不可惜所領事(3)

「一生は夢の上・明日を期(ご)せず、 いかなる乞食には・なるとも、法華経にきずをつけ給うべからず」
(御書1163ページ)

<現代語訳>
一生は夢の上の出来事のようであり、明日のこともわからない。
どのような乞食になっても法華経に傷をつけてはならない。

「永遠の生命」からみれば、一生といえども、一時の夢のようにはかなく、明日、我が身がどうなるか分からないのが、凡夫の現実です。
一生における名誉や、地位、財産なども幻のよなものです。
一時の夢のような今のこの一生が、永遠に幸福に自由自在に生き抜く生命を、開くか否か、その勝負を決する”一瞬”となる。

「いかなる乞食には・なるとも、法華経にきずをつけ給うべからず」と仰せになり、大聖人は四条金吾に信心の究極の要諦を教えています。
池田先生は同書で仰ってます。
「病気であれ、経済苦であれ、置かれた境遇がどんなに苦しくとも、その境遇に負けずに信心を貫けば、法華経に対して傷をつけることにはなりません。
境遇に負けること、自分自身に負けることが、「法華経に傷をつける」ことになるのです」

世間の評判を恐れた「臆病」に負け、毀誉褒貶【きよほうへん】に惑わされ「傲慢」に陥り、なにより一番大切な「信心」を見失ってしまう。
 これらの結果として「法」を下げることに通じていく。

”法華経に傷をつけてしまった” 忘恩の背信者たちに共通するのは、信心を見失い、地位や財産に固執する姿に陥っていることです。
黒い濁りの生命ゆえに、信仰の魂をなくした、哀れな「精神の敗北者」の姿を露呈している」
それにも関わらず、そのことを恥じる心すら失っている、それが「無明」の恐ろしさです。

一般に仏教というと「無常」が強調され、移ろいゆく無常の現象にとらわれ、煩悩に責められる「小我」を捨てよと説かれます。
仏法が「大我に生きよ」と教えるのは、エゴにまみれた「小我」が苦しみの人生ももたらしているからです。

しかし、それは決して「人生を捨てよ」とか、一切の社会的立場を捨てて「仙人のように生きよ」などと説いているものでは断じてありません。
(中略)
その「大我」に立脚した生き方とは、
「小我」への執着を打ち破り、「常住不変の法」と一体の確固たる主体性と生命力で、無常の現象に紛動されず、我が生活を正しく方向づけていくことにほかならない。
したがって、「いかなる乞食には・なるとも」とは、”もう、所領などあきらめよ”という意味ではありません。
人生の断面として究極の二者択一に直面せざるをえなかった時は、常に悠然と「大我の道」、すなわち永遠不変の「信仰の道」を選び取りなさいとの仰せであります。

その方向性さえ定まっていれば、現実の社会の中で勝利を目指すべきは当然です。
「仏法は勝負」ですから、仮に世間でひとたび敗れることがあってもあるいは宿命や障魔の嵐に直面したとしても、断固として妙法を守り、師弟の道を貫き、創価学会を支え、和合僧を築く人は、その時点で、すでに生命の次元での勝利者です。

「大我」に立つことによって、一切の困難をはねかえす原動力が得られ、必ずや、人生の「最後の勝」を開いていけるのです。
たゆまざる日々の仏道修行によって、鍛え抜かれた生命こそが、いざという時に無明という強敵と戦い、悪の発動を抑える力となります。

ともあれ、人生の岐路にあって、正しき道を選び取る「揺るがぬ基準」は、「師と共に歩む」という一点が重要です。
その師弟に徹した生き方を教えるのが、日蓮大聖人の師弟の仏法です。

(つづく)

 

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不可惜所領事(2)

本抄の前半部分で、大聖人は四条金吾の信心を、これほどまでと思うくらいにお褒めになっています。
理由は2点です。
1.凡夫が悪世末法に信心を貫き、広宣流布に立ち上がることは希有【けう】なゆえ。
2.四条金吾の深き覚悟が、天魔の謀略を未然に防ぐことになったゆえ。

信心を貫くことは、三障四魔、三類の強敵が紛起【ふんき】する、至難の道であり、生命の奥底にある無明と戦うという、根本的な次元での生命変革に挑み続けることです。
その「偉大な凡夫成仏」の先駆として四条金吾が師と共に戦い抜いたがゆえの、御本仏のご照覧なのです。

