集団的自衛権への私見

まず初めに断わっておきますが、安保法制に関して甚だ不勉強なため、以下の文章はいち市民の私見として認識ください。

最初に与党の一員として公明党が安全保障にも重要な役割を果たすまでになったことを、私は胸中、素直に喜んでいます。
安全保障といえば国家にとって最も重要な課題です。
公明党は平和の党の草分けとして、今回の安保法制においても明確かつ強固な歯止めを全法律に明記させ、国の舵取りを誤ること決してなきよう最重要の仕事をしました。

一連の安保法制への要【かなめ】としての参画により、公明党は名実ともに与党の一員となったと、私は「よくやっている」と称賛を送りたいのが偽らざる心境です。

ある識者は公明党は「平和の党」という「看板」に一時的に傷がついたとしても、日本とアジアの平和を守るという「実」を選択した、優れた判断であり仕事をした、と評しました。
党利党略でどう見られるかという計算の上に口だけ無責任に平和を唱えるのでなく、民衆のために平和を現実のものとするための道を選択したのです。

それに対して野党は、さも日本が自ら戦争をできるようにするのかとの、ネガティブキャンペーンを繰り返しています。
尖閣諸島や竹島など領海をめぐる緊張や、遠く南沙諸島での中国や諸外国の動きに対して、旧態依然とした構えのみで手をこまねいていいはずがないにも関わらずです。

例えば中国の国防費は急激に膨張を続けており、近い内にアメリカにも匹敵する規模になると言われています。
具体例としては、中国はロシアから買ったものを改造して空母をすでに持っています。
これもアメリカの第7艦隊を意識し対抗したものと言われています。

どこの軍人もそうですが、シビリアンコントロールの現代では、軍部の暴走は厳格に抑制されている下で、軍事戦略上の机上の地図の上では、隙あらば日本の領土を虎視眈々と狙う計画が幾つも、かの国の軍人たちには練られているそうです。
実行可能性がどこまであるかは別として、軍人の職務の性質上、日本国民として驚かざるを得ないような、プランが多数存在するそうです。

かといって武力には武力で応じていけば、双方、軍拡競争となりエスカレートするしかない。
反対に、平和ボケした頭で、平和平和と連呼しているだけでは、いいように蹂躙される事態を招きかねない。

したがって、専守防衛を堅持しつつも、新しい時代の現状に目配りし対応させた、隙間や切れ目のない法整備が、的確かつ速やかに為されなければならないのです。

他国防衛を目的とする集団的自衛権行使は認めないようにするために、公明党が政府に強く主張した結果、次の「新3要件」が法文にすべて明記されました。

新3要件
(1)わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆【くつがえ】される明白な危険がある場合

(2)これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないとき


(3)必要最小限度の実力を行使

集団的自衛権という文言は有るものの、実質的にはそれを発動する機会は厳格に歯止めを掛けられ、現実の行使はほぼあり得ないと言えます。
しかしこうして、周辺諸国に対して、隙なく睨みを効【き】かせることで、無用な摩擦や衝突、緊張などを抑止する効果があるのです。
戦争のための安保法制ではなくて、真の意味は、戦争を未然に防ぐための今回の安保法制なのです。

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本因妙の仏法(2)

「本果妙」とは、仏が結果として得た素晴らしい姿を見せて、衆生に仏法を求める渇仰【かつごう】の心を起こさせるのである。
「あなた達も仏道修行に励むことによって、このような仏の身を得ることができるのですよ」
と、我が身で示している。

三十二相八十種好と呼ばれる色相荘厳【しきそうそうごん】の仏の姿は、現代的に言えば、あらゆる人間的魅力、人格力、財力、名声など、ありとあらゆる宝を備えた姿と言えよう。

釈尊から過去世に下種を受けていた、在世の衆生はそれで良かった。
本果妙の仏に接し、本果妙の仏法を素直に行じて、成仏することができた。
しかし末法の衆生はそうはいかない。

三毒強盛で生命が濁り切っている、すなわち根性がねじくれ返っている、末法の衆生は(もちろんかく言う私自身も含まれます)素晴らしいものを見ても素晴らしいと言えない命の衆生です。
偉大な存在も素直に偉大と捉えることができません。
色相荘厳の仏が出現しても、1人も救えない法滅の時代なのです。

そこで「本因妙」の大聖人の仏法が、赫々たる太陽のように光を放ち、全ての衆生と時代に瀰漫【びまん】する生命の闇を照らし晴らす時が今なのです。
では「本因妙」とはいったい何なのでしょう。

それは仏になる根本の因を、自らが実践することです。
自分が行ずるだけでなく、他の人々も実践していくよう、触発し勧めていくことです。
そのためには、自他の生命に具わる仏界の生命への、強盛なる「信」を、どこまでも奮い起こしていかねば、本当の「本因妙」とはならない。
視点を変えて、信仰体験からこのことを考えてみましょう。

草創から戦ってきた学会員に話を伺うと、次のような体験をよく聞きます。
「昔は折伏に行って、罵声を浴びたり、塩を撒かれたり、よくしたものです」

次のような心ない言葉を浴びせられたのも、日常茶飯だったそうです。
「あんたが幸せになったら話を聞いてやる。その時にまた出直して来い」
「あんたやあんたの子供の病気が治ったら、その仏法の話を聞こうじゃないか」
「あんたが金持ちになったら話を聞いてやるから、またその時に出直して来い」等々…。

帰りは帰りで電車賃が無く、線路沿いに学会歌を歌いながら夜通し歩いて帰宅したそうです。
(私も初めての折伏をした前後に、これらと似たような体験をしました)

こうした辱【はずかし】めにも少しも怯【ひる】まず、地涌の使命に燃えて大折伏を貫いていったのが、草創期の学会の実践だったのです。
この学会の折伏の大行進こそ、ガンジーの塩の行進やアメリカ公民権運動のバスボイコット運動、吉田松陰の草莽崛起【そうもうくっき】にも、優るとも劣らない、後世の人々が仰ぎ見る草の根の大運動なのです。

こうした「本因」を生命に刻んだ草創からの闘士が、晩年になっていよいよ福々しく年も若々しく、50人、100人という孫や家族に囲まれた、一家和楽、所願満足の実証を示しているのは、皆さんご存知の通りです。

私も「いよいよこれから」との本因妙の信心を赤々とたぎらせて前進していきます。

→本因妙の仏法(1)

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