新選組血風録

司馬遼太郎原作の『新選組血風録』がドラマ化され、NHK・BSで放映されたものが、地上波で毎週日曜日昼過ぎに見ることができる。

「新選組」は京の治安を護るためとは言え、余りに人を殺し過ぎその血なまぐささが、私は元々好きではなかった。
ものは試しでチャンネルを入れてみたのだが、これがなかなか良く出来ている。

単に血で血を洗う凄惨さや、蛮勇、匹夫の勇といったものを売りにせず、人間ドラマ仕立てで丹念に描いている。
己が理想と大義に殉じていった、青年群像が生き生きと描写され味わい深い。
配役も非常に良く、近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨などは特に役者に魅力があふれている。

まだ2回目までしか見れていないが、全12回完結まで楽しみに見ていきたい。

オフィシャルページ
NHKオンデマンド(第1回)

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希望祭 ~未来部文化祭の記憶

上の写真は昭和46年8月8日に地元市民会館で行われた、学会の希望祭の出演メンバーの写真です。
この中にまだ小学校に上がって間もない私がいます。
最上段の左から大人の女性を含めて5人目が私です。
肩を組んで笑っている子どもです。

実は真面目な顔をしてたのですが、撮る瞬間に隣の人がいきなり肩を組んできたので、思わず笑ってしまったのを、今でも覚えています。
しかしこれも練習に来る日も来る日も真面目に取り組んだ結果が、写真の1つの表情に結実したとしか思えません。

服装を見て分かる通り、出演メンバーはこの日、小学生向けの組体操をステージで演じました。
例えば2人が輪を作っている中を、3人目が飛び抜けていく、といった、一種のリズム体操のようなものです。
しかし数千人入る会場でのステージ上での演目は、幼心にも緊張感は大きなものでした。

練習は何十回行われたか、行なわれる度に会場を変えて練習しました。
婦人部の担当者に連れられて、毎回、歩きに歩いて練習会場に行った記憶があります。
未だ幼かったので、希望祭の練習や少年部員会にと、とにかく毎回よく歩いたのが大変でした。
移動と練習でへとへとでしたが、幼心にも充実した日々でした。

写真の左に立っている白い服を着ている婦人が、引率役であり地域の未来部担当者の方でした。
今、この方は我がブロックの、(持病などあるため)副白ゆり長として共に戦われています。
息子さんは我が地区の地区リーダーで、その奥さんも副白ゆり長です。

ずっと私は文化祭などへは、神奈川時代、北海道時代と、男子部の時にこれといってきちんと参加できなかった、と後悔の念がありました。
しかし、良く思い出してみれば、すでに小学校の低学年で、未来部版の文化祭を経験させて頂いてたのでした。

この魂への刻印が、大人になって未来部・支部責任者として10年にわたって活躍する、因となりました。
私の少年部時代の部員会などの思い出、また長じて未来部担当者になってからの活動については、また改めて書かせて頂きます。

鉄は熱いうちに打て! という通り、訓練するなら小学生でも早過ぎるということは、ないのかもしれませんね。

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迫害こそ誉れ

猶多怨嫉・況滅度後【ゆたおんしつ・きょうめつどご】 という法華経法師品第十の経文をご存知のことと思います。

釈尊在世すら「猶怨嫉多し、況や滅度の後をや」(なお・おんしつ・おおし、いわんや・めつどの・のちをや)と読み下し、釈迦が生きていた在世に比べれば比較にならない程、大きな難が末法の法華経の行者には起ってくる、との経文です。
日蓮大聖人は「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(御書p.200)と言われています。
四度の大難とは、

(1)松葉ケ谷(まつばがやつ)の法難・・・・「立正安国論」提出による国主諫暁から間もなく、念仏者数百人に草庵を襲われました。事前の婦人門下の報告によって難を逃れました。

