冥益について

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大干ばつが続いたことにより鎌倉幕府は、祈雨の命令を良観にくだしました。
仏法の正邪を決する良いチャンスと捉えられた日蓮大聖人は、良観に祈雨の勝負を挑まれます。

良観は数百人の弟子たちと雨を祈りましたが、期限の7日が経ってもいっこうに降る気配もありません。
あろうことか良観はさらに7日間の延長を申し入れて来ましたが、鎌倉には暴風が吹き荒れ、雨は一滴も降ることなく、折からの干ばつに苦しんで来た民衆の嘆きは増すばかりだったのです。

この時に大聖人が良観に送った書状に、以下の有名な御文があります。
一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんや
やす(易)き雨をだに・ふらし給はず況やかた(難)き往生成仏をや、
(御書1158ページ)

一丈(=約3メートル)の堀を越えられない者が、どうしてその二倍、或いは三倍の堀を超えらようか、決して超えられるはずがない、との仰せです。
すなわち容易な雨(=一丈の堀)をすら降らすことができない者が、はるかに困難な成仏を叶えることができるはずがない、との烈々たる獅子吼なのです。

これは大聖人と良観との祈雨だけに当てはまるのではないと、私は思います。
私どもの信心においても、人生・生活上の目前の課題こそ、仏法の実証を示す最高のチャンスです。
ある意味、どれだけ高尚な教義を説いたとしても、或いは素晴らしい成仏の境涯が待っていると言っても、成仏からははるかにたやすく小さな、目の前の1つの課題を解決することすらできないような非力なものであったとしたら、それはまやかしだと言うことができます。

もちろん顕益より冥益が本来の信心の功徳であり、また現世利益だけを追い求めた場合、信仰の骨髄ともいうべき大事を見失ってしまう恐れもあります。
しかし一方で、創価とは「価値創造」の略であり、いわば価値=功徳を人生に現わすとともに、御本尊の功徳を讃歎しゆく一大民衆運動が広宣流布運動と言うことができます。

要は信心と生活の上で真剣な実践と努力があるところ、百発百中で祈りが叶う力が創価の御本尊には厳然と具わるのは間違いありません。
どんどん小さな願い(もちろん成仏の境涯から見たら小さいの意味ですよ)を叶えていきましょう。

よく聞かれると思いますが、池田先生は会員の方から「これだけ幸せになりました」という勝利の報告を聞かれるのが、一番喜んでくださるのです。

ところで、野球は9回裏まで勝敗は分からないとよく言われます。
これは、1塁にランナーが出たら2塁へ送るといったプレーや、極力ミスを排した好守の積み重ねなのです。
つまり1点にこだわる小さな小さなプレーの積み重ねあってこその、9回裏での逆転があり得ます。

序・中盤での、1点や2点はどうでもよいとの雑なプレーがあれば、終盤での挽回は到底不可能になってしまうのです。
つまり我々の信仰で言えば、目の前の信心即生活の課題に、こだわり抜いて、1つ1つ勝利していくことが、人生最終章での所願満足の勝利にも繋がります。
創価学会80余年の歴史そのものが、その民衆勝利の一大絵巻とも言えます。

これを機会に、改めて私も、先生そして恩を頂いた皆さんに、勝利の報告をまた1つしていけるようベストを尽くしていきます。

 

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