貧乏の鉄鎖を切る(4)

 

前号の記事「魔との戦い ~御書三編」は、実は「貧乏の鉄鎖を切る」の続編を書くための準備として掲げたのである。
抜き書きが意外と長文になってしまったので、御書のみを別記事としたことを了解願いたい。

この記事の要旨は、経済的困窮に陥る原因の一部分を、「魔がなす障害」として捉えられないかということである。
いかなる障魔もその正体を魔と見抜けば、それだけで7~8割 魔は力を失う。
あとは一歩も退かない強盛なる信心で立ち向かっていけば、魔は退散してしまうのである。

まず兄弟抄から見ていこう。
悪鬼入其身(あっきにゅうごしん)と言う法門があり、悪鬼がその人の身に入ることがある。
悪鬼とは人智を超えた超越的な働きで、人間に害をなすものを悪鬼と呼ぶ。

これとは反対に、諸天善神などの善の働きが身に入り、その人自身のみならず周りの人々や国土をも守る場合もある。

悪鬼入其身に戻って、悪鬼が智者と言われる宗教界の指導者に入った場合、その巧妙な邪説に騙された衆生は、法華経から権経へ、権経から小乗経へ、小乗経から外道へと、次第次第に低劣な教えに堕落させられていってしまう。

兄弟抄では特に、悪鬼が妻子や父母・主君といった身近な存在や、こちらが従わなければならない存在に入其身(にゅうごしん)し、法華経の行者を悩ませると仰せである。
そして摩訶止観の釈を引き、次のようにご教示されている。

信心の実践と理解が進んでいくと、三障四魔が まぎらわしく、それと気付き難い現われ方で、競い起こってくる。
決してそれらに随(したが)ってもならないし、畏れてもならない。
もし障魔に随えば、例外なくその人を地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕(お)としていく。
もし障魔を畏(おそ)れれば、正法を実践することを妨げられてしまうのである。

この釈は、日蓮が身に当る大事であるのみならず、門家の明鏡(=規範)である。
謹(つつし)んで習い伝えて未来の資糧(=信心のかて)とせよ。

ちなみに漢和辞典によると、「畏」の字は、刃物を持った人が別の人を威嚇している姿だそうだ。

ともかく「これは三障四魔だな」 と気付いた後は、随ってもならないし畏れてもならない。
ある意味、吠え付いてくる犬のようなもので、逃げれば逃げるほど勢いを増して追いかけてくるのが障魔なのだ。

もちろん、家族や上司等の場合、無用な口論や喧嘩をする必要は無い。
賢明に対処することは、当然、大事なことである。
その上で、奥底の一念は一歩も退いてはならない。
随う心や恐れる心が微塵でもあれば、魔はそれに付け込んでくる。
微動だにしない強い信心で戦えば、必ずどんな魔も退散させることができる。
反対に、最後は仏法を守る存在に変えることも可能なのである。

続いて常忍抄では、魔は法華経の行者に障害をなし、善を邪魔立てし悪事をさせようと、虎視眈々(こしたんたん)と隙を狙っているというのだ。
こうした三障四魔による障害の1つとして、経済的困窮に陥らせようとの働きである場合がある。
経済的に行き詰らせて、愚癡を起こさせ信心を破ろうとする、魔の働きである場合だ。

この場合も断じて、随ってもならないし畏れてもならないのである。
収入を断って信心を退転させようとする魔の働きと賢明に見抜いて、勇気ある信心で戦い切るとともに、経済次元においても仕事においても、真剣な工夫・努力をしていくのだ。
心が腐って意気消沈してしまうことが、一番の魔の思う壺なのだから。

3つめの松野尼御前御返事では、魔のボスである第六天の魔王であっても、こちらの信心さえ揺るがなければ、恐れて寄り付かないし、最後にはこちらに供養(=仏法守護の手助け)さえしてくると仰せである。
何と心強いお言葉であろうか。

