨(あだ)なり、
若し能く駈遣し呵責し挙処せんは
是れ我が弟子真の声聞なり」云云、

此の文の中に
見壊法者(けんねほうしゃ)の見(けん)と
置不呵責(ちふかしゃく)の置(ち)とを
能く能く心腑(しんぷ)に染む可きなり、
法華経の敵を見ながら置いてせめずんば
師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、

南岳大師の云く
「諸の悪人と倶(とも)に地獄に堕ちん」云云、
謗法を責めずして成仏を願はば
火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし
はかなし・はかなし、

何(いか)に法華経を信じ給うとも
謗法あらば必ず地獄にをつべし、
うるし(漆)千ばいに蟹(かに)の足一(ひと)つ
入れたらんが如し、
毒気深入・失本心故(しっぽんしんこ)は是なり

謗法と決して妥協するな、法華経の敵を責めよ、との叱咤・ご命令です。挙処とは、謗法の者の罪を1つ1つ挙げて、責めることです。

うるし千杯・かに足一つの譬えは、膨大なうるしも、たった一つの蟹足【かにあし】を入れたことによって、ダメになり使えなくなります。いかに一生懸命信心をしても、法華経の敵を見て折伏しないでいれば、謗法にも通じることであるから、無間地獄に堕ちてしまうという意味です。今年の大白9月号p35に次の戸田先生の言葉が紹介されています。

「悩みがあるならば、折伏をするのだ!」
「折伏の中で自身の宿命転換もできるのだ!」

経済革命に限らず、自他の宿命の転換のために、眠れる勇気を奮い起こし、地涌の誓いを果たし抜いていきます。長文になり申し訳ございません。

 

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仏は衆生救済のため悪も熟知する。

●御書講義録 第17巻 p.361~ から

まず、法理の面では、天台大師の一念三千・性善性悪の法門によって示されている。すなわち一念三千の法門によれば、人間生命には善も悪もその本性としてもともと備えている。善とは広くいえば四聖であり、その極善が仏界である。悪は広くいえば六道であり、また三悪道、四悪趣を指し、極悪は地獄界である。

妙覚の仏といえども、十界互具・一念三千の当体であり、極悪の地獄界から、極善の仏界まで、すべての生命は善と悪をともに備えているとするのが法華宗の教えである。これは、善悪をそなえているのは等覚の菩薩位までに限られるとする爾前権経と根本的に違う点である。

この、すべての生命にそなわる性善、つまり元品の法性が依報の上に顕れれば、正法を守護する梵天・帝釈等の諸天善神の働きとなる。逆に、本有の性悪、すなわち元品の無明が顕れれば、法華経の行者を悩ます第六天の魔王の働きとなる。

(中略)
 一念三千・性善性悪について

性善性悪があらゆる生命に具わっていること、妙覚の仏でさえ、その例外ではないということは、一念三千・十界互具が必然的に意味するところである。性善性悪は、すべての生命に本来的にそなわる善悪の性分を指している。これに対して、行動の次元に本来の性分が顕れて、その効用を発揮することを修善修悪という。諸法実相・十界互具を説く天台家では、法性真如に善悪の性徳を具すと主張するのである。

観音玄義巻上には「問う、性徳の善悪は何ぞ断ずべからずや。答う、性の善悪は但是れ善悪の法門なり。性改むべからず、三世を歴て誰も能く毀つものなく、復【また】断壊すべからず」(大正34巻882㌻)と記されている。すなわち、性分としての善悪は、本有の存在であり、迷悟にかかわらず改変しえないものである。

ゆえに極善の仏にも性悪を具し、逆に極悪の一闡提【いっせんだい】も性善を断壊することはないのである。ただし、仏に修悪はなく、一闡提に修善はないのである。仏は性悪を具すことによって、極悪の衆生が悪をなし罪業をおかすに至った心情を理解することもでき、また、そうした衆生を救済することも可能になる。

観音玄義巻上には「仏は性悪を断ぜずと雖【いえど】も、而も能く悪に於て達す。悪に達するを以っての故に、悪に於て自在なり。故に悪の染する所とならず、修悪起こるを得ず、故に仏永く復【また】悪無し。自在を以っての故に、広く諸悪の法門を用いて衆生を化度す。終日之を用いて、終日染まらず」(大正34巻882㌻)とある。

仏は性悪があっても、悪に縛られるということはなく、それによって悪によく通達し、悪を自在に制し、それによって、衆生をよく救済することができるのである。つまり、仏は悪を用いても、悪に染まり、悪の行をすることはないのである。このような性善性悪の法理にのっとって、末法においては日蓮大聖人が、濁悪の世の衆生に具した性善を開発し顕現するために、文底下種の南無妙法蓮華経を説かれたのである。

 

【ひと言感想】
末法の三毒強盛の衆生を救うには、単なるお人好しでは無理です。悪事(謗法)を為すに至った人々の心情を理解し、根底から救済するには、仏にも三悪道の命が具わっていなければなりません。自身は悪を行わないけれども、悪をも熟知しているのが仏なのです。

法華経の生命論があまりに深いことに感動します。悪と詐(いつわ)り親しむことなく、岩盤のような無明に覆われた悪人が悔いる心を起こすまで、徹して悪を責め抜くことこそが慈悲に通ずるのです。

 

 


表彰して頂きました(2)

先月の県の会合でわが地区が表彰されました。地区部長が仕事で出られないため、私が代理で地区婦人部長とともに、表彰を受けさせて頂きました。表彰状には次の文言があります。

「世界広宣流布への大誓願を打ち立て、折伏・弘教 広布後継の人材拡大へ 異体同心の崇高なる結果を示されました」

この言葉にあるように、わが地区では、今年上半期だけで3世帯の弘教が結実し(うち青年部への本流2世帯)、他に入決2人もできました。昨年11月に成就した分を入れると御本尊授与合計4世帯となりました。今回の任用試験に2名の合格者を輩出し、新聞においても模範の戦いをしてきました。

地区の全てのメンバーの祈りと戦いの結晶として、今回の表彰を頂くことができ本当におめでとうございます! と感謝の思いで一杯です。そして、地区に関わってくださって頂いている、全ての同志の方々のお陰です。この場を借りまして、誠にありがとうございます。

この表彰を励みにして、ここに安住することなく、下半期の大勝利を目指していきます。個人折伏も、良い意味で(広布に)貪欲になって、先生に喜んで頂ける戦いをしていきます!

 

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