仏の十号(2)

仏の十号の続きです。

信力と行力を!

一、戸田先生は、おっしゃった。
「創価学会は、その大法を末法の民衆に教え、流布するために、御本仏のお使いとして出現し、菩薩道を行じている。それもまた、『我常在此。娑婆世界。説法教化。』の一分の姿ではないか。してみると、学会の存在は、それ自体、創価学会仏ともいうべきものであり、諸仏の集まりといえよう」

なかんずく、事実の上で、最もはつらつと偉大な生命力を輝かせておられるのが、世界一の婦人部であると、私は申し上げたい。ともあれ、宇宙と社会と人間を貫く大法を、私たちは持ち、実践している。これほど尊貴な生命の位【くらい】はない。いかなる邪悪にも負けない、智慧と勇気と忍耐の力がある。限りない、対話と友情と信頼の光がある。ここにこそ、平和と文化と教育の大道が開かれる。正義と真実と勝利の歴史が刻まれていく。

この創価学会とともに生きゆく皆さま方が、幸福にならないわけがない。断じて、負けるわけなどない。反対に、この学会に敵対し、学会員を悩ませ、苦しめた輩が、「若【も】し悩乱せん者は頭七分に破【わ】れん」という、あまりにも厳しい仏罰を受けていることは、皆さま方が、よくご存じの通りである。

一、日寛上人は「観心本尊抄文段」に仰せである。
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身・即【すなわ】ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」 「唯【ただ】仏力・法力を仰ぎ、応【まさ】に信力・行力を励むべし。一生空しく過して万劫悔【ばんこう・く】ゆることなかれ」 私たちは、真剣なる信力と行力で、偉大なる仏力と法力を湧き出しながら、朗らかに悔いなく、勝ちに勝っていきたい。

(H17年6月14日付聖教、「本部幹部会での名誉会長のスピーチ」から)

■御書p.1044「法蓮抄」から


是【こ】れ程に貴き教主釈尊を
一時二時ならず一日二日ならず一劫【いっこう】が間
掌【たなごころ】を合せ両眼を仏の御顔にあて
頭を低【たれ】て他事【たじ】を捨て
頭の火を消さんと欲するが如【ごと】く
渇して水ををもひ飢えて食を思うがごとく
間【ひま】無く供養し奉る功徳よりも

戯論【けろん】に一言
継母の継子をほむるが如く
心ざしなくとも末代の法華経の行者を
讃【ほ】め供養せん功徳は

彼の三業相応の信心にて一劫が間
生身の仏を供養し奉るには
百千万億倍すぐべしと説き給いて候、
これを妙楽大師は
福過十号とは書れて候なり、

十号と申すは仏の十の御名【みな】なり
十号を供養せんよりも
末代の法華経の行者を供養せん功徳は
勝るとかかれたり

 

【ひと言感想】
生きて目の前にいる仏を供養するよりも、あらゆる困難を乗り越えて妙法を唱え広める人を供養する功徳の方が、はるかに勝れていると仰せです。仏教の正統中の正統を継承し、真剣に実践する創価学会員を、守り讃える人の功徳はかくも絶大なのですね。仏の十号の福徳を具えた創価学会仏の一員としての誇りも高く前進します!

 


仏の十号(1)

「仏」とは何なのでしょうか。死んだ人が仏なのでしょうか。それとも、世間から遊離し、悟りすました存在が仏でしょうか。

それは違います。仏とは、どんな困難も乗り越えていく最高の勇気、最高の智慧、最も強い生命力のことです。そして他者を慈しみ、不幸な人を放ってはおかない、苦しみを除き楽しみを与えゆく、慈愛あふれる生命です。本来、この仏の生命は万人に具わっているのです。

仏の生命が具えるあらゆる徳を一面から捉えたものが、「仏の十号」です。では先生の指導を元に学んでみましょう。

「仏の十号」の徳

一、日蓮大聖人は、「我が門人等は福過十号疑【ふくかじゅうごううたが】い無き者なり」―――わが門下の人々が、“十号(十の尊称)をもっておられる仏を供養するよりも、はるかに勝る福徳を得ること”は、疑いない―――(御書342ページ)と仰せである。この「十号」とは、仏を讃えた十種の称号のことである。

