創価大学(1)

昨年の5月22日に私が書いた創価大学(1)という記事を、以下に再掲します。
これから少し、学生時代の記憶を思い出して、記事を連載させてもらいます。

【以下は、昨年の記事の再掲 開始】

創価大学という大学があるのを私が知ったのは、もうかれこれ20年以上前になります。
その時私は、北海道の工業高専を卒業し、外資系大会社の正社員として勤務していました。

10年間の退転状態から復活し、真面目に読み始めた聖教新聞で、創価大学を初めて知りました。
しかし自分が創大へ行くとは、その時はまったく考えてもいませんでした。

大学くらいは出ておきたいものだと、ずっと思っていましたので、当時神奈川で1人暮らしでしたが、近くの大学をそれとなく調べたりしていました。
国立・横浜大学の経営学部の夜間へ通っている職場の先輩がいて、通学可能な距離でもありましたので、夜中から朝方にかけて車で横浜大学の敷地内を1人で見に行ったりもしました。
その先輩の自宅へ訪問したこともありましたが、数名で行ったためじっくり話しを聞けなかったこともありました。
筑波大学なども目がいったのですが、余りに遠くて無理でした。

一度、先生へ決意を書いた短冊を送りましょう、というのが当時の地元組織であった時に、 「働きながら大学を卒業します。広布の人材として力をつけます」 というような決意を書いた記憶があります。
丁度その決意をお送りした頃から、聖教新聞の先生のスピーチ等に、創価大学のことが取り上げられることが多くなった気がしました。

もう一つ、大きく動機づけられたことがありました。
それは、男子部の本部単位の活動者会などで、参加者の代表が立って一言、決意発表する時間がありました。
何人か立って決意を言うのですが、 「うむ? この人は何か他の人と違うぞ、話にキラッと輝きがあるぞ」 という人が決まって1人か2人話すのです。
しかも、その人が話しの終わりのほうで、 「創価大学を卒業しました」 と付け加えるのです。 そういうことが日を変えて会場を変えて何度も繰り返されました。
創大学生歌の3番に、

むらさきただよう武蔵の空に
沈黙(しじま)を破りて朝日は昇りゆく
学徒の姿に自覚(めざめ)て立てば
青山(せいざん)洋々(ようよう) かなたに富士が
雄々(おお)しき理想 馳(は)せたる君に
不二(ふじ)の峯(ね)真白く 染まりて嵩(たか)し
栄(は)えある路(みち)征(い)く 己(おのれ)に問うは
誰(た)がために 生命(いのち)の真(まこと)求むかな

という歌詞にある通りに、まさに学徒の姿に触発されて、目覚めよう立ち上がろう、としていたのです。
ただしその時は、こういう歌があることも知りませんでしたし、実際に創大生(通教生)となるまで、乗り越えねばならない試練が1つ2つと待ちかまえているのを、私は知りませんでした。

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ポルトガル民謡のファド

ここで、ポルトガル民謡のファドというのをお聞きください。
本当に心の琴線に触れる歌声です。

この曲、実は同じ北海道内のある同志の方から教えて頂きました。
この場を借りてその方に感謝申し上げます。

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婦人部女子部は太陽であり華である

ブログ村の創価学会カテゴリというのはご存知だと思います。
ちょうど各記事の下に付いている「創価学会」と書いてあるボタンから、飛ぶことができます。

この学会カテゴリにここ最近、婦人部・女子部のブログが増えてきました。
ほとんどが男のブログで埋まっていたのが、強盛で純粋な信心の婦・女の参加で俄然華やいできました。
イメージとしては、殺風景な部屋に花が活けられ庭にも花壇ができたような感じです。

やはり婦人部女子部のブログは生活感覚や情感が豊かで、思いやりや家族等を思う優しさにあふれており、細やかで丁寧さ真面目さが男性より強いです。
これらの長所は過去に先生も何度も指摘されていて、この婦人部女子部の力が学会をつくり前進させてきた原動力であると指導されています。
この女性たちが最もやりやすいように、心と行動を尽くす男性リーダーであって欲しいと、何度も強調されています。

