永遠の0

永遠のゼロ(ドラマ版)を少しずつ見続けて昨夜見終えた。
非常に感動的なドラマだった。
「帝国海軍一の臆病者」と蔑まれた宮部久蔵が、なぜ神風特攻隊員に志願し死んだのか、その真相を克明に追ったドラマです。

原作者の百田尚樹氏について調べてみたが、中には批判的意見も散見されるようであるが、感動深い人間ドラマであったのは間違いない。

次に紹介する動画は、上から 1)ドラマ版予告編 2)映画版予告編 3)ドラマ版主題歌『桜ひとひら』MISIA  である。

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ にほんブログ村


法主詐称(2)

まず日顕は、当時、宗内の最大派閥「妙観会」の実力者・管野慈雲と30分にわたり密談し、何らかの”条件”と引き換えに、1人目のライバル管野をまんまと籠絡【ろうらく】した。

法主候補になるには僧階が「能化【のうけ】」である必要があったが、当時の日顕は一つ下の「大僧都【だいそうず】」であった。
3人いた能化の中で、次期法主最有力と目されていたのが、早瀬日慈(現法主・日如の父親)であったのだ。

早瀬日慈は、出家してから57年、総監、教学部長、庶務部長などを歴任し、宗内の大派閥「法器会」の中心者だった。
”次は早瀬”とは宗内の大方の声で、本人もそう自認していた早瀬を追い落とすため、日顕は午前11時10分、「緊急重役会議」招集という先手を打つ。

この会議に、重役の椎名法英に加え、能化から早瀬日慈を召喚した日顕は、自らの筋書通りに大ウソを放言する。
つまり、昨年4月15日に、総本山大奥における日達法主と2人きりの場において、内々に相承を受けたというのである。

早瀬は何も言い返すことができず、能化として出席させられたことにより、この会議は法主選定会議の意味合いを持ち、「自分が法主になることを早瀬も了承した」という既成事実を、日顕は作り上げたのである。

「もしかしたら早瀬日慈さんあたりが(相承を)受けているのではないかとも思ったが、しばらく待っていても(早瀬が)何も言い出さないので、自分から言いだして登座したんだ」
日顕は後日、このように漏らしている。
こうして最大のライバル・早瀬日慈の封じ込めに、日顕は成功する。

午後7時、大客殿で日達法主の仮通夜の儀式が始まり、読経後の8時5分頃、葬儀委員長の椎名法英が次のように挨拶した。
つまり、日達法主から内々に相承を受けていたとの、阿部総監(=日顕)からの重大発表があり、それにより67世・法主に阿部総監が就任する、との宣言がなされた。
ウソと謀略によって、”ニセ法主”が誕生した瞬間である。

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ にほんブログ村


札幌へ交流

今日、札幌へ交流に行ってきました。

全行程180kmで9時間かかりました。
北区、東区、厚別区、豊平区、清田区の計6軒を訪れ、5人に依頼できました。

本当は3月1日の時点で札幌に向かったのですが、出発間もなくGスタンドでガソリンを入れ、タイヤの空気を入れてもらったのです。
すると何と、タイヤ1本がホイールとの境目で空気漏れし、空気がほとんど入っていず、他の1本もバルブ部分からの空気漏れが酷いとのこと。

もしそのまま出発していれば、事故や大問題になったかもしれません。
こうして守られましたが、修理で軍資金が無くなり、この日は行くのを断念したのです。
数千円の出費だけで、大きく守られたと思えば、これこそ「転重軽受」そのものだと思います。

やっと念願叶っての今日の交流では、うち1軒はお宅に上がらせてもらい、1時間ほど種々語らいました。
お互いの近況、政治情勢、外交、安全保障、安倍首相について、イスラム国のこと、中国のこと、さらに信仰のことを質問され折伏の対話にまで発展しました。

写真は撮る余裕がありませんでしたので、ご容赦ください。

余談ですが、タイヤはあくまで応急処置とのことですので、老朽化したホイールを買い替える必要があります。
余談の余談ですが、夏タイヤもスリップサインが出かかってますので、安い中古タイヤに買い替える予定です。
3ナンバーですので、タイヤも値段が高目です。

