表彰して頂きました(2)

先月の県の会合でわが地区が表彰されました。地区部長が仕事で出られないため、私が代理で地区婦人部長とともに、表彰を受けさせて頂きました。表彰状には次の文言があります。

「世界広宣流布への大誓願を打ち立て、折伏・弘教 広布後継の人材拡大へ 異体同心の崇高なる結果を示されました」

この言葉にあるように、わが地区では、今年上半期だけで3世帯の弘教が結実し(うち青年部への本流2世帯)、他に入決2人もできました。昨年11月に成就した分を入れると御本尊授与合計4世帯となりました。今回の任用試験に2名の合格者を輩出し、新聞においても模範の戦いをしてきました。

地区の全てのメンバーの祈りと戦いの結晶として、今回の表彰を頂くことができ本当におめでとうございます! と感謝の思いで一杯です。そして、地区に関わってくださって頂いている、全ての同志の方々のお陰です。この場を借りまして、誠にありがとうございます。

この表彰を励みにして、ここに安住することなく、下半期の大勝利を目指していきます。個人折伏も、良い意味で(広布に)貪欲になって、先生に喜んで頂ける戦いをしていきます!

 

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裸形の猛者と甲冑の猛者

真言宗の破折について、御書および講義録から核心部分の一つを抜粋してみたい。

然れば則ち法華経と大日経と敵論の時は
大日経の理・之を奪つて法華経に付く可し、

但し大日経の得分は但(ただ)印真言計りなり、
印契(いんけい)は身業・真言は口業なり
身口のみにして意無くば印・真言有る可からず、
手口等を奪つて法華経に付けなば
手無くして印を結び口無くして真言を誦せば
虚空に印真言を誦結(じゅけつ)す可きか如何、

裸形(らぎょう)の猛者と
甲冑(かっちゅう)を帯せる猛者との譬の事、
裸形の猛者の進んで大陣を破ると
甲冑を帯せる猛者の退いて一陣をも破らざるとは
何れが勝るるや、

又猛者は法華経なり甲冑は大日経なり、
猛者無くんば甲冑何の詮か之有らん
此れは理同の義を難ずるなり、

(法華真言勝劣事p123)


裸の猛者(もさ)と甲冑(かっちゅう)を着けた猛者との譬えについていえば、裸の猛者が進んで敵陣を破るのと、甲冑を着けた猛者が敵陣を前に退いてしまうのとは、どちらが勝れているかは明白ではないか、と仰せになっている。これは、甲冑を着けているかどうかではなく、敵陣を破るかどうかが「猛者」の本質であることを指摘され、印・真言の有無が成仏の法の本質ではないことを示されているのである。

また、猛者が法華経で、甲冑が大日経だとすれば、猛者がいなければ甲冑も何の用にもたたないではないか。とも破されている。法華の法理がない大日経は、無用であることを明かされているのである。以上が、天台真言宗の立てた「理同」に対する破折にあたる。

(日蓮大聖人御書講義第3巻上p50~)

真言は印・真言があるので「甲冑を着けた兵士」であるのに対し、法華宗はそれらが無いので「裸の兵士」であるとの真言宗の邪義に対して、明確に破折された御文である。

譬喩として、甲冑の有無と、猛者が敵陣を破れるか否かが述べられている。それは敵陣を破ることが「猛者」の本質なのであって、印・真言には成仏の本質は無いとの仰せなのである。つまり真言宗の印・真言は一見立派な鎧・兜(よろい・かぶと)を身に着けているようであっても、敵陣を前に退いてしまう弱兵であれば何の役にも立たない。単なる見掛け倒しであり形式に過ぎないのである。それとは対照的に、法華経(の肝心たる南無妙法蓮華経)には猛者が敵陣を破るように、現実に人々を成仏させる無眼の力があることを意味しているのだ。