振り返って見ると、この創価学会カテゴリに私が参加したのは確か4~5年ほど前だと思いますが、当時は男のブログが主体で、女性のブログはわずかな数しか無かったです。
登録ブログ合計数も2倍以上位になり、特に婦人部女子部が増えてきたのがうれしいですね。

このことを今回、私が記事にしたのは、誰も特に触れていなかったようなので、たまたま私が文章に致しました。
そもそも私にこのようなことを書くような資格があるのか、もっと適任者がいるのではないのか、或いは、「言葉だけで、レオさんには具体的に何もしてもらった覚えはないよ」などご指摘があるのを恐れずに、記事に致しましたので、失礼等ありましたらご容赦ください。

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病の意義

以下は今日付の新聞から、池田先生のご指導の抜粋です。
(抜粋した各部分は、順番が前後入れ替わっている所があります)

御聖訓には「この病は仏のお計らいだろうか。そのわけは、浄名経、涅槃経には病がある人は仏になると説かれている。病によって仏道を求める心は起こるものである」(同1480㌻)と御断言です。
病気という苦難を糧にして、自分の信心を強め、境涯を深め広げていくことができるのです。病気との闘いは、妙法に照らして、永遠の次元から見れば、すべてが幸福になり、勝利するための試練です。

病気だから、不健康なのではありません。他人や社会から決められるものでもない。
健康は、何があっても負けない自分自身の前向きな生き方の中にこそあるのです。
皆さんには偉大な使命があります。希望に燃えて、絶対に生き抜いていただきたい。
断じて健康になり、病気と闘う多くの人を励ましてもらいたい。

「生老病死」の苦しみを転じて、最高の「常楽我浄」の人生を勝ち抜いていくのです。
これが「創価」の生命です。

(中略)
大聖人は時光に仰せです。
「(信心強盛であるあなたが)もはや仏に成ることは間違いないと見えたからこそ、天魔や外道が病にさせて脅そうと、こころみているのでしょう」(同1587㌻、通解)
時光は、熱原の法難の際にも、勇敢な信心を貫き、矢面に立って同志を守り抜いてきました。
病気になることは、決して敗北などではない。
信心が弱いからでもない。
広宣流布に生き抜く中で起きた病気という苦難は、成仏を阻もうとする魔の働きである。
ゆえに、怯んではならない。
勇敢に立ち向かって、一生成仏を勝ち開いていく勇気を教えられているのです。

大病をしたお陰で、先生の病気に関するご指導を、深い感動と共に拝することができます。
もしも病気にならなかったら、先生の指導を他人事のようにしか聞けなかったでしょう。

さらに言えば、私は最初に勤めた企業が外資系大企業だったことにも表われていますが、元々、上昇志向が強く、解りやすく言えば高慢で生意気な性格が多分にありました。
もしあのまま大病もせず順調に社会で出世していたとしたら、それなりの財と名声を手に入れエリートの1人になっていたでしょう。
しかし一見、人には羨まれるような姿であっても、その内面や心を見た場合、どんな人間になっていたでしょうか。

私は若い時に病気を経験したことで、同じように病に苦しむ人の気持ちが深く分かるようになった。
そうした人々に同苦して、心から励ましていける自分になれました。
それ自体が、信心の冥益であり、福運であると思っています。

病と自分なりに四半世紀、25年間にわたって戦ってきて、この先生の言葉が心の底から
「先生、その通りです」
と感動を持って読むことができます。
病に苦しむ人に同苦し励ましていける自分になれたこと自体が、信心の冥益であり福運である、との感謝と深き信心に立つことを改めて銘記しました。
一日も早く全快し、人々へ希望の光を発していけるよう、精進してまいります。
(H28.10.21 加筆・修正しました)

 

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