念仏無間地獄(7)

ここまで6回にわたって、様々な角度から念仏無間について述べてきた。
ここでさらなる補足と一応のまとめをしておこうと思う。

念仏を唱える人は、死んだら西方極楽浄土へ生れることができると信じ、「厭離穢土欣求浄土」-おんりえど・ごんぐじょうど と言って、苦悩の充満した現実世界を汚れた「穢土」として嫌い、遠い世界すなわち死んだ後の「あの世」に浄土を求める。

この考え方は、現実逃避やあきらめといった強い「無気力」を起こさせ、目の前の課題に対して積極果敢に取り組んでいこうとの生命のエネルギーを蝕【みしば】み奪い取ってしまう。
現実を変革していく生命力を枯渇【こかつ】させ、何をやっても不完全燃焼であり充実が無く、フラストレーションが溜まるだけの、人生の時が延々と続くのである。

「現実変革できず現実逃避」
「現実に対する不満とあきらめ」
これが念仏無間地獄がもたらす生命の害毒である。
ではこの悪しき傾向が生じる根本の理由は何であろうか。

それは我々とは縁もゆかりもない遠い遠い他土の仏=阿弥陀如来を、本尊としたことから一切の誤りが起こったのである。
権教(仮の教え)の仏である阿弥陀仏に執着し、この現実世界の仏である釈尊をないがしろにし捨てた謗法により、無間地獄の罪業が生じる。
末法では釈迦仏法は功力を失っているので、末法の御本仏・日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経を捨てて、念仏に執着することが大謗法となるのである。

念仏宗にはさらに決してごまかしのきかない自己矛盾がある。
それは浄土三部経の1つである無量寿経で、法蔵菩薩が四十八願を成就して阿弥陀如来になったのである。
四十八願の内第十八願で、衆生が極楽往生を願って自分の名を称【とな】えれば、直ちに往生させるが、ただし五逆罪を犯した者と誹謗正法の者を除くと誓言している。

つまり、どれだけ念仏を唱えても誹謗正法、すなわち法華経を誹謗する者は、念仏の目的である極楽往生は絶対に不可能なのである。
どうしてこうなるかというと、念仏は法華経が説かれる前の方便の教えであるからで、法華経が説かれる以前では念仏は(仏法の部分観として)それなりの功力があったのである。
しかし、釈尊の出世の本懐たる法華経が説かれた後では、正直に方便を捨て、ただ無上道を説く、と仏自ら宣言して法華経を説いたのであるから、念仏などの方便は潔く捨てなければならないのである。
それをいつまでも方便に執着することは、人生と社会において一切の混乱・不幸の根本原因となってしまうゆえに、大聖人は「一凶を禁ぜよ」と念仏宗を断破したのである。

これに対し、大聖人の仏法の正統である創価学会の題目は、真実の仏の生命力と自在の仏力・法力を、自分の胸中から涌現し現わす、無眼のパワーの源である。
いかなる困難も、あたかもサーファーが波乗りを楽しむが如く、悠々と乗り越えていくことができる自己を築くための信仰である。
そして目前の課題に積極果敢に挑戦し、苦悩に満ちた問題の多い現実社会を、自らの人間革命を通して根底から変革していくことができる。
その目覚めた人々の林立が、「裟婆即寂光」 「衆生所遊楽」 と法華経にあるように、この現実世界を真の平和で安穏な楽しみに満ちた世界に変えていくのである。

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尊厳への道――人権教育の力

本日付の聖教新聞にSGIの日記念提言「2030年へ 平和と共生の大潮流」が発表されました。
その中で紹介されている映画を次に紹介します。
画面下部コントロール部分のCCと書いてあるボタン(または白い四角)をクリックすると、日本語字幕が表示されます。

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念仏無間地獄(6)

さらに解りやすい例を挙げて、念仏の害毒と法華経の功徳を比較相対しよう。
それはある大学院生が興味深い研究をしたそうだ。
実験用のネズミを5匹ずつケージに入れて、まったく同じ条件の2組を用意した。