心の財さえ強固であれば、一切の蔵の財や身の財も縦横無尽に使いこなせるとともに、広布のために望めば、物心ともにこれ以上ないという裕福な境涯に、必ずなることができるのである。

貧乏の鉄鎖を切る(1)

貧乏の鉄鎖を切る(2)

貧乏の鉄鎖を切る(3)



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魔との戦い ~御書三編

信心とは「魔との戦い」の異名であるとも言える。
ここでは、御書から三編を掲げ、次号の記事でポイントと思われることを述べたい。

されば法華経を信ずる人のをそ(恐)るべきものは
賊人・強盗・夜打ち・虎狼・師子等よりも当時の蒙古のせめよりも
法華経の行者をなや(悩)ます人人なり、

此の世界は第六天の魔王の所領なり
一切衆生は無始已来 彼の魔王の眷属なり、

六道の中に二十五有と申すろう(牢)をかまへて一切衆生を入るるのみならず
妻子と申すほだしをうち父母主君と申すあみ(網)をそら(空)にはり
貪瞋癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす、
但あくのさかな(悪の肴)のみをすすめて三悪道の大地に伏臥(ふくが)せしむ、
たまたま善の心あれば障碍(しょうげ)をなす、
(兄弟抄p.1081)

設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼 身に入つて
法華経と申す妙覚の功徳を障(ささ)へ候なり、
何に況んや其の已下の人人にをいてをや、

又第六天の魔王或は妻子の身に入つて親や夫をたぼらかし
或は国王の身に入つて法華経の行者ををどし
或は父母の身に入つて孝養の子をせむ(責)る事あり、
(兄弟抄p.1082)

此の法門を申すには必ず魔 出来すべし
魔 競はずは正法と知るべからず、

第五の巻に云く
「行解 既に勤めぬれば三障四魔 紛然として競い起る
乃至 随う可らず畏(おそ)る可らず
之に随えば将(まさ)に人をして悪道に向わしむ
之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、

此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり
謹(つつし)んで習い伝えて未来の資糧とせよ。
(兄弟抄p.1087)


法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障(ささ)うべきにて候、

十境の中の魔境此れなり
魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ事に候、
(常忍抄p.981)

我等衆生は第六天の魔王の相伝の者
地獄・餓鬼・・畜生等に押し篭(こ)められて気もつかず
朝夕 獄卒を付けて責むる程に、

兎角(とかく)して法華経に懸(かか)り付きぬれば
釈迦仏等の十方の仏の御子とせさせ給へば、
梵王・帝釈だにも恐れて寄り付かず
何(いか)に況や第六天の魔王をや、

魔王は前には主なりしかども今は敬ひ畏れて、
あ(悪)しうせば法華経十方の諸仏の御見参にあしうや入らんずらんと
恐れ畏て供養をなすなり、
何にしても六道の一切衆生をば法華経へつけじとはげむなり、
(松野尼御前御返事p.1396)



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猶多怨嫉・況滅度後

ここで御書二編を学びたいと思います。

されば此の経を聴聞し始めん日より思い定むべし
況滅度後【きょうめつどご】の大難の三類・甚【はなはだ】しかるべしと、

然【しか】るに我が弟子等の中にも兼て聴聞せしかども
大小の難来る時は今始めて驚き肝をけ(消)して信心を破りぬ、

兼て申さざりけるか経文を先として
猶多怨嫉【ゆたおんしつ】・況滅度後・況滅度後と
朝夕教へし事は是なり

予が或は所をを(追)われ或は疵【きず】を蒙【こうむ】り
或は両度の御勘気を蒙りて遠国に流罪せらるるを
見聞くとも今始めて驚くべきにあらざる物をや。
(如説修行抄 御書p.501)

