創価村は酷く荒んでしまった

ブログ村サービスの幾つかのカテゴリに本ブログを登録している。その中の創価学会村カテゴリ(略して創価村)は、ここ最近酷く荒【すさ】んでしまったとの感慨を持っているのは、私だけではないと思う。とても胸を張って紹介できるものではない。とてもではないが、今の「創価村」にはリンクしたり誘導したいとは思えない。

「ダメ出し」「金を払って、聖教新聞をとらされている。云云」「フーテン」「半覚醒」「元バリ活の自分が・・云云」「創価学会を卒業します」「遊女」「正林寺」「ニセ本尊から解放」

「名は体をあらわす」というがざっと並べて見ただけでも、あるはあるは。名前や紹介文を見ただけでも「お里が知れる」というものである。その正体は、退転者や反逆者、学会に籍は置いているものの、学会指導についていけず批判を繰り返す内部退転者の類である。あるいは、なぜわざわざ創価カテに登録するのか理解に苦しむものばかりである。

なぜここまで創価カテは荒んでしまったのか。それは信心が有るか無いかが登録条件になっていないからである。学会とはまったく関係ない会社が運営しているブログ村であるから、当然といえば当然なのかもしれない。要するに何でもあり、であったとしても我慢して利用するか、または、どうしてもそれが嫌なら立ち去って見ないようにするか、あるいは、周りに紛動されず如蓮華在水で行くか、のいずれかである。深き信心で健筆を揮ってくださっている方々も厳然とおられる。要は賢明に取捨選択していく信心の眼力がこちらにあるかどうかだ。

以上の理由から、創価カテのアイコンを各記事から外すようになって久しい。今の創価カテに誘導してしまえば、もし信 弱き人であれば、簡単に紛動されてしまうかもしれないからである。「これが創価学会です」と紹介するには、創価村は余りにみっともなくて、とても紹介できるものではないということもある。これにより、創価村関連のアクセス数とランキングは大きく下がったが、最善の方法だったと確信している。

五濁悪世の世の中であるから、創価カテもその縮図となるのは自然なのかもしれないが、仮にも創価学会の名を冠している場である。「三変土田」とあるように、確実に浄化されることを祈るものである。

 

↓クリックを宜しくお願いします。
にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ

にほんブログ村


“創価村は酷く荒んでしまった” への5件の返信

  1. はじめまして。
    私も創価学会ブログ村をよく見ている創価学会員です。

    私は今の創価ブログ村は、むしろ健常なのではないかと思います。なぜなら、私の所属組織は、ブログ村のような意見対立が起きまくっています。

    例えばダメ出しブログのような、大御本尊信仰にこだわる人です。
    2014年の教義改訂は、創価の邪教化だ、さらには、池田先生を無視して行ったのだと言われる方が一定数います。
    このような批判は、私はある程度の傾聴の価値があると思います。なぜなら、かつて創価学会は、大御本尊を自らの正統性の根拠として、他宗を批判しまくってきたのですから。
    それを、受持の対象から外したとなれば、旧世代の方々は怒り心頭でしょう。

    私は折伏相手にも、ブログ村を見せるようにしています。なぜなら、創価学会の世界は美しいだけではないからです。そこにはいろんなドロドロした論争があります。もちろん取るに足らぬスキャンダル的な言説も多いですが、それは本人がネットリテラシーを高めるべきだというものでしょう。

    駄文失礼しました

  2. はじめまして。元学会員のりょうです。
    信心強情な人も、退転してしまった人も、等しくブログに意見を書き込み、広めることができるのがブログ村、あるいはインターネットのよさではないでしょうか。
    みっともない、お里が知れる、等学会員らしいボキャブラリーですよね。
    信心をきちんとしてるかどうかが登録条件になってしまったら、恐ろしいですよね。私は、創価学会のこうした全体主義的な部分が嫌いで奪回しました。民主主義とは相反する思想のもと活動している団体だと思います。

  3. お二方、はじめまして。かなり返信が遅れました。まずイロニー的ソクラテスさんから。宗門との関係において時代と状況は大きく変わりました。日顕はC作戦(創価学会分離作戦)の実行の後、あろうことか唯一の和合僧団である学会を破門し、御本尊授与を停止しました。日顕宗・宗門は広宣流布の志を放棄し、世界に誇る千年の大建築である正本堂を解体し、死身弘法で広布を進める創価学会を破壊しようとしたのです。この暴挙により、実は日顕・宗門こそが、大聖人から永久に破門されてしまったのです。

    魔の巣窟【そうくつ】と化した総本山に有る大御本尊は、もはや真の信仰とかけ離れた、彼ら坊主にとって醜い欲望を満たすための道具に過ぎないのです。晴れて魂の独立を果たした学会は、自由自在に広宣流布を進めることができるようになり、その証拠に世界192カ国・地域に地涌の陣列は広がったのです。以上の事から、広布の大車軸として戸田第2代会長が昭和26年に発願した、創価学会常住の御本尊こそ、広布誓願の根本の御本尊なのです。そしてその魂は創価三代の会長の死身弘法の指揮の元、不惜の実践を貫いて来た日本は本より全世界の同志ひとり一人に流れ通っているのです。

    以上のことを納得しスッキリとした信心に立てない人は、どこか愚癡・不平があり真剣に広布に戦えていないのだと思います。それは、戦う覇気がなく、確信が揺らいでいる、つまり己心の臆病に負けているからです。眼前の戦いに真剣に挑めない、自分の弱さを糊塗(こと)するために、大御本尊云々、執行部云々、安保法云々、公明党云々、と批判をして戦わない言い訳にしているのです。創価三代に繋がっていく潔い信心があれば、学会をかく乱しようとの邪説に迷うことなど決してないのです。

  4. 次にりょうさんへ。民主主義と師弟ということを明確に区別すべきです。民主主義とは民衆による政治の方法であって、学会の組織運営の様々な局面でもこの民主的運営が採用されています。そもそも組織運営を民主的に民主的にと変えてきたのは、特に池田先生のご努力によるものです。その上で、信心の世界は一般の政治とは異なる次元があるのは当然です。何でもかんでも合議と多数決で決めていけば、師匠から弟子への指導に反する事態も出てくるでしょう。弟子の合議ですから、師匠のその指導には従えません、といった師敵対にも陥りかねません。

    日常の運営は民主的に進めた方が皆の納得も得られやすく、スムーズに進むことも多いでしょう。しかし信仰の根幹に関わることは、師匠の指導を仰ぐべきです。もし民主的方法で全てが済むなら、極論すれば、御書も学会指導も必要が無くなるということになってしまいます。

    脱会者が意見を言うことを妨げるつもりはありませんし、そうした権限などもありません。一度、信心から退転したということは、学会の批判はできても、正視眼で捉えた意見を言うのは最早 無理ではないでしょうか。真剣な求道心も真剣な実践も無いのですから、当然と言えば当然です。学会を辞めたと言って、未だに創価村で批判を書き連ねるというのは、未練がましい姿ではないでしょうか。そうは言っても、御本尊をお返ししても、学会から脱会しても、その人の己心にある仏界から逃げることはできません。結局は、毒鼓の縁で、最終的に再び創価の御本尊に巡り会って、幸福になるしかないのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA