絶対的幸福

相対的幸福は永続性がなく儚【はかな】いが、絶対的幸福こそ真実の幸福境涯である。
ではどうして相対的幸福は盤石な境涯ではないのだろうか。

「○○よりも職場での役職が上がった」
「給料が課で一番になった」
「誰もがうらやむような結婚ができた」
「立派なマイホームが持てた」 etc...

「相対的幸福」とは常に他人と比較して優越していることに、幸福を感じるのである。
だがそれらは「自分の生命の外」に幸福の因を求めている。

どんなに人がうらやむものを手に入れても、常にいつそれを失うかもしれないとの不安に苛【さいな】まれたり、実際にひとたびそれらを失ったりすれば、一転して不幸の谷底へ叩き落されてしまうのである。

では「絶対的幸福」とはそれら相対的な幸福をすべて否定し去った後にしか、来ないものなのだろうか。

絶対的幸福とは牧口初代会長や戸田第2代会長は端的にこう言われている。
(無実の罪で囚われた)牢獄の中にあってさえ、絶対的幸福があるのだと。
池田先生は戸田第2代会長の指導を引いて次のように仰せです。

戸田先生は、事業が最悪の苦境に陥った時も、悠然と言われた。
「私は、かりに地獄に堕ちても平気だよ。
なぜならば、地獄の衆生を折伏して、寂光土に変えてみせるからだ。
信心とは、この確信だよ」
私は、この師子王に鍛えられました。
だから何も恐れません。

例え地獄の世界にあっても、そこを仏国土に変えゆこうとの、自身の強靭な生命と不屈の戦う心にこそ、真実の不壊の幸福境涯があるのです。
この心の財が盤石に築かれた時、すなわちいかなる困難にも負けない自分、どんな苦境も悠々と乗り越えていける自分に人間革命できれば、もはや外の環境の変化に一喜一憂することはありません。

こうなれば、外界の環境変化から内面の幸福に影響を受けるという消極的生き方から、一転して、強靭な自己の確立による外の環境への働きかけ、自己の変革から外界の変革へ、との究極の積極的生き方が可能となるのです。

こうなれば、自分がすでに得ているリソース【資源】や幸福要素も、自在に使いこなしていけます。
逆に、「絶対的幸福の自己」が確立していないと、どんなに恵まれた環境に居たとしても、幸福を感じることができないばかりか、それらの財産を使いこなしていくことはできません。

池田先生は『青春対話』で、
「人と比べてどうかではありません。
昨日の自分と比べてどうか。
一歩でも進んでいれば勝利です」
と言われています。

人と比較して一喜一憂するのでなく、自分としてどれだけ成長できたか、前進できたかを基準に満足を感じてこそ正しいのです。

もう一点、絶対的幸福には単なる自己満足ではなく、人と喜びを分かち合う、利他の精神と広宣流布のためとの目的観があると思います。
これに関しては、また次回以降に言及したいと思います。



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大慢の者は敵にしたがう

日蓮大聖人が繰り返し繰り返し仰せの御金言に、こうあります。

「心こそ大切なれ」
「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」

決して次のようには仰ってはいません。
「折伏した人数こそ大切なれ」
或いは「唱えた題目の時間こそ大切なれ」
とは言われてはいないのです。

折伏は難事中の難事であり、題目は簡単なようでいて最も難しい修行です。
しかしそれをいいことに、「俺は折伏を何世帯やったから」 或いは「私は題目を何千万遍あげたから」と言って、もし慢心を起こし、広布を阻む言動を弄【ろう】したり、ましてや学会に弓を引くような輩が出る場合があります。

それは上記の他にも、自分の役職や教学、或いは世間の地位・名声などの名聞名利に捉われた場合もあり、自分は特別な存在と思い込み、いつしか清浄な信心が解らなくなってしまった輩なのです。
御書に、
「大慢の者は敵にしたがう」
とある通りなのです。

こと信心に関しては、愚直なまでにやった者が勝ちです。
へたなプライドや己の知恵・能力などを過信し、素直に実践しない者は、長い目で見ると網の目からこぼれ落ちるように敗北していきます。