猶多怨嫉・況滅度後【ゆたおんしつ・きょうめつどご】とは、法華経法師品第十にある経文です。
「猶(なお)、怨嫉多し、況(いわん)や滅度の後をや」
と読み下します。

釈尊在世に比べて末法という時は、法華経の行者が受ける怨嫉がはるかに多い、との意味です。
日頃から何度も何度も師匠から聞いてきたのに、現実に大小の難が起きてきて初めて、驚き肝【きも】を消して信心を破ってしまう、との仰せです。
「驚き肝を消して」とは、難が実際に起きて初めてその大変さに気付き、驚き慌てふためく、ということです。

諸難は、経の通りの正しい実践をしているからこそ、惹起【じゃっき】してくるのです。
ですから、その「まことの時」こそ一歩も引いてはならない。
境涯を開くことのできる、千載一遇のチャンスなのです。
大功徳・大福運が得られる最高の因を、生命に刻める大事な好機なのです。

人間に生まれることができ、仏法に巡り会い、しかも最高無上の創価の陣列に連なることができたのは、「爪上【そうじょう】の土」と言われるほど稀【まれ】なことです。
あたかも、ガンジス川に無数の砂粒がある中で、手ですくった時に爪の上に乗った僅かな砂粒のように、確率としては限りなくゼロに近い希少なことです。

しかも、経の通りに折伏を為し、難に遭うことは、千年に一度しか咲かない優曇華【うどんげ】よりも遭い難い、と大聖人は仰せです。
勇気ある潔【いさぎよ】い信心を貫いてまいりましょう。

 

過去現在の末法の法華経の行者を軽賎【きょうせん】する王臣万民
始めは事なきやうにて終【つい】にほろ【滅】びざるは候はず
(聖人御難事 御書p.1190)

二つ目の御文は、法華経の行者を軽んじ賤【いや】しめる迫害者たちの報【むく】いについて、ご教示されています。
「王臣万民」とは立場がいかなるものであろうと、権力者もそれに仕える者も、一般の人々も、法華経の行者を悪口罵詈【あっく・めり】し苛める者は、1人の例外もなく滅んでいくのです。


ポイントの第1はその滅び方です。
初めは何事も無いように見えるので、居丈高【いたけだか】に迫害を加えてくるのですが、1年、3年、7年、10年、20年・・・と時を経るごとに滅びの姿を現じていきます。

「これがあの隆盛を誇り、横暴を振るった者なのか」
と驚きとともに哀れを感じるくらい、行き詰まり切った最低の境涯に没落していくのです。
余りにも峻厳な妙法の現証に、改めてその絶大な御本尊の力を痛感させられます。

ポイントの第2は、これも仏法への無知と生命の汚れから来るのですから、どこまでも創価の正義と素晴らしさを訴えて、その真実を知らしめていく中にしか、自他ともに救いきる道はないのです。
改めて、自己の(今世に生まれてきた)使命ということを、深く強く再認識しました。

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祝・創立記念日/1000万遍達成

83回目の創立記念日おめでとうございます。
広宣流布大誓堂の完成、総本部整備と合わせ、創価学会員1人1人の胸中に、赫々たる広布大誓願の太陽が昇りました。
1人1人の生命に総本部を建立する思いで、走り抜いてきたこの1年でしたね。

「化城宝処の譬え」にもある如く、1つのゴールはまた新たな1つのスタートです。
清新な気持ちで明年に向かって前進していきましょう。

私も短期でしたが久し振りに聖教啓蒙の実りもあり、何とか創立の日に間に合わせることができました。
そして何よりもここ最近「これだけは」との思いで実践してきた、唱題1000万遍を約5年間かかって本日達成することができました。

考えてみれば仕事においても、題目をたくさん上げて臨むと、仕事がどんどん捗【はかど】ります。
高度で難しい内容の仕事でも、題目が上がってない時に比べて、スムーズに進めることができます。

そうしてできた心の余裕というか余力を、同僚への気配りやヘルプ、或は顧客などへのサービス向上のために、振り向けていける。
仕事の能率向上においても、質の向上においても、有形無形の様々の成果にも、学会活動に裏付けられた題目の力は、余りにも明確に顕われてきます。