御本尊の向かって左の御肩には、「有供養者福過十号【うくようしゃふくかじゅうごう】」(供養すること有らん者は福十号に過ぎん)と、厳然とお認【したた】めである。十号の仏に供養する福徳よりも、御本尊を持【たも】ち、広布に戦う我々が得る功徳のほうが、はるかに大きい。さらに申し上げれば、究極的には、御本尊を正しく信ずる者は、十号の功徳を具【そな】える仏界の生命を現すことができるのである。

 

名 称 ふりがな 説       明
1 如来 にょらい 十号の第1は、「如来【にょらい】」。
これは、真如、すなわち究極の真理から現れ来【きた】る者という意味である。
最高の智慧、真理を体現し、瞬間瞬間、生き生きとこれを発揮して、民衆のために尽くす。最高の価値を創造していく躍動の前進をリードする。
2 応供 おうぐ 第2は「応供【おうぐ】」。
世の尊敬や供養を受けるにふさわしい存在という意味である。自然のうちに、人々を感化、善導し、皆に功徳を受けさせることができる人格である。
3 正遍知 しょうへんち 第3は「正遍知【しょうへんち】」。
あらゆることを正しく知り、正しく判断できる智慧をもつ者である。したがって、その智慧をあまねく人々に行き渡らせていく“知性の光”となるのである。
4 明行足 みょうぎょうそく 第4は「明行足【みょうぎょうそく】」。
英知と行動をあわせ持つ。知勇兼備【ちゆうけんび】の模範の指導者といえよう。
5 善逝 ぜんぜい 第5は「善逝【ぜんぜい】」。
煩悩を乗り越えて、仏の境地に達することである。
濁った時代、混乱の社会を打ち破って、新しい時代へ、常に勝利と発展を切り開いていく。そうした原動力といえようか。
6 世間解 せけんげ 第6は「世間解【せけんげ】」。
世間の情勢、時代の動向などを知り尽くした人のことで、的確に社会をリードしゆく指導力に通じよう。
7 無上士 むじょうし 第7は「無上士【むじょうし】」。
文字通り、この上ない「最上最高の人」である。
8 調御丈夫 じょうごじょうぶ 第8は「調御丈夫【じょうごじょうぶ】」。
どんな人をも善導し、いかなる悪の働きも調伏【ちょうぶく】(=コントロール)できる力を持つ者である。それは、一切衆生を薫陶【くんとう】する、人間教育の真髄を体現した存在である。
9 天人師 てんにんし 第9は「天人師【てんにんし】」。
諸天や人々を教え導く存在である。あらゆる人々を励ましていく“精神的指導者”と考えることもできよう。
10 仏世尊 ぶっせそん 最後の第10は、「仏世尊【ぶっせそん】」である。
「仏」は、この世で最も賢く目覚めている人であり、他を目覚めさせる人である。また、あらゆる人から尊敬されるがゆえに「世尊」という。


は、これら十種の威徳をすべて持っているのである。さらにまた仏は、この世で最も強く、すべてを勝ち抜いていく勇者であるがゆえに、「世雄【せおう】」という異名もある。智慧と力と福徳を持ち、進みゆくわが創価学会員は、永遠に勝利者である。永遠に仏の生命を涌現していけるのである。

(H17年6月14日付聖教、「本部幹部会での名誉会長のスピーチ」から)

 

 


仏は衆生救済のため悪も熟知する。

●御書講義録 第17巻 p.361~ から

まず、法理の面では、天台大師の一念三千・性善性悪の法門によって示されている。すなわち一念三千の法門によれば、人間生命には善も悪もその本性としてもともと備えている。善とは広くいえば四聖であり、その極善が仏界である。悪は広くいえば六道であり、また三悪道、四悪趣を指し、極悪は地獄界である。

妙覚の仏といえども、十界互具・一念三千の当体であり、極悪の地獄界から、極善の仏界まで、すべての生命は善と悪をともに備えているとするのが法華宗の教えである。これは、善悪をそなえているのは等覚の菩薩位までに限られるとする爾前権経と根本的に違う点である。

