昨年の唱題372万遍

一日で記事3連投目となり申し訳ありません。記録を集計しますと昨年2018年の唱題数の合計は372万6千遍でした。一年間400万には及びませんでしたが、私の記録の中で過去最高だったのは間違いありません。ここでまた御書を学びましょう。

大地はささばはづ(外)るるとも
虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも
潮のみ(満)ちひ(干)ぬ事はありとも
日は西より出づるとも

法華経の行者の祈りの
かな(叶)はぬ事はあるべからず
(祈祷抄 御書1351㌻)

改めて大確信の祈り、広布誓願の祈りを持続していきます。

 

↓ 宜しければクリックをお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村


栄光の年から創価勝利の年へ

池田先生が北海道の同志に贈った揮毫「栄光の山」。

今年最後となりますが御書を拝しましょう。

只(ただ)南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば
滅せぬ罪やあるべき
来(きた)らぬ福(さいわい)や有るべき、
真実なり甚深なり是(これ)を信受すべし

(「聖愚問答抄」御書497㌻)

[通解] ただ南無妙法蓮華経とだけ唱えるならば、滅しない罪があろうか。訪れてこない幸福があろうか。このことは真実であり、極めて深い法門である。これを信受すべきである。

[大意] 唱題の偉大な功力を教えられた一節です。

[一言感想] この御文にある通り、最高の真実かつ甚深の題目を今年も存分にあげきることができました。無事故で全ての戦いに勝利することができ、これ以上の喜びはありません。亡くなった父も霊山で安心して見守ってくれていると確信します。(今年残り数日も油断なく頑張ります)

来年こそは、いよいよ勇気を取り出して自行化他の実践に励み、一段と勝利の実証を示していきます。本年も多くの方々にお世話になり、本当にありがとうございました。よいお年をお迎えください。

(平31.1.4 加筆しました)

 

↓ 宜しければクリックをお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村


貧乏の鉄鎖を切る(10)

約8年前に書いた記事を微修正して再掲します。

★日厳尼御前御返事 p1262

叶ひ叶はぬは御信心により候べし
全く日蓮がとがにあらず、
水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく
みなの御心は水のごとし

信のよは(弱)きはにご(濁)るがごとし、
信心の・いさぎよきはす(澄)めるがごとし、
木は道理のごとし
風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ

願いが叶うか叶わないかは信心の厚薄によるのであり、大聖人の失【とが】ではないとの仰せです。ともすると我々凡夫が陥りがちな「他力本願的」な考え方を、根本から打ち破られています。この御抄を頂いた日厳尼は、ご供養とともに何らかの願いを書いた願文を、大聖人に送りました。そこには御本仏に直接、願いを訴えれば、必ず願いを叶えてもらえるのではないか、との甘えがあったと考えられます。

順調な時はついつい感謝を忘れ、苦境に陥った時には不平・不満が出る。あるいは、ふだんの地道な祈りと実践もなく、困った時にだけ御本尊を頼る、身勝手な信心であってはいけません。どこまでいっても「心こそ大切なれ」であり、水の流れるような弛【たゆ】まぬ信心が大切です。御書講義録には、次のように述べられています。

「願いが叶わないのは、御本尊に力が無いからではなく、信力、行力が弱いからである。仏力、法力は無限である。しょせん、甘えた信心だからであり、真剣な祈念を欠き、心の底から信じて祈っていないからである。その心の不信が、そのまま現実の姿のうえに現れているにすぎないことを知るべきであろう」

★王舎城事 p1138

御いのりの叶い候はざらんは
弓のつよ(強)くしてつる(絃)よはく
太刀つるぎ(剣)にて
つかう人の臆病なるやうにて候べし、
あへて法華経の御とがにては候べからず

同様に、ここでは祈りの叶わない理由を、その人自身の臆病である、と断じられています。

★聖人御難事 p1190

彼等にはただ一えん(円)におもい切れ
よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ
ひだるし(空腹)とをもわば餓鬼道ををしへよ、
さむしといわば八かん(寒)地獄ををしへよ、
をそろししと・いわばたか(鷹)にあへるきじ(雉)
ねこ(猫)にあえるねずみ(鼠)を
他人とをもう事なかれ、

此れはこまごまとかき候事は
かくとしどし(年年)・月月・日日に
申して候へども
なごへ(名越)の尼 せう(少輔)房
のと(能登)房・三位房なんどのやうに候、

をくびやう(臆病)物をぼへず
よくふか(欲深)く・うたがい多き者どもは
ぬ(塗)れるうるし(漆)に水をかけ
そら(空)をきり(切)たるやうに候ぞ。

熱原の法難の渦中の人々に対して、善くなるなどということは不思議と思うべきであり、これからも、ますます厳しくなると覚悟を決めよ、との仰せです。一般的にも、甘い観測を捨て、最悪の事態に対処してこそ、困難を乗り越えていけるものです。餓鬼道や八寒地獄、食う食われるの動物の譬えは、残忍な権力者からの迫害に負けて退転したならば、今の飢えや寒苦や恐怖よりも、さらに深く逃れがたい三悪道におちてしまうとの意味です。