ここからが面白いのだが、その2組のネズミたちにあるテープを聞かせたというのだ。
一方には念仏を唱えているテープを聞かせ、もう一方には創価学会員が南無妙法蓮華経の題目を唱えているテープを聞かせたのだ。
どちらも1日12時間、毎日聞かせたそうだ。
すると10日後それぞれのネズミはどうのようになったか。
非常に興味深い結果が出たのだ。

念仏を聞かせた方の5匹は、病気にかかり3匹が死んでいた。
生き残ったものも、だいぶ弱っていたそうだ。
これに対して南無妙法蓮華経の題目を聞かせた5匹は、皆、ぴょんぴょんと元気よく飛び回っていただけでなく、子どもを生んで数が増えていたのだ。

宗教の正邪と幸・不幸は、言葉の意味も深い教義も理解できずとも、生命あるものに厳然と現れるという現証を語って余りある事例である。
大聖人は「念仏の哀音【あいおん】」と仰せである。
現実世界の苦悩をどうにもできず、受動的に哀しむだけの念仏の哀音、その対極にある、あらゆるものを蘇生し、繁栄させゆく絶大な力を持つ妙法、両者の功徳と罰はネズミであっても明確に現れるのである。

大確信をもって「月々日々に」強盛に実践しゆく学会員の、功徳と福運がどれほど凄いか、いよいよこれからが楽しみに思うのは私だけではあるまい。

(※上記の実験での日数や時間、ネズミの数などの数字は、伝聞時の記憶によるもので、正確な数字と異なる場合があるかもしれません)

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念仏無間地獄(5)

念仏宗の人は臨終の相が悪いと、大聖人は仰せです。
悪い腫物(はれもの)などの重病が多く、特に臨終に狂乱すると仰せです。
狂乱とは、死に臨んで正念が保てず、心が顛倒(てんどう)し心が錯乱するので、おめき叫んだり狂乱の姿を現じるのでしょう。

十悪五逆を作らざる当世の念仏の上人達並に大檀那等の、
臨終の悪瘡(あくそう)等の諸の悪重病並に臨終の狂乱は意を得ざる事なり、

而るに善導和尚の十即十生と定め又定得往生等の釈の如きは疑無きの処に、
十人に九人往生すと雖も一人往生せざれば猶不審発る可し、

何に況や念仏宗の長者為る善慧・隆観・聖光・薩生・南無・真光等・皆悪瘡等の重病を受けて臨終に狂乱して死するの由之を聞き又之を知る、
其の已下の念仏者の臨終の狂乱其の数を知らず、

善導和尚の定むる所の十即十生は闕(か)けて嫌える所の千中無一と成んぬ、
千中無一と定められし法華真言の行者は粗ぼ臨終の正念なる由之を聞けり、
(御書p.105~)

次の御書は、中国で浄土宗を大成させた善導の臨終について描写した御文です。
善導は、柳の枝に首をくくって自殺しようとしますが、枝が折れ、折からの干ばつでカチカチに硬くなった地面で腰骨を砕きます。
七日七夜の間、のた打ち回り、おめき叫びて、死んでいったのです。
このことを通して大聖人は、念仏の弟子であるなら、師匠が行なった如く、弟子も自害するのでなければ、師に背く咎(とが)があるのではないかと、痛切に破折されます。

多宝如来の皆是真実の証明の御言 妄語と成るか、
十方諸仏の上至梵天の広長舌も破られ給ぬ、
三世諸仏の大怨敵と為り十方如来成仏の種子を失う大謗法の科甚重(とが・はなはだ・おも)し、
大罪報の至り無間大城の業因なり、

之に依つて忽(たちまち)に物狂いにや成けん
所居の寺の前の柳の木に登りて自ら頚(くび)をくくりて身を投げ死し畢(おわ)んぬ
邪法のたたり踵(きびす)を回(めぐら)さず冥罰爰(みょうばつ・ここ)に見たり、

最後臨終の言に云く此の身厭(み・いと)う可し諸苦に責められ暫くも休息無しと
即ち所居の寺の前の柳の木に登り西に向い願つて日(いわ)く
仏の威神以て我を取り観音勢至来つて又我を扶(たす)けたまえと唱え畢(おわ)つて
青柳の上より身を投げて自絶す云云、

