教学と実践

教学と実践について、人間革命に次のようなご指導があります。

「幹部として心得るべきことがあります。信心といっても、勤行と折伏の実践がないところに信心はありません。
口は調法【ちょうほう】です。

いかにも教学に精通して、教学を重んじているような顔をしていても、自分が受持した御本尊様さえ念頭になく、行の実践を欠いていては、もう、これは日蓮大聖人の仏法ではない。
そうした幹部は会員を惑わせるだけです。

こうなると、いつか驕慢【きょうまん】に、先輩や学会さえも批判するようになり、いかにも、それが広布のためであるかのような言説さえ弄【ろう】して、結局は大聖人様の怨敵となっていくことに気づかない。

信心の基本を忘却した幹部ほど、哀れなものはありません。
気づいたときには、自分がとんでもないところへ来てしまっていることを知るでありましょう。

私(戸田城聖)もながい信心です。
多くの同志のなかには、このような幹部も一人ならずおりました。
見かけは有能にみえても、信心の基本を欠いたら、信心は即座に崩れ去るのです。
よくよく心得て、思いきり活躍してください」

(『平和の新世紀へ』p118 聖教新聞社刊)

このご指導は、私の後輩で教学試験を見てあげたこともある、いま男子部圏幹部をしている人から教えてもらいました。
まことに厳しい指導であります。

教学を鼻にかけて得々と人前では話したとしても、自分を良く見せるために、或いは堕落した怯懦【きょうだ】な自分を自己弁護するために、仏法を利用する者は、人を惑わせるだけの存在であり、厳しく警戒せよとの仰せです。
信心の基本を欠いた教学は無用であるばかりか、害を為すとのご指摘です。

教学とは少し話が離れますが、以前、会合で、次のような質問をしていた人がいました。
「なぜ五老僧は日興上人に敵対したのですか」
との質問でした。

このことは様々な角度から言うことができると思いますが、「自分より若い人への嫉妬」であったということが、1つ挙げられるでしょう。
または、「自分の方が信心が長いし、自分の方がよっぽど戦って来ている」との、独りよがりの自惚れ【うぬぼれ】でもありましょう。

戸田先生は「男の嫉妬は本当にたちが悪い」(趣意)とも仰っていますが、広宣流布や信心よりも自己の傲慢を優先させ、負けてしまった姿と言えます。

「あいつの風下【かざしも】ではやりたくない」「あの人の下では戦いたくない」といった命は、私にもあります。
そういう時こそ、強盛な信心を奮い起こして、お題目を心ゆくまであげて、自己の我儘【わがまま】や弱さと戦うべきです。
役職等の上下はあくまで広宣流布のための方便(=手段)であるとの、認識も持ちながら、桜梅桃李の自分らしい花を咲かせることが大事です。

五老僧がことごとく師敵対し濁流と化したのに対し、日興上人は唯一、死身弘法で師弟不二の弟子の道を貫き通されました。
師の心を知り体現し切っていたこと、弘教拡大、後継の人材育成、門下を守る戦い、令法久住の戦い、国主諫暁等々、どれを取ってもお心・実績ともにこの方を置いて他にいない、との弟子の最高の模範を後世に示されました。

自らが本物の弟子の1人になれるよう成長を期すことはもちろん大事ですが、本物の1人を護り支える戦い・行動・心が、自分を護り成長させることにも通じていくのです。
常に「何のため」ということを忘れずに、小我から大我の自分へと人間革命していきます。

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