コンドルは飛んで行く 他

いつも堅い話ばかりでは、肩が凝りますね。ここで、ここしばらくの間、取り溜めていた音楽をお聞きください。

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あまり動画を多く貼り付けすぎると、見づらいですし読み込みが重くもなりますから、何曲かはテキスト・リンクにいたします。

→ピアノソナタ 月光を弾くシーン – 映画『不滅の恋/ベートーヴェン』

→Story – AI

→明日に架ける橋 – サイモン&ガーファンクル

→シャコンヌ - J.S.Bach

 

 

(H28.1.12修正 – 1曲「月光を弾くシーン」を追加)

 

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乞眼の婆羅門(2)

その前提の上で、「怒りは善悪に通じる」と ある通り、悪に対して見て見ぬふりをし何も言えない「お人よし」であってはいけません。勇気を出して悪を責め、糺【ただ】していくべきです。ですから「乞 眼の婆羅門」に対して、その卑劣な心を責め、注意すべきなのは当然です。相手は魔王が入其身【にゅうごしん】していますので、素直に聞いて反省することは ないでしょう。悪びれずに悪態をついてくるかもしれませんが、その悪心を糾弾するだけでなく、法を説いて諭【さと】すことさえ可能かもしれません。

さらに大事なことは「これは魔王の謀【たばか】りではないのか! 決して負けてはならぬ!」という、魔を魔と見抜く透徹した信心の眼を持つことです。常に油断と慢心を排し、信心を研ぎ澄ませていないと、魔を見抜くことはできません。強盛な信力はもちろん、魔を見破り乗り越えるための行力、そして教学力も必要でしょう。

もう一点は、「乞眼の婆羅門の責め」のようないざという「まことの時」に、負けないで乗り越えられる信心を培うためには、何もない普段にどれだけ信心の戦いができるかが大事です。常日ごろの愚直なまでの積み重ねが、いざという時に自分を守る結果として現れ、試練を乗り越える原動力となるのです。

最後に挙げたいのは、どこまでも師を求める心が、自分の信心を正道から踏み外させない防波堤となるのです。「乞眼の婆羅門の責め」に匹敵するようなことが自分の身に起きた時に、弱き自分の心に随ってしまえば、信心を貫くことは不可能です。こういう同じことに遭遇したら、「師匠であればどうされるだろうか」ということを、常に追究していく姿勢が大事です。

 

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乞眼の婆羅門(1)

舎利弗が過去世で菩薩の修行をしていた時、婆羅門【バラモン】に眼が欲しいと乞【こ】われ、眼を差し出します。それを受け取った婆羅門は、「臭い! こんなものはこうしてやる!」と言ってツバを吐き掛け路上に投げ捨てたのです。

これに激怒した過去世の舎利弗は、「何という救いがたい人間だ」といって、菩薩の修行から退転してしまいます。せっかくそれまで長い期間積み重ねた努力も功徳も、水の泡となってしまったのです。

実は、「このまま見過ごしてしまったら成仏してしまう」と思っ第六天の魔王が、婆羅門の姿を借りて、舎利弗を退転させようとしたのでした。まんまと魔王の企みに騙された舎利弗は、せっかくの仏になれるチャンスを逃してしまうことになりました。

以上が「乞眼の婆羅門」の説話のあらましです。この話は一見、私たちとはかけ離れた、遠い世界のことのように思われますが、実は信心の途上で似たようなことに遭遇することがあります。「自分はこんなに努力しているのに、なぜ分かってくれないんだ!」 或いは、「こんなに頑張っているのに、なぜ報われないんだろう」 と思う時がありませんか。

そういう時は次元の差こそあれ、ある意味で、舎利弗が婆羅門に対して眼を差し出したのと同じと言えないでしょうか。不遇や不満を嘆いて、もし信心から退転してしまえば、乞眼の婆羅門の責めに堪【た】えられなかった舎利弗と同じになってしまうのです。

では一体どうすればよいのでしょう。舎利弗は乞眼の婆羅門の責めに対して、信心でどう捉え、どう行動するのが正しかったのでしょうか。自分なりにこのことについて考察してみます。

いかなる仕打ちを受けようとも、舎利弗は激怒した余り信心を見失ってはならなかったのです。婆羅門が自分の眼を道に捨てたのを見た時に、「これで過去からの重い1つの宿業が、また切ることができた。何と有難いことか」と、御本尊に感謝し、一段と深い決意と実践に踏み出していくべきだったのです。どこまでも忍辱の鎧【よろい】を着て、難を乗り越えていくのが正しい信心だからです。

ただし、我々末法の凡夫には、それは余りにも困難な選択かもしれません。であるなら、そういう場面に遭遇したなら、許されるならすぐに帰宅するなりして、御本尊の前に行き、心ゆくまで題目を上げるのです。そして徹して学会活動をするのです。「自分を苛めてくるような人、困らせてくる人にこそ、その人のため題目を送りなさい」(趣意)と先生は仰っています。そうすれば落ち着いて自分を見つめ直すことができます。怒りに我を忘れて、信心を退転してしまう自己の愚かさを、克明に悟ることができるからです。

 

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10時間唱題(3)

今日は池田先生の米寿(=88歳)のお誕生日です。おめでとうございます。毎年この日は、自分として恒例の、10時間唱題を2日間がかりで行なっています。今日は7時間できましたので、明日3時間行なって合計10時間達成となります。

人間として受けている様々な恩の中で、「師匠の恩」は根本かつ最も重要な恩です。「師の恩に自分らしく恩返ししていける1年にしよう」との一念で1日目取り組みました。これだけの時間を上げると、自分の広布の目標、仕事や生活の目標、世界・日本のこと、あれもこれも一通りじっくり祈ることができていいですね。ここで、題目の重要性をご指南された御書を拝読しましょう。

南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事
尤(もっと)も大切なり、
信心の厚薄によるべきなり
仏法の根本は信を以(もっ)て源とす
(日女御前御返事p.1244)

所詮・妙法蓮華経の五字をば
当時の人人は名と計(ばか)りと思へり、
さにては候はず体なり
体とは心にて候、
(中略)
妙法蓮華経と申すは文にあらず義にあらず
一経の心なりと釈せられて候、

されば題目をはなれて
法華経の心を尋ぬる者は
猿(さる)をはなれて肝(きも)をたづねし
はかなき亀なり、

山林をすてて
菓を大海の辺(ほとり)にもとめし
猿猴(えんこう)なり、
はかなしはかなし。
(曾谷入道殿御返事p.1059)

題目は妙法の体であり心であるとの仰せです。ゆえに題目を離れて法華経の心を尋ねる者は、自分が得ようとしているものを、全く見当違いの場所や対象に求めるのと同じである。どれだけ苦労して求めても、得られる道理がなく、ただの徒労【とろう】に終わってしまうのである。創価の御本尊を信じて唱える題目こそ、遠回りのように見えて実は最も近道なのであり、所願満足の人生を生ききる直道なのである。

時間が許す方は、約5年前に書いた次の記事もお読みください。パスワードは創立100周年の西暦年数字4桁のみ入力してください。

→万人に開かれた仏法

今年も戦います!! 皆さま今年も、ご指導ご鞭撻宜しくお願いします。

(平成28.1.3追伸)
たった今、二日目3時間完遂し、10時間達成しました。
今年も最高のスタートがきれました。

(平成28.1.4加筆・修正しました)

 

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