はるかな過去世から三悪道を流転し、今ようやく正法に巡り合って、そこから脱出できるチャンスをつかんだのです。そこから逃れようとしている今、これら三悪道の苦が、ある意味では凝縮しておそってきているのです。信心を貫き通して、根本の大苦から逃れ出る最高の機会なのです。そして退転者の名を挙げて、彼らの本質には4つあることをご教示されます。このことから逆に、信心において大事なことが何であるかが明確になります。

★曾谷殿御返事 p1056

涅槃経に云く
「若し善比丘あつて法を壊(やぶ)る者を見て置いて
呵責(かしゃく)し駈遣(くけん)し
挙処(こしょ)せずんば
当に知るべし是の人は
仏法の中の怨(あだ)なり、
若し能く駈遣し呵責し挙処せんは
是れ我が弟子真の声聞なり」云云、

此の文の中に
見壊法者(けんねほうしゃ)の見(けん)と
置不呵責(ちふかしゃく)の置(ち)とを
能く能く心腑(しんぷ)に染む可きなり、
法華経の敵を見ながら置いてせめずんば
師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、

南岳大師の云く
「諸の悪人と倶(とも)に地獄に堕ちん」云云、
謗法を責めずして成仏を願はば
火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべし
はかなし・はかなし、

何(いか)に法華経を信じ給うとも
謗法あらば必ず地獄にをつべし、
うるし(漆)千ばいに蟹(かに)の足一(ひと)つ
入れたらんが如し、
毒気深入・失本心故(しっぽんしんこ)は是なり

謗法と決して妥協するな、法華経の敵を責めよ、との叱咤・ご命令です。挙処とは、謗法の者の罪を1つ1つ挙げて、責めることです。

うるし千杯・かに足一つの譬えは、膨大なうるしも、たった一つの蟹足【かにあし】を入れたことによって、ダメになり使えなくなります。いかに一生懸命信心をしても、法華経の敵を見て折伏しないでいれば、謗法にも通じることであるから、無間地獄に堕ちてしまうという意味です。今年の大白9月号p35に次の戸田先生の言葉が紹介されています。

「悩みがあるならば、折伏をするのだ!」
「折伏の中で自身の宿命転換もできるのだ!」

経済革命に限らず、自他の宿命の転換のために、眠れる勇気を奮い起こし、地涌の誓いを果たし抜いていきます。長文になり申し訳ございません。

 

↓ 宜しければクリックをお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村


仏の十号(2)

仏の十号の続きです。

信力と行力を!

一、戸田先生は、おっしゃった。
「創価学会は、その大法を末法の民衆に教え、流布するために、御本仏のお使いとして出現し、菩薩道を行じている。それもまた、『我常在此。娑婆世界。説法教化。』の一分の姿ではないか。してみると、学会の存在は、それ自体、創価学会仏ともいうべきものであり、諸仏の集まりといえよう」

なかんずく、事実の上で、最もはつらつと偉大な生命力を輝かせておられるのが、世界一の婦人部であると、私は申し上げたい。ともあれ、宇宙と社会と人間を貫く大法を、私たちは持ち、実践している。これほど尊貴な生命の位【くらい】はない。いかなる邪悪にも負けない、智慧と勇気と忍耐の力がある。限りない、対話と友情と信頼の光がある。ここにこそ、平和と文化と教育の大道が開かれる。正義と真実と勝利の歴史が刻まれていく。

この創価学会とともに生きゆく皆さま方が、幸福にならないわけがない。断じて、負けるわけなどない。反対に、この学会に敵対し、学会員を悩ませ、苦しめた輩が、「若【も】し悩乱せん者は頭七分に破【わ】れん」という、あまりにも厳しい仏罰を受けていることは、皆さま方が、よくご存じの通りである。

一、日寛上人は「観心本尊抄文段」に仰せである。
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身・即【すなわ】ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」 「唯【ただ】仏力・法力を仰ぎ、応【まさ】に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔【ばんこう・く】ゆることなかれ」 私たちは、真剣なる信力と行力で、偉大なる仏力と法力を湧き出しながら、朗らかに悔いなく、勝ちに勝っていきたい。

(H17年6月14日付聖教、「本部幹部会での名誉会長のスピーチ」から)

■御書p.1044「法蓮抄」から


是【こ】れ程に貴き教主釈尊を
一時二時ならず一日二日ならず一劫【いっこう】が間
掌【たなごころ】を合せ両眼を仏の御顔にあて
頭を低【たれ】て他事【たじ】を捨て
頭の火を消さんと欲するが如【ごと】く
渇して水ををもひ飢えて食を思うがごとく
間【ひま】無く供養し奉る功徳よりも

戯論【けろん】に一言
継母の継子をほむるが如く
心ざしなくとも末代の法華経の行者を
讃【ほ】め供養せん功徳は

彼の三業相応の信心にて一劫が間
生身の仏を供養し奉るには
百千万億倍すぐべしと説き給いて候、
これを妙楽大師は
福過十号とは書れて候なり、

十号と申すは仏の十の御名【みな】なり
十号を供養せんよりも
末代の法華経の行者を供養せん功徳は
勝るとかかれたり

 

【ひと言感想】
生きて目の前にいる仏を供養するよりも、あらゆる困難を乗り越えて妙法を唱え広める人を供養する功徳の方が、はるかに勝れていると仰せです。仏教の正統中の正統を継承し、真剣に実践する創価学会員を、守り讃える人の功徳はかくも絶大なのですね。仏の十号の福徳を具えた創価学会仏の一員としての誇りも高く前進します!