先の講義録の続きには、このことを重ねて述べている。それが以下の部分である。

(中略)
仏法の根本は成仏であるが、成仏の根本は“法”すなわち“理”を悟ることにあって、印・真言によるのではない。印や真言は既に悟った仏のあらわす力や智慧を象徴するものなのである。一切衆生の成仏得道の“法”は一念三千であり、これらは法華経のみにある。大日経には、一念三千の法理はない。したがって、いかに大日経には印・真言が説かれていると誇っても、根本の成仏の理が説かれていないのでは、全く無意味となるのである。

 

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貧乏の鉄鎖を切る(9)

戸田先生は、『観心本尊抄講義』を発刊された昭和30年頃、各地で、繰り返し「受持即観心」の法理を語られました。(中略)

御本尊を受持すれば、自分が過去世につくらなかった、裕福になるなどの幸福の「原因」を即座にくださる。「あとは自分の信心と、折伏によって、結果を勝ちとらなければいけない」と。
(大白蓮華2017年9月号p16~)

自分も数年前にしばらく振りに、友人に入決をさせることができました。結果は入決まででしたが、相手の友人にも功徳の結果がハッキリと出て、自分にも経済面で結果が出たのです。自営の仕事において、前の年の平均月収の4倍を超える収入があり、我ながら驚きは大きかったです。

金銭の功徳話を書くと、「本当の信心の功徳とはそんなものなのか!」とお叱りを受けるやもしれませんが、自分は素直に折伏の功徳は凄い! と感じましたね。入決でこういう結果なんだから、弘教をやり切ったら? さらに10世帯、100世帯とやり切ったら、それこそ立派な個人会館が建つのも、夢ではないと思ったものです。あくまで未だ観念的に思っただけに過ぎませんが。

この入決で顕れた功徳も、「友人を救おう!」とのいわば「菩薩」の生命と行動に懸命だったからこそ、創価の御本尊の功徳が厳然と顕れたのです。この時は、年末年始返上で題目と折伏に必死でしたから。これがもし、最初から金銭を期待し、そのために友人への折伏を利用する命だったとしたら、これだけの功徳は無かったと思います。「発心真実ならざるも」なお功徳の大きい妙法ですから、ある程度は出るでしょうが、所詮、「餓鬼界」の生命では御本尊の力を、充分に引き出すことは不可能でしょう。

結局、今回の記事の結論は、もし本当に経済革命したいなら、貧乏の鉄鎖から自由になりたいなら、折伏するのが最も近道だということです。悩める友人を根底から救い、御本尊の無眼の功徳の引き出し方を教えるのですから、この世でこれほど尊い行いはないのです。

さらに、折伏に限らず、学会から打ち出される様々な戦い(法戦も当然含まれます)も同じです。それら一つ一つに、自己の限界突破の高い目標を掲げ、誠心誠意、一生懸命戦い切った時は、厳然と功徳の結果が必ず顕れます。僭越ですが、それが、私の約50年に及ぶ信心で体験した法則なのです。

 

貧乏の鉄鎖を切る(1)

貧乏の鉄鎖を切る(2)

貧乏の鉄鎖を切る(3)

魔との戦い ~御書三編

貧乏の鉄鎖を切る(4)

貧乏の鉄鎖を切る(5)

貧乏の鉄鎖を切る(6)

貧乏の鉄鎖を切る(7)

貧乏の鉄鎖を切る(8)

 

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相手の幸福を祈る一念が折伏の秘訣

友人が信心するに当たって、仏法用語を並べ立てて教学がどうだ、先生がどう言っているだの、宗教の正邪がどうだ、といったことはハッキリ言って、最初は何の関係もないことだろう。それは自分が発心した時のことを思い浮かべても、ハッキリしている。中にはそういったことを理解したうえで、或いは完全に理解できなくても、一定レベルの説明や理解を伴ったうえで、入会に踏み切る人も居ることとは思う。

