瑞相御書

『瑞相御書』p.1140~という御書を最近、拝読しました。
特に私がポイントと思う部分を、以下に列挙します。

夫れ天変は衆人をおど(駭)ろかし地夭(ちよう)は諸人をうご(動)かす、仏・法華経をとかんとし給う時五瑞六瑞(ごずい・ろくずい)をげん(現)じ給う、

其(そ)の中に地動瑞と申すは大地六種に震動す

(中略)
かるがゆへに衆生の五根やぶれ(破)んとせば四方中央をどろう(駭動)べし・されば国土やぶれんと・するしるし(兆)には・まづ山くづ(崩)れ草木かれ(枯)江河つくるしるしあり、

人の眼耳等驚(きょう)そう(躁)すれば天変あり、人の心をうごかせば地動す・抑何(そもそも・いずれ)の経経にか六種動これなき一切経を仏とかせ給いしみなこれあり、

しかれども仏法華経をとかせ給はんとて六種震動ありしかば衆も・ことにおどろき弥勒(みろく)菩薩も疑い文殊(もんじゅ)師利菩薩もこたへしは諸経よりも瑞も大に久しくありしかば疑も大に決しがたかりしなり、

(中略)
問うて云く在世よりも滅後の瑞・大なる如何、答えて云く大地の動ずる事は人の六根の動くによる、

人の六根の動きの大小によつて大地の六種も高下あり、爾前の経経には一切衆生・煩悩をやぶるやう・なれども実にはやぶらず、

今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり、末代は又在世よりも悪人多多なり、かるがゆへに在世の瑞にも・すぐれて・あるべきよしを示現し給う。

(中略)
人の悦び多多なれば天に吉瑞をあらはし地に帝釈の動あり、
人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭出来す、
瞋恚(しんに)の大小に随いて天変の大小あり地夭も又かくのごとし、
今日本国・上一人より下万民にいたるまで大悪心の衆生充満せり、
此の悪心の根本は日蓮によりて起れるところなり、

より深い力ある教えが説かれる時には、その深さに応じて瑞相が起こります。
法華経迹門 →本門 →文底下種本門 とより深い法門が明かされるに従って、瑞相も未だかつて無かったほど大きな瑞相が起こります。
それら瑞相の1つが、大地が六種に震動することです。

衆生の眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が動くことにより、大地も六種に動くとご教示されています。
爾前の経経は衆生の煩悩を破るようであって、実際は克服していない。
法華経は最も根源的な煩悩である、元品の無明を破るゆえに、大きな動きがあるというのです。
それが以下の御文です。
「人の六根の動きの大小によつて大地の六種も高下あり、爾前の経経には一切衆生・煩悩をやぶるやう・なれども実にはやぶらず、今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり」

末法は五濁と言って命が濁り切っており、悪人が充満しています。
「人の悦び多多なれば天に吉瑞をあらはし地に帝釈の動あり、人の悪心盛なれば天に凶変地に凶夭出来す」
とあるように、人々が悦んで日々を暮らしているのか、逆に嘆き苦しみや、或いは悪心が燃えさかっているのか、によって自然・環境も連動して吉瑞か、逆に凶変・凶夭かが、明確に分かれてくるのです。

具体的には、凶変・凶夭とは、大早魃、大風、大水、飢饉、疫病などであり、大聖人はさらに内乱と他国より攻められる2つの大難を予言され、後にそれらは現実のものとなりました。
それらの三災七難は、法華経の行者である日蓮大聖人に対する怨嫉の一事が、それら一切の根本の原因であると仰せです。
種々の瑞相は、根本からの生命変革、生命浄化を可能にする仏法の力の証明なのです。

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冬の信心

大地はささ(指)ばはづるるとも、
虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも、
潮のみちひぬ(満ち干ぬ)事はありとも、
日は西より出づるとも、
法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず
(p1351)

妙法の実践者の祈りは必ず叶うとの「祈祷抄」の仰せです。
この御文の通りに私も再発心後、四半世紀にわたって、大小さまざまの祈りを叶えて頂き、学会と御本尊に深く感謝しています。

ところで、もし仮に信心をしていながら、1つも願いが叶わなかったら、あなたはどうしますか。
透徹した潔(いさぎよ)い実践をしていれば、願いが叶わないことなどあり得ないのですが、ここにAさんならAさんがいて、1つも願いが叶わないから信心を辞めると言い出したとします。
祈りが叶わないから退転すると言うのです。

このAさんの間違いとして考えられるのは、1つには同志誹謗が無いか、それによって功徳がせき止められていないか反省しなければなりません。
2つには、祈りが叶わないから退転するという思考に、根本的な誤りがあるのです。

それは一般的に見ても、余りにも現世利益に流され、本当の信仰心とはかけ離れてしまっています。
あるいは、これだけ○○したのだから、これとこれは叶えてほしいとのおねだり信心になる場合があります。
乞食信心とも言われているようです。
そういう人に限って、御本尊へ「ああしてくれ、こうしてくれ」の要求は大きいのですが、自身が身を粉にして広布の戦いをしていません。

学会に何かしてもらおうというのではなく、自分が学会のために何ができるか、が大事です。
その心と行動があり感謝あるところに、功徳の花が咲かない訳がないのです。

「冬の信心」と言われるように、「冬は必ず春となる」訳ですが、春まだ来ぬうちは厳しき冬が続きます。
時にはどれだけ真剣に実践しても祈っても、目に見える結果が出ないばかりか、試練が打ち続く厳寒の時もあるでしょう。
それはそれで深い深い意味があると捉えていくことが大事です。

日蓮大聖人のご一生を学べば、大難と戦い乗り越え、広布の大願に生き抜かれたご生涯でした。
「我が生きざまを見よ! 苦難に対してはかくあれ!」
との御本仏としてこれ以上ない勇気と不屈の手本を示されたのです。
さてここで、次の2つの御文を紹介します。

此(こ)の法門を申すには必ず魔出来(ま・しゅったい)すべし
魔競はずは正法と知るべからず
(p1087)

御義口伝に云く妙法蓮華経を安楽に行ぜむ事
末法に於て今日蓮等の類いの修行は
妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり。
(p750)

特に、「魔が競わなければ正法ではない」「難来るをもって安楽と意得べきなり」と仰せです。
このことを深く確信していかないと、「良いことが無いから信心を辞める」という不信の落とし穴に堕ちてしまうのです。
こういう人には、「不自惜身命」あるいは殉教の精神ということを、理解することさえ不可能です。

苦楽ともに一切が自身を成長させてくれる仏の計らいとの感謝と勇気あるところに、変毒為薬・転重軽受されて、草木萌え出ずる暖かき陽光の春が、必ずやって来るのです。

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バージョン2.0の新規開設。

WordPressを用いての初めての書き込みです。
同名のブログの第2弾ですので名づけて「夢の醸造所 2.0」です。

約半年の休眠・充電から復帰です。
2月15日頃から、ブログ本格復帰していきます。

これからどうぞ宜しくお願いします。