三月十七日くびをくくりて飛たりける程にくくり縄や切れけん
柳の枝や折れけん
大旱魃(だいかんばつ)の堅土(かたつち)の上に落て腰骨を打折(うち・くじき)て、
二十四日に至るまで七日七夜の間 悶絶躄地(もんぜつびゃくち)しておめきさけびて死し畢(おわ)んぬ、

さればにや是程の高祖をば往生の人の内には入れざるらんと覚ゆ
此事全く余宗の誹謗に非ず法華宗の妄語にも非ず
善導和尚自筆の類聚伝(るいじゅでん)の文なり云云、

而も流を酌む者は其の源を忘れず法を行ずる者は其の師の跡を踏む可し云云
浄土門に入つて師の跡を踏む可くば
臨終の時 善導が如く自害有る可きか、
念仏者として頚(くび)をくくらずんば師に背く咎(とが)有る可きか如何。
(p.99~)

3つめの御文は、念仏宗という悪法は唱えれば唱えるほど、自害の心、すなわち自殺の心が出てくると、その害毒の恐ろしさを仰せです。
念仏が流布した鎌倉時代には、入水自殺が流行ったそうです。
世を儚(はかな)み、あちこちで海に入っていく自殺者が急増しました。

念仏宗と申すは亡国の悪法なり、
このいくさには大体人人の自害をし候はんずるなり、
善導と申す愚癡の法師がひろめはじめて 自害をして候ゆへに
念仏をよくよく申せば自害の心出来し候ぞ。
(p.1509)

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念仏無間地獄(4)

ではここから彼らの邪義を破折していきたい。
まず、念仏も同じ釈尊が説いた仏説ではあるけれども、あくまで方便の教えに過ぎないこと。
釈尊の出世の本懐は法華経以外にないことを、家を建てる時の足場(ここでは足代【あししろ】と表現している)を方便に譬えてご教示されたのが、次の御文である。

此の四巻三部の経は全く釈尊の本意に非ず
三世諸仏出世の本懐にも非ず、唯暫【ただ・しばら】く衆生誘引の方便なり。

譬えば塔をくむに足代をゆ(結)ふが如し、念仏は足代なり、法華は宝塔なり、
法華を説給までの方便なり、法華の塔を説給て後は念仏の足代をば切り捨べきなり、

然るに法華経を説き給うて後念仏に執著するは、塔をくみ立て後足代に著して塔を用【もちい】ざる人の如し、
豈違背【あに・いはい】の咎無【とが・な】からんや、

然【しか】れば法華の序分 ・無量義経には、四十余年未顕真実と説給て、念仏の法門を打破り給う、
正宗法華経には正直捨方便・但説無上道と宣べ給て念仏三昧を捨て給う、

之に依て阿弥陀経の対告衆 長老・舎利弗尊者・阿弥陀経を打捨て法華経に帰伏して華光如来と成り畢【おわ】んぬ、
(御書p.98)

家を建てるために足場を組みますが、いったん家が完成してしまえば足場にもう用はありません。
家に住まい使うためには、足場は却って邪魔にさえなります。
ですから足場は撤去して使わないのが正しいあり方です。

あくまで念仏は方便の教え(足場)であり、法華経を説くための準備であり、機根を整え、法華経の入り口まで導く役目だったのです。
ですから法華経が説かれた後は、念仏等の権教に執着してはならないのです。
あろうことか方便の教えに執着して、法華経を誹謗することの愚が、これにより明らかです。

御文の後半では、阿弥陀経が説かれた時の対告衆であった舎利弗は、正直に方便の念仏を捨てて法華経により、華光如来という仏になったのです。
このことに関連して、御書の他の御文には、阿弥陀如来自身の成仏についても言及されています。

それは阿弥陀如来自身も念仏により成仏したのでなく、法華経により成仏したのです。
三世十方のあらゆる仏を成仏させた根本の種子は、法華経なかんずく南無妙法蓮華経なのです。

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