初心の功徳は小さい

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信心して間もない初心の信者・行者には、大きな功徳がハッキリと顕れます。
例えば、思いがけず重い病気が治った、病弱な体が元気になった、あるいは思っていた以上の好条件で就職できた、または長年に悩み抜いてきた問題が奇跡的に解決したなどの功徳です。

これを「初心の功徳」と呼んでいますが、初心の功徳が余りにも華々しく見事に顕れるため、初心の功徳を味わった後は、花がしぼんで朽ちていくように、あとは下り坂を歩むように功徳が少なくなっていくと(笑)、誤解している人がいます。
かく言う私も、しばらくそのように誤解していました。

しかし「初心の功徳」は戸田2代会長も言ってますが、本当の功徳から見たら小さなものです。
確かに、顕益という点ではハッキリと解りやすい功徳です。
その意義は、一生涯にわたって退転せずに、信心を貫いて行こうと決意させ、信心の初心者に仏道修行に歩み始めさせることにあります。

すなわち、 「御本尊には確かに力がある。学会指導通り実践していけば、凄い境涯になれる」 と確信させ、本格的歩みに踏み出させる、1つのきっかけとしての役目しかない訳です。

しかし本当の醍醐味、本当の功徳とは、生涯にわたって後半に行くほどさらに強盛に、不惜身命の勇気ある信心を貫く中に、本格的功徳が出てきます。
戦っているか否かは自分が良く知っています。
1年ぼうずのような初心者か、あるいは数十年以上にわたって戦い抜いてきた、歴戦の勇士かどうか、どれほどの広布の成果を勝ち取ってきたか貢献してきたか否かは、自分が一番良く知っています。

数十年以上戦い抜いて来た功労者がもし、「初心の功徳」を羨【うらや】んでいる、などということがあったとしたら、余りに奇怪なことです。
それは年数は長くても戦っていないか、感謝を忘れているか、惰性の信心に陥っているのかもしれません。

「初心の功徳」と「歴戦の勇士の功徳」との違いを知りましょう。
信心一筋に生き抜けば、あのように偉大な人生を送れるのか、と初心の人に感嘆されゆく模範の姿を示し切っていけるよう、一層の戦いを私も起こしていきます。

※以上の記事は、鯖さんの掲示板に私が書いたコメントをまとめ直したものです。
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