今年だけで200万遍

 

本日、今年だけで200万遍のお題目をあげました。ほぼ毎日2時間30分を持続しています。再発心してからの32年間の通算では4709万遍となりました。自分らしく徹して御本尊様と向き合ってきました。これからも、いかなる苦難があろうとも紛動されず、とにかく1に題目、2に題目で歩んでいきます。唱題行について、7年前に書いた記事を微修正して再掲致します。

【ここから過去記事の再掲】

題目について思いつくままに、述べさせていただきます。

「題目は難しいです。なかなか上がりません」という言葉をよく聞きます。しかし考えてみれば題目は、本来、万人に開かれた修行法であり、形式だけを見れば、どんな人でも実践できる簡単な方式です。例えば、滝に打たれたりといった荒行や、何千kmを歩くという巡礼の旅も必要としません。体を痛めたり、欲望を断ち切るためと言って難行・苦行も必要ありません。

例えば、1回1回の勤行をするのに百万円札の束を供養する必要もありません。必要なお金は基本的に1円も掛かりません。戸田第2代会長は、線香代としきみ代だけで済む、とも仰っています。さらに出家した僧侶でなくとも唱えられますし、王侯貴族などの一部の特権階級である必要もありません。繰り返しになりますが、唱題行は万人に開かれているのです。

外国人であっても差別はありません。アフリカの人だろうと、アメリカ人、フランス人、中国人、インド人、ブラジル人、ドイツ人、韓国人、等々、どの国も民族も分け隔てなく、同じ題目を唱えることができます。このように修行法が極めて簡単で、万人に開かれているのは、御本仏・日蓮大聖人の万人救済の慈悲の現われなのです。

題目がなかなか上がらない、持続が難しいのは、己心や外からの障魔や惰性、人からの反対に負けてしまうからです。その意味でも、学会の組織について励ましあっていくことが、重要となります。具体的には、会合への参加や、報告・連絡・相談といった連携を取ることが、持続するための生命線ともなります。

そして何より、自分自身が日々、新しく発心していくことが大切です。凡夫の小才・浅智恵で、御本尊の力を「こんなものだろう」と推し量ってしまうのが、最も恐ろしく愚かしいことです。ある意味、唱題にしても信仰実践にしても、悩みがあるからこそ、苦悩が深いからこそ、大きく挑戦していけます。順風満帆な何の悩みもないような生活であれば、なかなか実践できないものです。その意味では、今ある悩みに、感謝してもいいくらいかもしれませんね。

「病によりて道心は起こり候なり」
と御金言にある通りなのです。この「病」という文字を人によっては、「経済苦」とか「家庭不和」「仕事の悩み」などと置き換えても良いかもしれません。病や苦悩があるからこそ、仏道を求める心は起こるのです。人生を真摯【しんし】に見つめ直すチャンスになるのです。まだまだ世界にも身近にも、奥底では題目を唱えたいと思っていても、唱えられない人がたくさんいます。創価の題目を唱えさせて、これ以上ない幸福境涯を、自他共に開いていきましょう。

(平30.7.20 父親に関する記述を稿を改めて記すことにし、本記事からは削除しました)

 

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試練に遭ってこそ本物に鍛えられる(2)

●上野殿御返事p1556~

爰(ここ)に日蓮思ふやう
提婆品(だいばほん)を案ずるに
提婆は釈迦如来の昔の師なり、
昔の師は今の弟子なり・今の弟子はむかしの師なり、

古今 能所不二にして法華経の深意をあらわす、

されば悪逆の達多には慈悲の釈迦如来師となり
愚癡(ぐち)の竜女には智慧の文殊師となり
文殊・釈迦如来にも日蓮をとり(劣)奉るべからざるか、

日本国の男は提婆がごとく
女は竜女にあひに(似)たり、
逆順ともに成仏を期(ご)すべきなり
是れ提婆品の意なり。

(中略)
日蓮は刀杖の二字ともに・あひぬ、
剰(あまつさ)へ刀の難は前に申すがごとく
東条の松原と竜口(たつのくち)となり、
一度も・あう人なきなり日蓮は二度あひぬ、

杖の難には

すでにせうばう(少輔房)につら(面)をうたれしかども
第五の巻をもつてうつ、
うつ杖も第五の巻
うたるべしと云う経文も五の巻
不思議なる未来記の経文なり、

(中略)
いま・をもひ・いでたる事あり、
子を思ふ故にや
をや(親)つぎ(槻)の木の弓をもつて
学文せざりし子にをしへ(教)たり、
然る間・此の子うたてかりしは
父・にく(憎)かりしは・つぎ(槻)の木の弓、