(2)伊豆流罪・・・・いったん鎌倉の外へ難を逃れていた大聖人が、鎌倉へ帰るや幕府に捕えられ伊豆へ流罪されます。40歳の御年5月12日~42歳の2月22日までの1年9カ月にわたります。船守弥三郎などが弟子となっています。

(3)小松原の法難・・・・伊豆流罪を赦免(罪を許されること)されて鎌倉に帰られた大聖人は、翌年、病気の母を見舞いに郷里の安房方面に赴かれます。1264年43歳の御年11月11日、大聖人の一行は、天津の工藤吉隆邸へ向かう途中、地頭・東条景信の軍勢に襲撃されました。この時の戦闘で、工藤吉隆、鏡忍房等が死亡し、大聖人も額に傷を負い、左の手を折られました。

(4)竜(たつ)の口の法難・佐渡流罪・・・・他国侵逼難を憂えられた大聖人は公場対決を求めて11カ所に書状を送り、さらに良観との祈雨の戦いにも完膚なきまでに打ち砕き勝利されました。
僣聖増上慢などの画策・謀略が最高潮に達し、大聖人は、何も取り調べがないまま、夜半に鎌倉のはずれにある竜の口に連行され、平左衛門尉らにより、内々で斬首刑にされようとしました。
しかし、まさに刑が執行されようとしたその時、突然、江ノ島の方から”まり”のような大きな光りものが夜空を北西の方向へと走り、兵士たちはこれに怖じ恐れて、刑の執行は不可能となりました(竜の口の法難)。
この後間もなく、50歳の御年10月10日~53歳3月26日の実に2年半にわたって佐渡に流罪されます。
この間に、法本尊開顕の書「観心本尊抄」や、人本尊開顕の書「開目抄」などの重書中の重書をお認めになります。
阿仏房・千日尼夫妻などがこの間に弟子になります。

50歳という人生の晩年に差し掛かってからの、この大難は筆舌に尽くせぬほど、大聖人の心身を苛【さいな】んだのではと思います。
流罪した幕府から見れば、佐渡へ流罪しておけば間違いなく生きては帰れない、という事実上の死刑宣告に等しいものでした。
池田先生の「立正安国論講義」に詳しく述べられていますが、当時の佐渡島は準氷河期ともいうべき酷寒の気候でもありました。
その厳しき生活状況や住まいの模様は、「種種御振舞御書」にも詳しく書かれています。

末法の御本仏の強靭この上ない生命力・精神力あればこそ、耐え抜かれ切り抜かれた、正に不自惜身命の御一生でありました。
ただ我々末法の衆生のため、法のため、国のために正義を叫ばれ、万人が持つ仏としての無眼の可能性を、示し切って下さいました。

御本仏でさえこれ程の苦難を乗り越えて行ったのですから、牧口先生が言ったように「九牛の一毛」です。
私たち門下も多少の苦難に負けることなく、朗らかに前進していきましょう。

末尾に、今回の記事の啓発を与えてくれた「寺泊御書」の現代語訳を載せます。

勧持品第13には「仏教を知らない多くの人々が、私たちを非難し、罵【ののし】る」とある。
日蓮は、この経文に当たっている。
あなたたちは、どうして、この経文に入らないのか。
「刀や棒で打つ者がいる」とある。
日蓮はこの経文を身で読んだ。
あなたたちは、どうして、この経文を読まないのか。
「常に大衆の中にいて、私たちの過失をあげつらおうとする」とある。
「国王、大臣、婆羅門、社会の有力者に向かって」とある。
「悪口し、顔をしかめ、数数(しばしば)所を追われようとする」と。
「数数(しばしば)」とは、たびたびである。
日蓮は所を追われること幾度も、流罪は二度である。
法華経は三世の説法の儀式である。
過去の不軽品は今の勧持品であり、今の勧持品は過去の不軽品である。
今の勧持品は未来は不軽品となるであろう。
その時は、日蓮はすなわち不軽菩薩となるであろう。
(953㌻15行目~954㌻2行目)

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