そして第2に、今回のデマ事件は、まず金吾を退転させ、そのことを鎌倉中に吹聴【ふいちょう】する。そして多くの門下を動揺させ、1人残らず退転させようとの、極楽寺良観を中心とした悪人たちの画策であったのです。
第六天の魔王の働きは、それほど熾烈であり、陰湿かつ執念深いのです。

竜の口・佐渡流罪という大難の中で、大聖人は第六天の魔王に完全に勝利されました。
敗れた第六天の魔王は、今度は、弟子を退転させ、教団を破壊しようと動きます。
「大魔のつきたる者どもは一人を教訓し落としつれば、それを引っかけにして多くの人を攻め落とすなり」(1539ページ)
一人を退転させることで、多くの人を堕【お】としていく。
その意味で、付け入る魔を破り、「一人」を守ることが、広宣流布を守ることにつながるのです。

そして『希望の経典御書に学ぶ3』で先生は、次のように指導されています。
「魔は『柱』を倒そうとつけ狙う。だからこそ、『柱』は絶対に倒れてはならない。
特に『広宣流布の黄金柱』である壮年部の皆様は、大先輩の四条金吾の如く、『日蓮が道』を支え、大聖人に誉められる信仰を貫いていく使命がある」
「信心を貫いた凡夫は、胸中から湧現する仏法の智慧によって『賢人』『聖人』」としての生き方を歩み通すことができます」

(つづく)

 
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不可惜所領事(1)

「『法華経の信心を捨てる』との起請文を書け、さもなくば所領を没収する」との主君・江間氏から命令を受けるという、最大の苦境にあった四条金吾は、断じて負けませんでした。

結論を先に言えば、大聖人のご指導を実践し切って、この苦境を乗り越えた四条金吾は、主君からの信頼を取り戻し、今までの3倍の所領を賜【たまわ】るという実証を示しました。
これも「例え乞食になるようなことがあったとしても、法華経に傷をつけることはしない」との深い覚悟の信心で戦った結果でした。

3倍の所領という経済次元、生活次元での実証も確かに見事な実証ですが、それ以上に「心こそ大切なれ」との信心という「心の財」を、果敢に護り切り実証をもって宣揚した模範の姿が後世への鑑【かがみ】となったのです。


そもそも金吾にとってこの苦境は、大聖人の弟子・三位房が、鎌倉の人々が惑わされていた竜象房の邪義を粉砕した法論に同席したことがきっかけでした。
実際は、金吾は一言も発することなく、法論を見守っていただけでしたが、後日、「金吾が徒党を組んで刀を帯びて法論の場に乱入した」との虚言が流されたのです。

それを耳にした主君の江間氏が四条金吾に対して、「法華経を捨てるとの誓状を書け。さもなくば所領を没収し、家臣から追放する」と命じたのです。
所領没収は、武門の恥であり、生活の糧を奪われる苛酷なものでしたが、金吾は決然と信心を選び取り、大聖人に報告します。

その金吾からの書状に対し日蓮大聖人が、金吾に代わって江間氏への長文の弁明書「頼基陳状」を認められ、頼基(=金吾)を妬んだ者たちのつくり事【ごと】である、と主君の疑惑を晴らし、仏法の正義を示されます。
この陳状に添え、金吾が“決して誓約書は書かない” “法華経は捨てない”と毅然と誓ったことを、大聖人が讃えられたお手紙が、この「不可惜所領事」です。

(つづく)

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液晶テレビ

禁煙して1年半が過ぎました。
1カ月1万円とするとすでに18万円浮いたことになります。

この度、自分の努力へのご褒美として、液晶テレビ22型ORION社製 約2万円を買いました。

マイテレビとしては液晶は、PCを除くと生まれて初めて買いました。
地デジに変わったのもあって、思わず唸る位、きれいです。
これで野球等の文字表示も見やすいです。

信心根本を忘れずに、TVを見過ぎないよう注意します。  

→メーカーHP

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希望の経典 御書に学ぶ 3

「一生は夢の上・明日を期(ご)せず、
いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給うべからず」
(御書1163ページ)

という有名な御金言があります。
このお言葉を研鑽し本ブログへまとめようと思い立ってから、実はけっこう時間が過ぎています。

この御文は別名『不可惜所領事』と呼ばれ、四条金吾に与えられた御書の中に出てきます。
実は池田先生自らつい最近、大白蓮華上で講義され、書籍化もされています。
私もこの度、購入しました。
それが下記の写真です。

近日中には記事をアップする予定ですので、乞うご期待ください。

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