裸形の猛者と甲冑の猛者

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真言宗の破折について、御書および講義録から核心部分の一つを抜粋してみたい。

然れば則ち法華経と大日経と敵論の時は
大日経の理・之を奪つて法華経に付く可し、

但し大日経の得分は但(ただ)印真言計りなり、
印契(いんけい)は身業・真言は口業なり
身口のみにして意無くば印・真言有る可からず、
手口等を奪つて法華経に付けなば
手無くして印を結び口無くして真言を誦せば
虚空に印真言を誦結(じゅけつ)す可きか如何、

裸形(らぎょう)の猛者と
甲冑(かっちゅう)を帯せる猛者との譬の事、
裸形の猛者の進んで大陣を破ると
甲冑を帯せる猛者の退いて一陣をも破らざるとは
何れが勝るるや、

又猛者は法華経なり甲冑は大日経なり、
猛者無くんば甲冑何の詮か之有らん
此れは理同の義を難ずるなり、

(法華真言勝劣事p123)


裸の猛者(もさ)と甲冑(かっちゅう)を着けた猛者との譬えについていえば、裸の猛者が進んで敵陣を破るのと、甲冑を着けた猛者が敵陣を前に退いてしまうのとは、どちらが勝れているかは明白ではないか、と仰せになっている。これは、甲冑を着けているかどうかではなく、敵陣を破るかどうかが「猛者」の本質であることを指摘され、印・真言の有無が成仏の法の本質ではないことを示されているのである。

また、猛者が法華経で、甲冑が大日経だとすれば、猛者がいなければ甲冑も何の用にもたたないではないか。とも破されている。法華の法理がない大日経は、無用であることを明かされているのである。以上が、天台真言宗の立てた「理同」に対する破折にあたる。

(日蓮大聖人御書講義第3巻上p50~)

真言は印・真言があるので「甲冑を着けた兵士」であるのに対し、法華宗はそれらが無いので「裸の兵士」であるとの真言宗の邪義に対して、明確に破折された御文である。

譬喩として、甲冑の有無と、猛者が敵陣を破れるか否かが述べられている。それは敵陣を破ることが「猛者」の本質なのであって、印・真言には成仏の本質は無いとの仰せなのである。つまり真言宗の印・真言は一見立派な鎧・兜(よろい・かぶと)を身に着けているようであっても、敵陣を前に退いてしまう弱兵であれば何の役にも立たない。単なる見掛け倒しであり形式に過ぎないのである。それとは対照的に、法華経(の肝心たる南無妙法蓮華経)には猛者が敵陣を破るように、現実に人々を成仏させる無眼の力があることを意味しているのだ。

先の講義録の続きには、このことを重ねて述べている。それが以下の部分である。

(中略)
仏法の根本は成仏であるが、成仏の根本は“法”すなわち“理”を悟ることにあって、印・真言によるのではない。印や真言は既に悟った仏のあらわす力や智慧を象徴するものなのである。一切衆生の成仏得道の“法”は一念三千であり、これらは法華経のみにある。大日経には、一念三千の法理はない。したがって、いかに大日経には印・真言が説かれていると誇っても、根本の成仏の理が説かれていないのでは、全く無意味となるのである。

 

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コメント

  1. たかし より:

    「法華真言勝劣事」について書かれた書籍があるのですね。知りませんでした。
    私は今、破折力をつけたいと思っていますので、参考にさせて頂きます。
    ありがとうございます。

  2. Leo2014 より:

    たかしさん、毎日の戦いご苦労様でございます。「破折力」ですか、不幸な人を救うためお互いに、多いに磨いていきましょう。かなり古いですが、以下の資料が参考になります。


    →小冊子『日本の宗教の現状』

    • たかし より:

      ありがとうございます。
      レオさんも毎日の戦い、お疲れ様です。
      かつて地元の組織の総区男子部長の方が、「『指導力』『折伏力』『人間力』等、あらゆる力をつけていくことが大切だ。」というようなことをおっしゃっていたので、そう祈るようになりました。
      今年、教学試験もあるので頑張ります。
      参考資料、また読ませて頂きます。
      ありがとうございます。

  3. Leo2014 より:

    たかしさんご苦労様です。コメントもたくさん頂き有難うございます。気を悪くしないで聞いてもらいたいのですが、マルチ投稿(多重投稿)はご遠慮頂けませんか。多くても、一度にするコメントを、2つまでに収めて下されば助かります。

    エディタ等で1つの文章にまとめて投稿して下さればと思います。ご協力お願いします。今回頂いた個々のコメントへは、また日を改めて返信させて頂きます。