これが唱題で涌現【ゆげん】した仏の生命力なのです。
その仏界の生命は、私たちの胸中に元々、備わるからこそ、引き出すことができます。

生活の1つ1つの局面においても同じです。
題目が上がってない時は、人間関係の悩み等に振り回されて行き詰っていたのに、題目をしっかり上げると、同じ問題でもほとんど気にならなくなります。
問題ととらえていたのが嘘のように、悠々と受け止めている自分を発見します。

戸田第2代会長は解りやすく、例えば同じ「夫婦喧嘩」でも、信心根本とした場合は「楽しい夫婦喧嘩」に変わると仰っています。
奥底の心が安心し楽しんでいるからです。

特にこの1~2年の総本部完成の戦いで、「広布の誓願」ということを先生に教えて頂きました。
同じ祈っていても、何を祈っているのか。
広宣流布をひたぶるに祈ってこそ、最も正しく、しかも最も仏力・法力が出る祈りであり、所願満足の人生となっていくのです。
さて、ここで御書を拝します。

第六天の魔王は三十二相を具足して仏身を現ず、
阿難尊者 猶【なお】 魔と仏とを弁【わきま】へず
善導法然が通力いみじしというとも天魔外道には勝れず、
其の上仏の最後の禁しめに通【つう】を本とすべからずと見えたり
(御書p.114)

魔は見分けがたいことをご教示されています。
時には一見すると、仏のような相や姿を現して、我々の前に出現してくることもある。
釈尊と一番多く行動を共にし「多聞第一」と言われた阿難であっても、仏と魔を見分けがたいほどなのです。

しかしその実体は魔王やその手下共が現じた通力(=特殊能力)に過ぎないのです。
近年の宗門問題などがその一例でした。
我々は信心の利剣で、賢く鋭く見破っていかねばなりません。

末尾になりますが、今日付の聖教にあった碑文に、先生がお認めのご指導を抜粋します。

我ら民衆が世界の立正安国を深く祈念し、
いかなる三障四魔も恐るることなく、
自他共の人間革命の勝利へ出発せる
師弟誓願の大殿堂なり。

いかなる三障四魔をも恐れない、勇気ある信心で新たな大前進を開始していきます。




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表彰して頂きました

この度、地区の皆さんを代表して「広布の誉れ賞」を頂くことができました。
創立記念日の日付となっております。

池田先生と原田会長の記名がありますので、本部からの表彰であり初めての経験です。
サイズもB4とひとサイズ大きく、これも初めてです。

青年部時代から数多くの表彰、記念品、袱紗【ふくさ】、激励の品を頂いてきました。
主なものを列記しますと、次のようになります。

「二十一世紀使命会 押印」
「福智無量 押印」 ’96年5月
「未来部育成貢献賞」 ’99年12月北海道青年部
「牙城会ビクトリー賞」 ’02年12月青年部
「威風堂々 広布誓願 押印」 ’13年10月

先生から賜った和歌はつぎの2つです。
(池田大作用箋にお認めです)

青春の
  王冠おくらむ
偉大なる
   創価の大城
 守りし王子に
(初めての本流をしたときに頂きました)


堂々と
  広布の前進
     ある陰に
おお 牙城会の
    凛々しき姿が
          合掌


こうしてみてくると、私のようないち会員にまで、節目節目でいかに先生に見守られ、讃えて頂き、励ましを頂いてきたか、ただただ驚きと感謝の念にたえません。
ここまで半生を振り返って、自分らしく金の歴史を刻んで来れたことに、歓喜の念を禁じ得ません。

この慶びを発条【ばね】に、まずは18日までの完走、下半期総仕上げから明年「世界広布新時代 開幕の年」に向け、新たなる出発をしていきます。
真の意味で、先生に喜んで頂ける戦いができる自分へ、一歩も二歩も成長していきます。



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