されども終には修学増進して

自身得脱をきわめ・又人を利益する身となり、
立ち還つて見れば
つぎの木をもつて我をうち(打)し故なり、
此の子そとば(率塔婆)に此の木をつくり
父の供養のためにたて(立)てむけりと見へたり、

日蓮も又かくの如くあるべきか、

日蓮仏果をえむ(得)に争(いかで)か
せうばう(少輔房)が恩をすつべきや、
何に況や法華経の御恩の杖をや、
かくの如く思ひつづけ候へば感涙をさへがたし。

 

法華経では、破和合僧の大罪を犯し生きながら地獄に堕ちた提婆達多は、過去世において釈尊の師匠であったことを明かされています。三世にわたる生命の深い次元から見ると、今世は悪逆の弟子であっても、ある時は師匠と弟子の立場が入れ替わり、師と弟子が不二の姿で、法華経の深意を顕すのであると大聖人は仰せです。順縁も逆縁も成仏させる絶大な力が、創価の御本尊に厳然と具わるのです。

次に平左衛門尉の一の家来だった少輔房に、大聖人が第五の巻で頬(ほお)を散々に打たれた杖の難に言及されます。そして、学問成って多くの人に貢献できる身となった者が、自分を厳しく教え導いてくれた父が用いた鞭(むち)の木を、父の墓前に供養した例を挙げています。

さらに大聖人は「少輔房の恩を捨ててはならない」「まして法華経の恩はなおさらである」と仰せになります。「少輔房の恩」とまで表現されていることに、余りにも深いお心が拝せます。凡夫であるから難に直面した時に、恨みや臆病などの心が起こるのはある意味自然なことかもしれない。しかし、いかなる難があろうと退転だけはしてはならない。

難があるからこそ、成仏への道を前進できる。困難に揺るがぬ強い自己を築くことができるのです。難との戦いは己心に仏界を開くために必然の道程なのです。後で乗り越えてみれば、「あの難あればこそ今の自分がある。幸福への直道を歩むことができた」と歓喜とともに振り返ることができます。

信念は試練に遭ってこそ、本物に鍛えられます。いわんや最高の信念である真の信仰に、諸難が起こるのは当然なのです。所願満足の絶対的幸福の境涯を開くための今の試練と確信して、雄々しく立ち向かっていきます。長文を最後まで読んで頂き有難うございました。

 

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試練に遭ってこそ本物に鍛えられる(1)

今日は、大聖人が受けた「刀杖の難」について述べられた御書2編を拝します。

●種種御振舞御書p912

平左衛門尉が一の郎従
少輔房(しょうぼう)と申す者はしりよりて
日蓮が懐中せる法華経の第五の巻を取り出して
おもて(面)を三度さい(呵嘖)なみて
さんざんとうちちらす、

又 九巻の法華経を兵者(つわもの)ども
打ちちらしてあるいは足にふみ
あるいは身にまとひ
あるいはいたじき(板敷)・たたみ(畳)等
家の二三間にちらさぬ所もなし、

日蓮・大高声を放ちて申す
あらをもしろや平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、
とのばら(殿原)但今 日本国の柱をたをすと
よばはりしかば
上下万人あわてて見えし、

日蓮こそ御勘気をかほれば
をく(臆)して見ゆべかりしに
さはなくして
これはひが(僻)ことなりとや・をもひけん

 

●上野殿御返事p1555~

さてもさても・わす(忘)れざる事は
せうばう(少輔房)が法華経の第五の巻を取りて
日蓮がつら(面)をうちし事は
三毒よりをこる処のちやうちやく(打擲)なり。

天竺に嫉妬の女人あり
男をにくむ故に
家内(やうち)の物をことごとく打ちやぶり、
其の上にあまりの腹立にや
すがた(姿)けしき(気色)かわり
眼は日月の光のごとくかがや(輝)き
くち(口)は炎をは(吐)くがごとし