大部分の人は、相手への関心や思いはそっちのけで、これが正しいとまくしたてられても、壁を作られるのが落ちであろう。その人と本当に人間関係を築きたいのなら、最初は遊びオンリーでもよいと私は思う。何気ない人間的お付き合いや趣味等から、人間関係を築き上げるのは自然なことだと思う。ついつい自分も、折伏することが最高に相手のためになるのだからと、気ばかり焦って、信心を押し付ける対話に終始しがちである。

そこで大切なことは、「話し上手より聞き上手」と言われるように、相手の話しを聞くことである。口が一つなのに対して耳が二つあるのは、人間は聞くことが大切であることを表しているからだ、と聖教で読んだこともある。それがどれだけ正義であり偉大なことであろうとも、顔を合わせれば一方的に学会のことを話すのであれば、人間関係は築かれない。時には、関係を壊してしまい、疎遠になる場合もあるかもしれない。

友人にしてみれば、学会の教義がどうのこうのや、学会からの一方的な都合は、友人自身には全く関係ないことだ。では、対話において何が大事なのだろう。それは、その友人自身の悩みを知り、願いを知り、それらを解決し叶えるためには、学会の信心がいかに力を発揮するかを、確信をもって語ることだけである。「信心即生活」との指導にあるように、生活から遊離した正邪の論議は、何も役に立たないのであり、職業宗教家の道具に過ぎないのである。

お互いの心を開いた対話と、「この人の言うことなら聞ける」という信頼関係を築くことが大切になる。その意味では、相手に媚び、いつわり親しむような関係では、信頼は築けない。時には、腹の底から思うことをぶつけ、真剣に喧嘩することも必要であろう。そのためにも、会っていきなり本音をぶつけあうのは無理であるから、当り障りのない遊びや趣味などの、何気ない付き合いを重ねることが大切と思う。それが土台となって、深いぶつかり合いも可能になると思う。

広宣流布への深い使命感や、三代会長への報恩などは、早くから語ってもよいとは思うが、本当に実感として分かるのは、もっと後のことになるだろう。ここまで種々述べたが、最も大事なのは、「相手の幸福を祈る一念」だと思う。自分が折伏をやったと称賛されたいがために、友人を利用する一念であれば、どこかで相手にも通じることだし、本当の仏界の力用は出てこないと思う。

相手の幸福を祈る一念は、やみくもに御本尊に向かうだけでは持てないだろう。友人を思う行動の積み重ねあってこそ、その一念を持てるものであろう。しばらくその友人に会えてもいないで、相手の幸福を祈るといっても無理な話であろう。このことからも、まず会うこと、そして対話すること、時間を共に過ごすこと、がいかに大事なことかが分かる。改めて自分も、そこから始めていきたい。

 

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師子王の心

日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず
(教行証御書p.1282)

信心とは勇気の異名であることを端的に示された御文である。広宣流布の途上には難は必然である。余りに正しく偉大な妙法であるが故に、弘める実践者にとって難を避けることはできない。難を恐れていては信心を貫くことは不可能なのだ。

悪王の正法を破るに
邪法の僧等が方人(かたうど)をなして
智者を失はん時は

師子王の如くなる心をもてる者 必ず仏になるべし
例せば日蓮が如し

(佐渡御書p.957)

続いて上の御文は9月に行われる青年3級・初級試験の範囲にある部分である。その解説には、次のようにある。

彼らが大聖人を迫害するのは、正邪が基準ではなく、知者である大聖人の社会的立場が弱いゆえであり、王法の権力が強いことを恐れているからであると言われています。(中略)

まさしく末法における仏道修行とは、謗法が充満する社会にあって、たとえただ一人であっても、不惜身命の覚悟で法華経の正義を叫び抜く実践を貫き通すことにほかなりません。

この師子王の心は、創価の師弟の仏法の中にこそ厳然と存在する。実際に難に遭っても、恐れることなく乗り越えていく勇気みなぎる信心を、今日よりさらに磨き鍛えていく決心である。

 

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