この、すべての生命にそなわる性善、つまり元品の法性が依報の上に顕れれば、正法を守護する梵天・帝釈等の諸天善神の働きとなる。逆に、本有の性悪、すなわち元品の無明が顕れれば、法華経の行者を悩ます第六天の魔王の働きとなる。

(中略)
 一念三千・性善性悪について

性善性悪があらゆる生命に具わっていること、妙覚の仏でさえ、その例外ではないということは、一念三千・十界互具が必然的に意味するところである。性善性悪は、すべての生命に本来的にそなわる善悪の性分を指している。これに対して、行動の次元に本来の性分が顕れて、その効用を発揮することを修善修悪という。諸法実相・十界互具を説く天台家では、法性真如に善悪の性徳を具すと主張するのである。

観音玄義巻上には「問う、性徳の善悪は何ぞ断ずべからずや。答う、性の善悪は但是れ善悪の法門なり。性改むべからず、三世を歴て誰も能く毀つものなく、復【また】断壊すべからず」(大正34巻882㌻)と記されている。すなわち、性分としての善悪は、本有の存在であり、迷悟にかかわらず改変しえないものである。

ゆえに極善の仏にも性悪を具し、逆に極悪の一闡提【いっせんだい】も性善を断壊することはないのである。ただし、仏に修悪はなく、一闡提に修善はないのである。仏は性悪を具すことによって、極悪の衆生が悪をなし罪業をおかすに至った心情を理解することもでき、また、そうした衆生を救済することも可能になる。

観音玄義巻上には「仏は性悪を断ぜずと雖【いえど】も、而も能く悪に於て達す。悪に達するを以っての故に、悪に於て自在なり。故に悪の染する所とならず、修悪起こるを得ず、故に仏永く復【また】悪無し。自在を以っての故に、広く諸悪の法門を用いて衆生を化度す。終日之を用いて、終日染まらず」(大正34巻882㌻)とある。

仏は性悪があっても、悪に縛られるということはなく、それによって悪によく通達し、悪を自在に制し、それによって、衆生をよく救済することができるのである。つまり、仏は悪を用いても、悪に染まり、悪の行をすることはないのである。このような性善性悪の法理にのっとって、末法においては日蓮大聖人が、濁悪の世の衆生に具した性善を開発し顕現するために、文底下種の南無妙法蓮華経を説かれたのである。

 

【ひと言感想】
末法の三毒強盛の衆生を救うには、単なるお人好しでは無理です。悪事(謗法)を為すに至った人々の心情を理解し、根底から救済するには、仏にも三悪道の命が具わっていなければなりません。自身は悪を行わないけれども、悪をも熟知しているのが仏なのです。

法華経の生命論があまりに深いことに感動します。悪と詐(いつわ)り親しむことなく、岩盤のような無明に覆われた悪人が悔いる心を起こすまで、徹して悪を責め抜くことこそが慈悲に通ずるのです。

 

 


霜露の命の日影を待つ計りぞかし


●如説修行抄 御書504ページ

哀【あわれ】なるかな今・日本国の万人
日蓮並びに弟子・檀那等が
三類の強敵【ごうてき】に責められ
大苦に値【あ】うを見て悦んで笑ふとも
昨日は人の上・今日は身の上なれば
日蓮並びに弟子・檀那共に
霜露【そうろ】の命の日影を待つ計りぞかし、

只今・仏果に叶いて
寂光の本土に居住【きょじゅう】して自受法楽せん時、
汝等【なんじら】が
阿鼻【あび】大城の底に沈みて大苦に値【あ】わん時
我等・何計無慚【いかばかり・むざん】と思はんずらん、

汝等・何計【なんじら・いかばかり】
うらやましく思はんずらん、
一期【いちご】を過ぐる事程【こと・ほど】も無ければ
いかに強敵重なるとも
ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ

 

[通解] 哀れなことかな、今日本国のあらゆる人々が、日蓮と弟子檀那等が三類の強敵に責められ、大苦にあっている有様【ありさま】を見て、悦【よろこ】んで嘲笑【ちょうしょう】していようとも、昨日は人の上、今日はわが身の上とは世の常の習いである。