愚直とは、愚かなまでに真っ直ぐにという意であり、はたから見ると愚かしく見えるまでに素直に実践した者が、最後は勝つのです。

たくさん折伏した人は確かに、誰よりも愚直に実践し切ったからこそ、そうした成果・結果を出せ、多くの人を救うことができたはずです。
しかし、だからこそ、人々の模範となるべきであり、大慢を起こして敵にしたがうような言動はあってはならないのです。

また別の観点もあります。
一般には従順で大人しい人よりも、生意気なくらい人の方が、あいつは骨があると、一目置かれる場合も多いです。
若い時は喧嘩に明け暮れてたようなやんちゃ者が、長じて政治家などになって活躍するようなケースも見聞きします。

世間では愚直な人というと、地味であるとか、何か損なイメージがあります。

しかしこと信心に関しては、愚直なまでに戦うことが第一なのです。

かと言って、なにも愚直をひけらかし、わざと愚直に見せる必要などありません。
人間の美点の1つとしての謙虚さの現れでもあります。
はったりや大言壮語というのは、実は力が無い証拠なのです。

慢心にも偏らず、委縮するのでもなく、桜梅桃李とある如く、無作の自分に生き、最高に輝かせていくことが大切であり、それを実現し切れるのが妙法なのです。

(4月27日加筆)


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有信無解

御書のある御文を探したいのだが、どのページだったかが解らない。
ネット御書で検索するか、または要文索引で調べるのが、まず普段の方法だ。

私の場合、自作の手書きの索引を作成し続けて、もうかなりの年数が経つ。
「あれ? あの御文はどこだったかな?」
という時に非常に役に立つ。

しかし今回はこの自作索引からも漏れていて記入されてないし、他のどの方法でも探し当てられない。
昔はこういう時には、上の幹部の人に直接電話して聞いたりしたこともあった。
でももう深夜だし、これが解るまで今日は床に就けそうにない。

しばらく探して、
「仕方ない、もうあきらめようか」
と、御書や書籍等をしまおうとした時、「解 ‐げ」という字が確かあったはずだと思い当たり、要文索引に当たってみると、何と、見つけることができたのである。

余談だが、方面幹部は御書や先生のスピーチ、学会指導などを過去のすべてのデータから検索をかけられるシステムを使える、と過去に聞いたことがある。
自分の立場では、別世界の話だが、それはあくまで余談。

今日、それなり苦労して、探し当てた御文は次の通り。

有解無信(うげむしん)とて法門をば解(さと)りて信心なき者は更に成仏すべからず、

有信無解とて解(げ)はなくとも信心あるものは成仏すべし、

皆此の経の意なり私の言にはあらず
されば二の巻には「信を以て入ることを得・己が智分に非ず」とて
智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり
己が智慧にて仏にならずと説き給へり、

舎利弗だにも智慧にては仏にならず、
況や我等衆生少分の法門を心得たりとも信心なくば仏にならんことおぼつかなし
(御書p.1443)

学会書籍等を読むことも大事であるが、それらは決して主ではない。
折伏の行動、広布の行動をしないで、いくら本ばかり読んでいても、教学を研鑽だけしていても、大聖人からのお叱りを受けること必至である。
単なる物知りを作るのが仏法の目的でないのは言うまでもない。

法門の理解よりも何よりも、信心であり実践が仏法の魂なのである。
御書に仰せの通り、学会指導の通りに戦い切れば、必ず自他ともに幸福になれると確信して実践していくなかに「有信無解」「有信有解」の信心が脈打つのである。


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862万遍達成

4年と3カ月余りで唱題862万遍を達成しました。
唱題表は前回の写真から追っていくと、3枚にまたがりました。
昭和60年夏からの通算では、3,400万遍に突入しました。

唱題862万遍1

唱題862万遍2


上げただけの手ごたえは十二分に感じています。
最も簡単なようでいて、最も難しいのが題目です。
祈りとして叶わざるなしの題目です。
顕益と冥益の二通りの叶い方のある題目です。

自分の思いの丈【たけ】の全てを題目に包んで御本尊にぶつけて、どういう結果が出るか実験証明するのみです。
当面の目標は5年で1,000万遍です。

池田先生のため、創価学会のため、会員のために実証を示し切れる自分に、断じて人間革命していきます。



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