 


仏の十号(1)

「仏」とは何なのでしょうか。死んだ人が仏なのでしょうか。それとも、世間から遊離し、悟りすました存在が仏でしょうか。

それは違います。仏とは、どんな困難も乗り越えていく最高の勇気、最高の智慧、最も強い生命力のことです。そして他者を慈しみ、不幸な人を放ってはおかない、苦しみを除き楽しみを与えゆく、慈愛あふれる生命です。本来、この仏の生命は万人に具わっているのです。

仏の生命が具えるあらゆる徳を一面から捉えたものが、「仏の十号」です。では先生の指導を元に学んでみましょう。

「仏の十号」の徳

一、日蓮大聖人は、「我が門人等は福過十号疑【ふくかじゅうごううたが】い無き者なり」―――わが門下の人々が、“十号(十の尊称)をもっておられる仏を供養するよりも、はるかに勝る福徳を得ること”は、疑いない―――(御書342ページ)と仰せである。この「十号」とは、仏を讃えた十種の称号のことである。

御本尊の向かって左の御肩には、「有供養者福過十号【うくようしゃふくかじゅうごう】」(供養すること有らん者は福十号に過ぎん)と、厳然とお認【したた】めである。十号の仏に供養する福徳よりも、御本尊を持【たも】ち、広布に戦う我々が得る功徳のほうが、はるかに大きい。さらに申し上げれば、究極的には、御本尊を正しく信ずる者は、十号の功徳を具【そな】える仏界の生命を現すことができるのである。

 

名 称 ふりがな 説       明
1 如来 にょらい 十号の第1は、「如来【にょらい】」。
これは、真如、すなわち究極の真理から現れ来【きた】る者という意味である。
最高の智慧、真理を体現し、瞬間瞬間、生き生きとこれを発揮して、民衆のために尽くす。最高の価値を創造していく躍動の前進をリードする。
2 応供 おうぐ 第2は「応供【おうぐ】」。
世の尊敬や供養を受けるにふさわしい存在という意味である。自然のうちに、人々を感化、善導し、皆に功徳を受けさせることができる人格である。
3 正遍知 しょうへんち 第3は「正遍知【しょうへんち】」。
あらゆることを正しく知り、正しく判断できる智慧をもつ者である。したがって、その智慧をあまねく人々に行き渡らせていく“知性の光”となるのである。
4 明行足 みょうぎょうそく 第4は「明行足【みょうぎょうそく】」。
英知と行動をあわせ持つ。知勇兼備【ちゆうけんび】の模範の指導者といえよう。
5 善逝 ぜんぜい 第5は「善逝【ぜんぜい】」。
煩悩を乗り越えて、仏の境地に達することである。
濁った時代、混乱の社会を打ち破って、新しい時代へ、常に勝利と発展を切り開いていく。そうした原動力といえようか。
6 世間解 せけんげ 第6は「世間解【せけんげ】」。
世間の情勢、時代の動向などを知り尽くした人のことで、的確に社会をリードしゆく指導力に通じよう。
7 無上士 むじょうし 第7は「無上士【むじょうし】」。
文字通り、この上ない「最上最高の人」である。
8 調御丈夫 じょうごじょうぶ 第8は「調御丈夫【じょうごじょうぶ】」。
どんな人をも善導し、いかなる悪の働きも調伏【ちょうぶく】(=コントロール)できる力を持つ者である。それは、一切衆生を薫陶【くんとう】する、人間教育の真髄を体現した存在である。
9 天人師 てんにんし 第9は「天人師【てんにんし】」。
諸天や人々を教え導く存在である。あらゆる人々を励ましていく“精神的指導者”と考えることもできよう。
10 仏世尊 ぶっせそん 最後の第10は、「仏世尊【ぶっせそん】」である。
「仏」は、この世で最も賢く目覚めている人であり、他を目覚めさせる人である。また、あらゆる人から尊敬されるがゆえに「世尊」という。


は、これら十種の威徳をすべて持っているのである。さらにまた仏は、この世で最も強く、すべてを勝ち抜いていく勇者であるがゆえに、「世雄【せおう】」という異名もある。智慧と力と福徳を持ち、進みゆくわが創価学会員は、永遠に勝利者である。永遠に仏の生命を涌現していけるのである。

(H17年6月14日付聖教、「本部幹部会での名誉会長のスピーチ」から)