車の維持費はある程度は仕方ないです。
頑張ってそのぶんもまた稼ぎます。

車の運転は疲れましたが、充実した有意義な一日でした。
帰宅後は、無事故の帰着とまた交流に行けたことに、御本尊に感謝の祈りを捧げました。


ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ にほんブログ村


愚癡の生命をも活かす妙法の力

 

「仏界と愚癡の関係」の記事については、ご心配をかけたようで、何人かの方にコメント等を頂きました。
多少の波はあるものの、あくまで許容範囲です。
題目は欠かさず90分を持続をしており、大丈夫ですので余り心配なさらぬようにお願いします。

「愚癡を言ってはならない」というのは創価の信仰の基本であるのは間違いないことです。
御書にも先生のご指導等にも、愚癡を戒める内容は枚挙にいとまがありません。
その上で、なお私は納得できないことがあったのです。

それほど忌み嫌われる愚癡の命がなぜ私たちの生命に、初めから具わっているのか。
マイナス面しかない愚癡なら無くしてしまえばよいのではないのか。
「冥伏」させて出て来ないようにするという、信心の力用は分りますが、跡形【あとかた】もなく消えてしまった訳ではありませんから、縁に触れて出てくるのも事実です。

そこで愚癡の命には何らかの存在意義があるはずと思ったのです。
消し去ってゼロにするべきものではないのではと考えたのです。
そこで調べてみると、何と発見することができました。
以下に先生の『御義口伝講義』の抜粋を紹介します。

 第二不断煩悩不離五欲の事
御義口伝に云く此の文は煩悩即菩提生死即涅槃を説かれたり、
法華の行者は貪欲は貪欲のまま 瞋恚(しんに)は瞋恚のまま
愚癡は愚癡のまま 普賢菩薩の行法なりと心得可きなり云云。
(785ページ御義口伝巻下)

貧欲とは欲望である。瞋恚とは怒りであるが、総じて感情に支配された境涯といえる。愚癡とは、愚かさである。
貧欲・瞋恚・愚癡ともに人間性から本来、切っても切り離せないのである。

キリスト教などの外道も、釈迦仏法も、これら貧・瞋・癡【とんじんち】が不幸の原因であり、これを断じ尽くす以外に幸福はないとした。

だが、たしかに一面は貧・瞋・癡が不幸の原因であろうが、再往考えてみると、欲望なくして、どうして、人間は、より以上成長し、よりすぐれた文化を創造しようとするのであろうか、また、瞋恚なくして不正は追求されないし、感情を抑えたところには、鬱積した暗い空気が、いつも重々しくたれこめるものである。

さらに、人間は、本来、愚かさをもっているものである。皮想的には知識を与えたとしても、知識は智慧に入る門にすぎず、表面をとりつくろったにすぎない。

貧欲は貧欲のまま、瞋恚は瞋恚のまま、愚癡は愚癡のままで、そのありのままの姿のなかに、自らの幸福を追求し、社会のために尽くしていける教えが、日蓮大聖人の仏法哲学なのである。これこそ、最も近代的な、人間性にかなった行き方というべきであろう。

「普賢菩薩の行法なり」とは、御本尊を信じ、仏法を根底としながら、その上に立って、九界に遊戯し、社会人として活躍していく、そこにありのままの人間として、何の戒律にも縛られることなく、自在の振舞いでありながら、それが、自己の人間革命、人生観の確立に通じ、さらには、社会への価値創造のため、広宣流布実現のためへの活動になっていくという姿を「普賢菩薩の行法」というのである。

普賢菩薩とは、前項で「三千十界悉く普賢なり」また「法界一法として漏るる義之れ無し故に普賢なり」とあるように、この妙法はムダはないとの意である。したがって、広宣流布のため、すべての人の一切の振舞いが、それぞれの価値と使命をもっていることを自覚すべきである。

なんと仏法は深い教えなのでしょうか。
そしてなんと無理なくありのままに、人間生命を如実知見しているのでしょうか。
もし興味を持たれた方は、『御義口伝講義』にも挑戦してみるとよいと思います。

ご投票宜しくお願いします↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 創価学会へ にほんブログ村