いま日蓮ならびに弟子檀那が受けているこの苦しみも、ちょうど霜や露が、朝の太陽にあって消えてしまうように、わずかの間の辛抱【しんぼう】ではないか。そしてついに仏果に叶って、寂光の本土に住んで自受法楽する時に、今度は反対に、今まで笑ってきた謗法の者が、阿鼻地獄の底に沈んで大苦にあうのである。

そのとき、われわれはその姿をどんなにかかわいそうに思うことだろう。また彼らはわれわれをどんなにかうらやましく思うことだろう。一生は束【つか】の間に過ぎてしまう。いかに三類の強敵【ごうてき】が重なろうとも、決して退転することなく、恐れる心をもつようなことがあってはならない。

[引用ここまで]

[ひと言感想]
迫害される側と迫害する側、やがてかならず正邪の決着が明白に着く時が来ます。否、断じて正義が勝たねばなりません。それでこそ、自分のみならず一切の恩ある人々を守れるからです。法のため、全民衆の安穏のため、そして自他の幸福のために、「月々日々に強」る信心で前進していきます。

 

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三災七難の根本原因とは(2)

(前稿からのつづき)
「法蓮抄」には、この立正安国論の要点を、自ら次のように示されている。
「彼の状に云く〔取詮〕此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり、禅宗・念仏宗等が法華経を失う故なり、彼の法師原が頚【くび】をきりて鎌倉ゆゐ【由比】の浜にすてずば国・正に亡ぶべし等云云」(御書1053㌻)

また「撰時抄」にいわく、「去し文永八年九月十二日申【さる】の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦【はしら】を倒すなり、只今に自界反逆難とてどしうちして他国侵逼難とて此の国の人人・他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやき【焼】はらいて彼等が頚をゆひ【由比】のはま【浜】にて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」(御書287㌻)と。

右の御文に拝されるように、日蓮大聖人御自身も、涅槃経の文によって「邪法の僧らの頸【くび】を切れ」と叫ばれたのである。しかし、これひとえに謗法の心を断ち切り、謗法の行為を殺せとの意なのである。仏の慈悲は、母の慈愛ではない。父の厳愛に譬【たと】えられる。一切衆生を慈愛するからこそ、悪に対して厳格なのである。

ゆえに、立正安国論では「それ釈迦の以前仏教はその罪を斬るといえども能忍の以後経説はすなわちその施を止む」と仰せられているのである。日寛上人は「撰時抄文段」に「『すなわちその施を止む』とは、為人悉檀【いにんしつだん】に約す。『頸を刎【は】ぬべし』とはこれ対治悉檀に約す」(文段集303㌻)と教えられている。

いま、われわれが、折伏を行じて、誤った宗教や低級な思想を完膚【かんぷ】なきまでに打ち破るのは、「頸を斬れ」とのお心に応【こた】えることになるのである。また、そうした宗教に迷わされている民衆を、正義にめざめさせて、低級宗教から離れさせているのは「施を止【とど】む」に適【かな】う行為といえよう。

●本書289ページから

さらに、いま本文で、釈尊のことを“能忍”と表現されていることにも、その意義が込められている。この現実世界は娑婆世界と呼ばれるが、裟婆とは堪忍【かんにん】の意である。苦悩におおわれ、貪瞋痴【とんじんち】三毒強盛の衆生が充満するのが娑婆世界である。それゆえに、仏の特色はなによりも「能【よ】く忍ぶ」ことにあるとされる。

したがって、この世界において正法を行じ弘める人は、邪悪な人々によって数々の暴力を加えられるが、それに堪【た】えるべきであって、謗法者だからといって、こちらから暴力や武力を振るうのではない。唯一、これに対抗し、悪の根を断ち切る方途は、人々に正邪を知らしめ、謗法者への布施を止めさせることである。これは、目的が異なるが、のちにガンジーによってイギリス植民支配権力を倒すため採用された、不買運動等による非暴力抵抗主義と底流において相通じているといえよう。

※立正安国論講義は2分冊となっており、『池田大作全集第25巻』に「立正安国論講義(上)」が、同26巻に「立正安国論講義(下)」が収められています。

 

  

 

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