すがた(姿)は青鬼赤鬼のごとくにて
年来(としごろ)・男のよみ奉る
法華経の第五の巻をとり
両の足にてさむざむ(散散)にふみける、

其の後命つきて地獄にをつ
両の足ばかり地獄にいらず
獄卒鉄杖をもつて・う(打)てどもいらず、
是は法華経をふみし逆縁の功徳による、

いま日蓮をにく(悪)む故に
せうぼう(少輔房)が第五の巻を取りて
予がをもて(面)をう(打)つ
是も逆縁となるべきか、

この2編の御書を通して大聖人は、夫への嫉妬に狂って法華経第五の巻を足で踏み・破り散らした女と、大聖人のお顔を第五の巻で何度も打った少輔房の2人を対比させて、深甚の義をご指南されます。2人とも最後は地獄に堕ちるのですが、法華経を破り散らした女の足だけは、獄卒が鉄の棒でどれだけ打ち据えても、地獄に入れることができなかったのです。それは「逆縁の功徳」によるのであると大聖人は仰せです。
(続きます)

 

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生涯青春でつかんだ任用合格の栄冠

17日に実施された任用試験の合否結果が発表され、わが地区では2名の方が合格されました。私が担当した85歳の壮年の方は未だ入会半年ほどです。同年輩の副支部長さんの後押しもあり、受験を決意され、親子ほどの年の開きのある私が合格責任者となりました。

2カ月以上前から学習を開始したのですが、今までの人生で見たことも聞いたこともなかった教学用語や法理に、悪戦苦闘されていました。加えて、持病や加齢から来る歩行困難、視力の低下などから、受験の棄権も考えるほど弱気になることもありました。担当する自分にも父親が亡くなる事態が起こりましたが、万難を排して学習会だけは継続していきました。

最後まであきらめることなく、合計10回(20時間以上)の勉強会をやり遂げ、地区の皆さんの祈りもあり、当日をベスト・コンディションで迎えることができ、合格の栄冠を勝ち取られたのです。後で聞くと、深夜まで自己研鑽に励んだことが、度々だったそうです。

創価の仏法を実践し学ぼうと85歳にして決意されたこと。自分のような若輩からも謙虚に学ぼうとされる姿を通して、自分も同じ年齢まで生きることができたならあのように生きたいとの、「生涯青春」の模範を見せてもらいました。今まで何度も何度も教学試験を担当してきましたが、ほとんどが自分より若い人でした。今回、一気に年輩の方を担当し、いろいろな意味で非常に良い経験となりました。先生と学会に、そして担当させて頂いたその方に深く感謝申し上げます。

(平30.6.26 加筆・修正しました)

 

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新しい御書

御書を新しく購入しました。3冊目となります。1枚目はその写真です。左から新しい御書、使い込んだ古い御書、最初の給料で父に買った御書です。今回買った御書は、「創価学会版」と刻印されています。何年も前から新しいのが欲しかったのですが、なかなか買うことが出来ないでいました。さて、右の2冊はほぼ同時期に購入しましたが、一番右のものはなぜ新しい状態なのか。それは父へ感謝の意を込めて、就職して初めての給料で贈ったのですが、三十数年間ずっと手付かずのままだったからなのです。

何度か父に教学試験を受けるよう勧めましたが、認知症を患い無理となりました。しかし晩年は、私が会合で聞いた話や教学的な話しも、分からないながらもずっと聞いてくれていました。何度かこの御書を手に取って読もうと努力した姿もありましたし、大白の座談会御書を拡大コピーしたものを、声に出して拝読したことも何度もありました。題目は毎日5分位でしたが唱えており、亡くなった日もゆっくりとでしたが、しっかり題目を唱えていました。下の2枚目の写真は、私が最も使い込んだ御書を、大きく写したものです。

とくに皮の表紙がボロボロになり破れもあったので、テープで何度も補修したのですが、この御書はもう限界のようです。御書を初めて買った時、「一冊買えば一生使えるよ」と先輩に言われたのを思い出します。こうして53歳にして、ボロボロになるほど使い込んだからこそ、いささかでも確信もって信心に取り組めるようになったと感慨深いです。ここで御書の一節を拝しましょう。

末法には法華経の行者必ず出来すべし、
但し大難来りなば強盛の信心弥弥(いよいよ)悦びをなすべし、
火に薪(たきぎ)をくわ(加)へんに
さか(盛)んなる事なかるべしや、
大海へ衆流(しゅうる)入る
されども大海は河の水を返(かえ)す事ありや
(椎地四郎殿御書p.1448)

大聖人は大難が来たら「喜びなさい」と仰せです。ここにこそ、信心の極意があるのではないでしょうか。境涯を開くチャンス、宿命転換のチャンスなのですから。今日よりは、新しい御書とともに初心に返ったつもりで、喜び勇んで戦いを進めていきます!

 

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